No.137 五月のノイズ、あるいは不在の子供
No.137 五月のノイズ、あるいは不在の子供
五月の大型連休が始まった。
カレンダー上の数字が赤く染まり、街全体がどこか浮足立った、湿り気のある高揚感に包まれる。
そんな中、この家の朝は至って静か……というより、時間の流れが澱み、停滞していた。
真はいつも通りの時刻に目覚め、キッチンに立って手際よく朝食を仕上げる。
だが、食卓に並べられた皿は一枚だけだ。
保護者であるはずの美弥は、連休に入った瞬間、趣味のオンラインゲームに埋没。
案の定、深夜から夜明けにかけて戦場を駆け、今は死んだように眠る「昼夜逆転」の生活へと突入していた。
(……あの人は、本当に保護者なのだろうか)
真は内心で溜息をつき、美弥が起きてから食べられるよう、作り置きの料理を丁寧にラップして冷蔵庫へ収めた。
「『あーあ、美弥ちゃんたら相変わらずだよねぇ。まことがこんなに良いお嫁さん候補なのに、もったいない!』」というまどかの野次を無視しながら、真は軽く家内の清掃を済ませ、早々に家を出た。
向かった先は、連休前に告知されていたボランティア・依頼の活動現場。
市街地の外れ、古い松の木々に囲まれた老人保健施設。重々しい鉄筋コンクリートの建物が、五月の陽光を吸い込んで沈黙していた。
施設に到着すると、そこには真以外にもポイント目的の学友たちが数人集まっていた。
しかし、その顔ぶれの中に、真は予期せぬ小さな姿を見つける。
「……あ、お兄さん! おはようございます。お兄さんもボランティアですか」
弾んだ声でこちらに手を振っていたのは、以前の学外清掃で出会った小学生、祈里寧々子だった。
傍らには、友人であるサキも少し眠そうに瞼を擦りながら立っている。
「『きゃーねねちゃん。相変わらずカワイイねー。お姉ちゃんが良い子良い子してあげる♪』」
まどかが嬉々として祈里の側へ滑り込み、その頭を愛おしそうに撫でる。
だが、彼女は肉体を持たない。
愛撫の手は祈里の脳天を無慈悲に貫通し、首のあたりを透けて揺れている。
傍目には、幽霊によるポルターガイスト現象のような不気味な光景だったが、幸いにも真以外にそれを見る者はいない。
祈里たちとの再会。
以前なら単なる偶然として片付けられたはずの光景が、今の真には少しだけ違って見えていた。右目の奥が疼くことはない。
だが、大口一子の一件を経てしまった以上、目の前のいたいけな少女たちさえも、何らかの歪みを抱えた「想像主」予備軍ではないかと、拭いきれない疑念が意識の淵に沈殿していた。
老健施設でのボランティアの活動内容は、施設の清掃と利用者との交流。
真は迷うことなく「清掃」を申し出た。慣れた手付きで研磨剤を扱い、洗面台の頑固な水垢を削ぎ落とすし、トイレの床を無機質なほど白く拭き上げる。
美弥という「不全な大人」の世話で磨き抜かれた家事スキルは、周囲の学友たちが慣れない雑巾絞りに悪戦苦闘するのを余白に、圧倒的な効率を発揮していた。
「『まこと、お仕事早すぎ! 掃除のプロになれるんじゃない? お姉ちゃん誇らしいわ!』」
背後で燥ぐまどかの声を無視し、真は淡々と作業をこなしていく。
一方で、ボランティアに参加していた祈里たち小学生組は、清掃ではなく、利用者たちの『話し相手』を主なタスクとしていた。
彼女たちの周囲からは絶えず無邪気な笑い声が上がり、施設内には連休らしい穏やかな、それでいてどこか「作り物」のような空気が流れていた。
やがて午前中の活動が終わり、小学生組は解散となった。
残った高校生たちがメインとなって対話にあたる時間になると、重労働から解放された学友たちの気が緩んだのか、談話室の空気はぼんやりとした、夢の続きのようなテンポへと変わっていった。
真もまた、車椅子に座った一人の老婆の正面に腰を下ろし、静かに言葉を交わしていた。
「……あら。さっきの子は、もうどこかへ行ってしまったのかね?」
老婆が不思議そうに周囲を見渡し、真に問いかけてきた。
さっきの子、とは誰のことかと真が尋ね返すと、彼女は深い皺の寄った手で、誰もいない空間を指した。
「ほら、さっきまで、そこで一生懸命お話ししてくれた子よ。最近ご両親の仲が悪いって、今にも泣き出しそうな顔で、寂しそうに話していた子……」
真は記憶のアーカイブを高速で検索する。
午前中に老婆の周囲にいたのは、祈里やサキ、そして数人の男子生徒だけだったはずだ。
だが、そんな「家庭の不和」という重い身の上話を、この晴れやかなボランティアの場で漏らしていた子供など、記憶のどこにも存在しない。
「誰かと間違いては?」と真は穏やかに、けれど論理的に返答を返した。
「そうかねぇ。とても悲しい目をしていたから、よく覚えているんだけどね。その子、私があげた飴玉を、ずっと握りしめていたわ……」
老婆の手元を見れば、確かに包装紙が一つ、膝の上に落ちていた。
認知症による幻視か、あるいは過去の記憶との混同か。
真はそう結論づけ、残りの時間を平穏な対話でやり過ごした。
何事もなく、本日の活動は終了した。
施設を出る際、真は一度だけ足を止め、夕闇の紫に溶けかかった建物を振り返った。
右目の奥に、痛みはない。
けれど、老婆が語った『悲しい目をした子』という情報が、本来存在しないはずの「不確定データ」として、真の意識の底にこびりついて離れなかった。




