No.138 薫風の亀裂、あるいは規律のポニーテール
No.138 薫風の亀裂、あるいは規律のポニーテール
四月が駆け足で過ぎ去り、季節は足早に五月の大型連休――ゴールデンウィークへと向かっていた。
校庭の木々は鮮やかな若葉を揺らし、窓から入り込む風には、春の終わりと初夏の予感がいっぺんに混ざり合っている。
あの日、昇降口で真の視界を焼き切らんばかりに襲った右目の激痛は、あれきり沈黙を保っていた。
解析機能も、世界を解体するモノクルも起動しない右目は、今はただ、穏やかな春の光を透過させるだけの無機質な硝子玉に過ぎない。
真はあの痛みを思考の海の片隅に追いやりながらと、日常の平穏な学院生活のルーチンを消化していた。
そんな連休を目前に控えたある日、学院の電光掲示板や学生たちが持つ携帯端末に、学生会から『連休特別ボランティア依頼』の告知がなされた。
参加すれば高ポイントが加算されるとあって、教室内は「効率的に稼げるか」「連休を潰す価値があるか」という、この学院特有の打算に満ちた話題で持ちきりになっていた。
昼休み、後ろの席で何やら熱心にビラを数えていた宇賀に、真はごく自然に宇賀は参加しないのかと疑問を投げかけた。
こうした高ポイントの依頼なら、真っ先に飛びつく案件だと思っていたからだ。
「ん? ああ、俺、ミュージシャン目指してっからさ。連休中はライブハウスで曲やっから忙しいのよ。……あ、そうだ。まこと、よかったら見に来ねぇか?」
宇賀は「ニカッ」と、どこか計算高いが憎めない笑みを浮かべると、真の鼻先に、蛍光色でデザインされた派手なチケットを差し出してきた。
もちろん、友人価格の招待枠などという甘い話ではない。
「ノルマ分、売り捌かなきゃなんねぇんだ。ダチだと思って頼む! 買ってくんねぇか、この通りだ! 親にこれ以上の借金をしたくねぇんだよ」
なりふり構わず両手を合わせ、拝み倒してくる友人の卑屈なまでのバイタリティ。
真は内心で重い溜息をつき、自らの財布を取り出した。
宇賀という男の、この図々しさに裏打ちされた「生存戦略」は、嫌いではない。
だが、真からチケット代をせしめたことで、彼の「商魂」に火がついてしまったのが運の尽きだった。
「よっしゃ、この勢いで二年を制覇してくるぜ!」
宇賀が鼻息荒く立ち上がり、クラス中に「特別先行販売」と称してチケットを触れ回ろうとした、その瞬間。
教室の入り口に、その人が現れた。
「――学院内における無許可の物品売買および金銭授受の現行犯。その行為は明確な規律違反だ、ならば次に来るべき言葉はわかるな、宇賀琥太郎」
教室の喧騒が、まるで録音テープを止められたかのように、一瞬で氷点下まで凍りついた。
入り口に立っていたのは、一分の隙もなく着こなされた制服に、背中で鋭く揺れるポニーテール。すべてを射抜くような、絶対的な正義を宿した冷徹な瞳。
教室の空気が、一瞬で氷点下まで凍りついた。
学院風紀維持局──規律局長、獅子井志那都。
「あ、足音は聞こえなかったはず……ひっ、し、獅子井局長……! 違うんだ、これはその、文化交流の一環で……」
「言い訳は反省房で聞こう。連行しろ」
獅子井の冷徹な号令と共に、背後に控えていた規律局のメンバーたちが一斉に宇賀を取り押さえる。
「反省房は嫌だぁー! 助けてくれ、まことぉー!」と情けない絶叫を響かせながら、床を蹴って引きずられていく宇賀。
クラスメイトたちは、もはや助ける術がないことを悟り、遠ざかっていく犠牲者の背中に向けて、静かに、そして敬虔に合掌を捧げた。
「『……まこと。コタロー連れてかれちゃったね』」
隣で浮遊しながら、今の騒動を映画でも見るように眺めていたまどかが、ポツリと呟いた。
真は宇賀の叫びを耳の奥に追いやり、手元に残された一枚のチケットを見つめた。
指先に残る、派手なインクの感触。
平穏だと思っていた日常の表面に、また一つ、見えないほどの小さな亀裂が走り、そこから冷たい風が吹き込んできたような気がした。




