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No.135 五月の凪、あるいは休息の定義




 No.135 五月の凪、あるいは休息の定義




 

 連休も折り返しとなる今日。


 カレンダーの空白を埋めるように、街の喧騒は最高潮を迎えようとしていた。


 しかし、繭住家のリビングには、外の世界の浮足立った空気など微塵も感じさせない、いつもと変わらぬ規則正しい朝の時間が流れていた。


 真はいつもの時刻に目覚め、迷いなく朝のルーティンを遂行していく。


 栄養バランスを計算した朝食を支度し、寸分の狂いもなく掃除機をかけ、今日一日のタスクを脳内のチェックリストに書き込む。


 そんな、自身を精密機械として扱うような弟の規律正しさを見かねたのか、背後でまどかが、この世の終わりかというほど大袈裟な溜息をついた。


 「『まこと……美弥ちゃんを引き合いに出すのもどうかと思うけどさ。少しは自堕落っていう概念を学んだらどうなの? 毎日毎日おさんどんやって、学校行って、休みになったらボランティア……鉄人か! あんたは21世紀の鉄人か!』」


 まどかは、真の身を案じるように言葉を重ねる。


 だが、その語気が不意に、何かに憑依されたかのように鋭くなった。


 「『――これはお姉ちゃん、繭住まどかの命令よ! 宿命の楔に囚われし、我が弟、繭住まことよ、貴様は今日一日、休息という名の安寧を享受せよ……ッ!』」


 言い放つと同時に、まどかは左手を大きく広げて右顔半分を覆い、右手は真正面へ突き出した後、空を切り裂くように水平に薙いだ。


 その指先まで力が入ったその構えは、間違いなく昨夜、美弥が深夜に画面越しに叫んでいたダークファンタジーの『革命の体現者』そのものの決めポーズだった。


 真は、手を休めることなく、網膜の隅で展開される姉の痛々しいパフォーマンスを捉えた。


(……美弥さんの悪影響が、物理法則すら超えて死者にまで伝染するとは。この家に漂う「非日常」は、僕の論理的な予測を超えた不治の病のようなものらしい)


「『……まことが今、ものすごく残念な生き物を見るような目をした。今思ったでしょ。ねえ、お姉ちゃんを「手遅れな子」として処理したでしょ! まこと!』」


 まどかの図星を突いた叫びを意識の外へ追いやり、真は最後の一皿をテーブルに置いた。


 命令に従うつもりは毛頭なかった。


 しかし、昨日スーパーで見かけた、あの「規律」の光すら届かない『白い影』が、澱のように脳裏に沈殿しているのも事実だ。


 人の(希望)が強ければ強いほど、街の隅々に落ちる(欲望)は濃く、そして深くなっていく。 


 「今日は街を散策する」と、真がボランティアではなく、自身の目的のために動くことを示唆すると、まどかは「『やっとその気になった!』」と、先程の決めポーズのまま嬉しそうに宙を舞った。


 まどかの言葉に背中を押される形で街へ出たものの、真の「散策」は早々に当初の目的を失っていた。


 効率的なルートを選ぼうとする真の思考を嘲笑うかのように、実体のない姉はあっちへこっちへと、無邪気に指を差して彼を迷わせる。


 「『まこと、こっちよ! ほら、なんかあの路地の先、不思議な匂いがしない? こっちこっち!』」


 普段の通学路でも、スーパーへの買い物ルートでもない、見知らぬ路地裏。


 地図アプリの最短距離を無視し、無目的で行き当たりばったりな行軍を強いるまどか。


 論理的思考を尊ぶ真にとって、この非効率の極みとも言える散歩は、肉体以上に精神を削る作業のはずだった。


 そうしてたどり着いたのは、街の喧騒から膜一枚隔てて切り離されたような、小さな公園だった。


 遊具の一つもなく、塗装の剥げた古びたベンチがぽつんと置かれているだけの広場。


 だが、周囲を囲む深い新緑の林が、そこへ心地よい静寂を閉じ込めていた。


 五月の柔らかな木漏れ日が、斑模様を描いて地面を揺らしている。


 真は促されるままベンチに腰を下ろし、ゆっくりと重い瞼を閉じた。


 深く、肺の奥まで空気を吸い込む。


 熱を持っていた思考の回路が、冷たい大気と静寂によって静かに冷却されていく。


 (……僕は、思った以上に焦っていたのかもしれない)


 見えない敵。


 老婆の言葉。


 スーパーの影。


 自分だけが真実を綴る「リベレーター」であり、異変に対処できるのは自分しかいないという傲慢にも似た強迫観念。


 それが、無意識のうちに真の心を磨耗させ、視界を狭めていたのだ。


 起きる事象に備えるのは当然だが、まだ見ぬ影に怯えて神経を尖らせるのは『心構え』ではない。


 何が起きても、それを受け止め、解体できる自分でいること。


 まどかの無目的で強引な散策は、結果として、真の視野を覆っていた「焦燥」という名のノイズを払い除けてくれた。


 相手が誰なのか。何を仕掛けてくるのか。


 自分だけが真実を知るリベレーターであり、何か起きた際に対処できるのは自分しかいないという強迫観念。


 それが、無意識のうちに真の心を磨耗させていたのだ。


 「……ありがとう」。真は隣に浮遊する姉へ、小さく、だが確かな温度を込めて言葉を紡いだ。


 「『へっ?  なに!?  いきなり……お姉ちゃん、何かしたっけ?』」


 まどかは心底困惑したように目を丸くしている。


 真はそれ以上何も語らず、静かにベンチから立ち上がった。


 右目の奥にある『真実』を綴る力は、まだ静かに眠っている。


 だが、今の真の心は、先程までの張り詰めた緊張とは違う、澄み渡った静謐さを取り戻していた。


 「散策を続けよう」真はそう口にする。


 「『ええっ、急にやる気出してる!?  よーし、次はあっちのデパートの方、行ってみようよ!』」


 再び歩き出した真の足取りに、もう先程までの迷いはない。


 五月の風が、新緑の匂いを連れて、彼の横を軽やかに通り過ぎていった。















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