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No.136 主婦たちの聖域、あるいは忍び寄る獣




 No.136 主婦たちの聖域、あるいは忍び寄る獣




 連休二日目。


 この家の時計は、精密機械のように正確な時を刻む真のバイオリズムと、底なしのカオスに沈んだ美弥のそれとで、完全に二分されていた。


 真はいつも通りに目覚め、カーテンの隙間から差し込む朝日を浴びて、静かに朝食を摂る。


 一方、保護者であるはずの美弥は、二日目にして生活リズムが完膚なきまでに崩壊していた。


 昨日の夕方頃に地縛霊のようにのろのろと起き出し、朝方に「キツネさんめ、私だってやれるんだから……」と、寝言とも呪詛ともつかぬ呟きを残して泥のように眠りにつく。


 真は美弥に対し、少しは陽の光を浴びてはどうか、生活リズムの崩壊は仕事始めの認知機能に支障を来すのではないか、と正論の礫を投げた。


 だが、寝室から這い出してきた髪をボサボサに乱した彼女から返ってきたのは、現実を完全に放棄した虚ろな返答だった。


 「ダイジョブでござるよ……拙者、忍ゆえ。これしきの徹夜、拙者特性兵糧丸を食べれば、ステータスアップとバットステータスを一緒に取れて、一粒で二度美味しいでござるよ。にんにん……」


 (……あなたの職業は忍者ではなく、カウンセラーだったはずですが、あとその兵糧丸は危険物です。早急に破棄してください)


 どうやら、プレイ中のゲーム内でのロールプレイが、現実の境界線を侵食し始めているらしい。真は冷めた眼差しで「忍(自称)」を見つめたが、これ以上干渉してもリソースの無駄であると判断し、放置を決定した。


 「『いいじゃない、まこと!  美弥ちゃんだってたまには汚れた現実から逃避したいのよ。お姉ちゃんは、その「にんにん」っての、あざと可愛くてアリだと思う!』」


 宙を舞うまどかが美弥の頭上で印を組むポーズを真似ているが、当然、美弥には見えていない。 


 真は作り置きの食事をテーブルに並べると、自分の鞄を手に取った。


 窓から差し込む陽光は昨日と変わらず穏やかだが、真の脳裏には、昨日老健施設で聞いた老婆の言葉が、消えない染みのように残っている。


 (ご両親の仲が悪い、悲しい目をした子か……)


 「にんにん」と呟きながら二度寝を始めた美弥の背中を見送りながら、今日のボランティア活動の場所へ向かうため、真は家を出る。


 賑わいを見せる街のどこかで、昨日感じた『ノイズ』が実体を持ち始めているような、嫌な予感が拭えなかった。


 本日のボランティア活動は、近所のスーパーでの棚卸し……のはずだった。


 だが、どういうわけか真は今、バックヤードの調理場で、白刃のような出刃包丁を握り、手際よく魚を捌く作業に没頭していた。


 「『適材適所ってやつじゃない? まことの細い腕じゃ、重い荷物の上げ下ろしは……うん。お姉ちゃん無理だと思うのよ』」


 まどかの言葉には同意せざるを得ない。真は無言で包丁を走らせる。


 鱗を剥ぎ、頭を落とし、内臓を抜く。


 一連の動作に淀みはない。


 真の指先は、まるで魚の構造ログを読み取っているかのように正確に骨の隙間を通り、均整の取れた三枚おろしを量産していく。


 手際よく処理を施していく真。


 しかしいつもは側にいるまどかの姿は調理場には居なく、売り場の方から声だけが聞こえてくる。


 「『え? だって魚って目が怖いじゃない。こう、ギョロっとしてて……まことはよくそんなの捌けるわよね』」


 幽霊のくせに何を言っているのか。


 一尾、まどかの目の前で鮮やかに捌いてやろうかという悪戯心が脳裏を掠めたが、食べ物を粗末にする趣味はない。


 真は無言で包丁を走らせ、均整の取れた切り身を次々と作り上げていった。


 午後になっても、真が重いダンボールを運ぶことはなかった。


 代わりに真に与えられた次なる任務は、売り場での「新商品・香味焼き」の試食販売員だった。


 「『まこと……笑顔よ、笑顔!  そんな無表情で突っ立ってたら、お客様なんて寄ってこないわよ……って、なんで寄ってくるの!?  あれ!?  まことの料理の腕に釣られてるの!?  さすが主婦たち、侮れないわね……!』」


 背後でまどかが驚愕の声を上げているが、真は淡々とホットプレートを操っていた。


 ホットプレートの上では、脂の乗った切り身がパチパチと音を立て、香ばしい醤油と生姜の香りを周囲に撒き散らす。


 端正な顔立ちの少年が、プロ顔負けの手捌きで料理を振る舞う光景。


 それは、買い出しに疲れた主婦たちの目を引くには十分すぎるインパクトがあった。


「あら、上手ねぇ。これ、味付けはどうなってるの?」


 醤油二、みりん一、隠し味にこちらのバルサミコ酢を数滴。


 揮発した酸味が脂の重さを中和し、最適化された味わいになりますと、真が淡々と、けれど淀みなく差し出す試食の皿。


 それは、彼が意図せずとも「有能な少年への庇護欲」と「確かな味」の両面で主婦たちの財布の紐を破壊していった。


 スーパーの店長は、ボランティアの域を超えた異常な売上グラフに狂喜乱舞し、真を夕方のピーク時まで店頭に立たせ続けた。


 賑わう売り場。買い物カートがぶつかり合う音と、子供の泣き声。


 だが、そんな喧騒の真っ只中で、真の右目が不意に、氷を押し当てられたように冷たく疼いた。


(……まただ)


 笑いながら精肉コーナーへ向かう親子連れ。


 その幸せそうな背後を、ふらりと、不自然なほど気配を消して通り過ぎる、獣のような『白い影』。


 昨日、老婆が言っていた不確定データが脳内でリフレインする。


 ――悲しい目をした子。


 真は試食のトングを握ったまま、人混みの奥、色鮮やかな商品棚の隙間へと視線を投げた。


 そこには、獅子井志那都が掲げる「規律」の光も、五月の柔らかな陽光も届かないような、どろりと濃い闇の欠片が漂っている気がした。










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