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No.132 点滅する境界、あるいは歌姫の捕食




 No.132 点滅する境界、あるいは歌姫の捕食




 それは音の嵐、と表現するほかなかった。


 あまりに長く、執拗なイントロ。


 宇賀たちの奏でる旋律は、聴く者の焦燥を裏側から逆撫でするように鋭く、それでいてどこか世界の調律が狂っているかのような、背徳的な危うさを孕んでいる。


 初めてその音に触れる観客たちは、鼓膜を震わせる異質な振動にどう反応すべきか図りかねたように、困惑と期待が入り混じった不穏な表情を浮かべていた。


 「『……なんか、トラブルかしら。ほら、コタロー以外のメンバーが何度もコタローに目配せしてる。……でも、彼女だけが全く動じてないのよね』」


 まどかの指摘通り、楽器隊のメンバーは不安げな視線を幾度もドラムスへと送っている。


 だが、宇賀はその都度、牙を剥くような不敵な笑みを浮かべ、問題ないと言わんばかりに力強い頷きを返していた。


 彼らは待っているのだ。鮫島汐音という名の飢えた歌姫(サメ)が、今この場にいる観客(獲物)の精神を食らい尽くし、音の海を血に染める瞬間を。


 その瞬間は、唐突に訪れた。


 駄菓子屋で十本の戻し笛を吹き切った、あの異常な肺活量。


 鮫島は肺に溜まった全ての酸素を火薬に変えるかのように、マイクへと己の魂を叩きつけた。


 「――昨日を殺して!!」


 その一撃で、会場の空気は臨界点を超えて爆発した。


 宇賀は待っていましたとばかりにギアを一段引き上げ、地響きのような高速ビートで彼女の声を背後から猛烈に押し上げる。


 真は、目の前で展開される狂気の光景を網膜に焼き付けながら、冷静に思考の演算を続けていた。


 世間一般で定義される『良い曲』だとか、『技術的な巧拙』といった評価基準は、今の真には一切機能しない。


 ただ、一つだけ明確に読み取れるログがあった。


 宇賀たちは、鮫島を支えているのではない。


 彼らは、たった一人で奈落へ向かって暴走する彼女の歌声に、振り落とされまいと必死に食らいついているのだ。


 一歩でも演奏を違えれば、音の急流に呑み込まれて精神ごと散り散りになる。


 そんな崖っぷちの緊張感が、旋律に殺気にも似た熱を与えていた。


 「『凄いわ……!  凄いよ、これ!  まこと、聴いてる!?  魂が揺さぶられるって、こういうことなのね!』」


 隣では、まどかが自身が実体のない幽霊であることを忘れたかのように身を乗り出し、その音の奔流に身を委ねて熱狂している。


 一方で真は、彼女の絶唱から零れ落ちる歌詞の断片を、純粋な情報の塊として受信し続けていた。




 ※『点滅する今』


 塗りつぶされた昨日の足跡

 振り返れば 泥濘ぬかるみに沈むだけ

 期待という名の毒を孕んだ

 明日の夜明けなんて 二度と来なくていい


 思い出は 首を絞める鎖

 希望は 眼を焼く眩しすぎる光

 いらない 全部いらない

 吐き出した息の 白さだけでいい


 昨日を殺して 明日を捨てて

 この一秒だけを 肺に満たして

 終わりのない苦しみに ただもがきながら

 「今日」という境界線の上で

 私は 辛うじて 生きている


 正しさなんて どこにもなかった

 優しさなんて 形を変えた凶器だ

 心臓の音だけが 耳元でうるさい

 止まれば楽なのに まだ熱を離さない


 あの日見た夢も いつか来る救いも

 今の私には 遠すぎるノイズ

 ただ この痛みだけが

 私がここにいる 唯一の証明


 昨日を殺して 明日を捨てて

 この一秒だけを 肺に満たして

 終わりのない苦しみに ただ踠きながら

 「今日」という境界線の上で

 私は 辛うじて 生きている


 明日なんて いらない

 昨日なんて 忘れた

 今日だけ 今日だけあればいい

 それだけで……

 それだけでいいから。




 歌い終えた鮫島の肩が、激しく、不規則に上下している。


 彼女は今、この一曲の間だけ、確かに「期待」や「過去」という名の鎖から逃れていた。


 死んだように浪費されるだけの日々を、その圧倒的な声という暴力で塗りつぶしていた。


 真の右目が、リベレーターの力は発動していないのにも関わらず、熱狂に沸くライブハウスの中で静かに、そして激しく明滅を始める。


 鮫島の放つ『拒絶』の波動――それは、街を覆う『秩序』や『規律』といった論理と真っ向から衝突し、目に見えない火花を散らしながら、周囲の空間定義を書き換えていく。


 それは、真がかつて経験したことのない、最も純粋で、最も暴力的な『生の肯定』の感覚(ログ)であった。


 真は無意識のうちに、自身の右目を強く押さえていた。


 その疼きは、痛みというよりは、未知の回路が接続されたことへの歓喜の産声のようだった。


 













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