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No.139 識蘊の箱庭、あるいは再演の予兆




 No.139 識蘊の箱庭、あるいは再演の予兆




 世界を嘘で塗り固めようとした虚構の世界は崩壊し、十王市には再び、停滞した川の水のように代わり映えのしない日常が訪れた。


 いつもと変わらない時間に目覚め、結露した窓の向こうに広がる街を眺めてカーテンを開ける。


 キッチンに立ち、トーストが焼ける香ばしい匂いと、目玉焼きが爆ぜる音の中で朝食を用意する。


 「行ってきます」と短く告げる美弥を玄関で見送り、扉が閉まる乾いた音を聞く。


 昨日の命を削り合う戦いをしていたことなど、質の悪い白昼夢――あるいは、誰かが書き殴ったあらすじの乏しい小説だったかのような、あまりに平穏な朝。


 ……そう、たった一つの例外を除いて。


「『んー、まことの料理はいつ見ても美味しそうよねぇ。お姉ちゃんもね、食べられるものなら食べてみたいのよ。あ、そうだ!  まことが「あーん」とかしてくれたら、案外食べられちゃうんじゃない?  ねえ、してくれないの、まこと?』」


 食卓の向かい側。


 かつては主の不在が多い場所に、今は一人の少女が陣取るように座り、身を乗り出してこちらを覗き込んでいる。


 繭住真の双子の姉、繭住(まどか)――。


 まどかの存在を認識した真は美弥にも認識できるか確認をしたが、結果は変わらなかった。


 寧ろ美弥から何やら慈愛に満ちた目を向けられたような気もしたが、気のせいだと思う。


 真以外にはその姿は見えず、指一本物理的に触れることもできない。


 けれど、精神世界で魂が溶け合ったあの日を境に、彼女は四六時中、真のパーソナルスペースを侵食してくるようになった。


(……姉さんは、こんなに騒々しい人だっただろうか)


 真は黙々とトーストを口に運びながら、美弥とは違った意味で騒がしい姉を観察していた。



 十年前のお淑やかで優しかった記憶の中の姉と、目の前で「あーん」を執拗にこちらに要求し、触れることのできないフォークを宙で掴もうと格闘している存在。


 その間には、物理演算エラーのような明らかな乖離が生じている。


「『ちょっと無視!?  弟に無視されるお姉ちゃんの気持ち、考えたことある!?  かなしいんですけど~お姉ちゃん、かなしいんですけど~』」


 まどかは膨れっ面をして真の鼻先に指を突き出すも、その感触はない。


 無論、彼女が『実体』としてここにいるわけではないことは理解はしている。


 だが、空気を震わせる彼女の声と、その賑やかな表情は、確かにこの家の空白を埋めていた。


(……いや、これでいい)


 亡くなったはずの姉と、こうして言葉を交わせている。


 真は理屈など抜きにして、その事実に対し、真の胸の奥には、論理では説明できない少なからずの『喜び』が静かに沈殿していた。


 真は皿を片付けようと立ち上がり、傍らに浮かぶ喧騒に対し、独り言にならないよう唇を微かに動かして「五月蠅いですよ。早く準備してください、学院に遅れます」とだけ告げた。


 「『えっ!  今、うるさいって言った!?  しかも無視してなかったし!  やったぁ、まことがお姉ちゃんと喋った! ボクの勝ち!』」


 狂喜乱舞して真の周りを浮遊するまどかを横目に、真は学生鞄を手に取る。


 嘘が剥がれ落ち、真実だけが残った十王市の朝。


 新しい日常は、想像以上に騒がしく、そして温かかった。


 学生鞄を手にして、賑やかなまどかを連れて家を出る。


 嘘が剥がれ落ち、真実だけが残った十王市の通学路。


 歩き慣れたアスファルト、すれ違う生徒たちの無邪気な笑い声。


 かつて大口一子が作り出した虚偽の世界が街を侵食していた時、真の右目はこの日常の裏側に潜む「虚偽の接続点(ノード)」を幾つも暴き出していた。


 だが、今は違う。


(……やはり、反応はないか)


 ふとした拍子に右指の腹で右目に触れてみるが、網膜に投影されるはずの論理ログも、対象を解体する構造解析(モノクル)も、今の真には何も見えなかった。


 あの日、物理世界で右目が機能したのは、大口の『嘘』が現実の境界を曖昧にするほど肥大化していたからに過ぎない。現実が現実の形を保っている限り、リベレーターの力は、綴るべきページを持たないのだ。


 「『どうしたの、まこと?  また難しい顔しちゃって。せっかくお姉ちゃんと登校してるんだから、もっとこう、ニコニコしなさいよ!』」


 「独り言を言わせたいんですか。黙ってください」と、吐息に近い声でまどかの軽口を受け流しながら、校門をくぐる。


 吐息に近い声でまどかの軽口を受け流しながら、校門をくぐる。


 しかし、昇降口に向かおうとした、その瞬間だった。


 突如、右目の奥を、熱した針で突き刺されたような鋭い痛みが貫くと、真が小さな呻きを漏らす。


 「『まこと!? どうしたの、顔色が……』」


 心配そうに顔を覗き込むまどかの声が、遠く感じる。


 解析画面は立ち上がらない。ログも流れない。


 ただ、視界の端が「致命的なエラー」を報せるように赤く明滅し、脳の深部が本能的な警報を鳴らしている。


 (……この感覚。リベレーターとして、何かを拒絶しているのか?)


 それは、大口の時に感じた『嘘』の粘り気のある気配とは似て非なるものだった。


 冷たく、鋭利で、もっと根元的な、世界の理そのものを無理やり捻じ曲げ、自分の都合の良い形に固定しようとする強固な『意志』の片鱗。


 真は痛む右目を手で覆いながら、指の隙間から周囲を見渡した。


 登校してくる大勢の生徒たち。その中の誰かが、あるいはこの場所の何かが、再び『想像主(イマジニア)』の力を振るおうとしているのか。


 取り戻したはずの日常の解像度が、ノイズ混じりの古い映像のように、一気に不安定な揺らぎを始める。


 真は、右目の痛みが収まるのを待ちながら、静かに、けれど確実に、再び戦いの渦中へと引き戻されていく予感に身を浸していた。


 放課後。真は喧騒とする学院を離れ、如是山・空因寺へと足を運んでいた。


 あの日、砕け散ったお堂の鏡。


 そして、その破片と共に消えた一人の少女の記憶。それを報告しなければならないという義務感が、彼を突き動かしていた。


 「……あぁ、鏡ですかな。あれはもともと古びたものですし、寿命だったのでしょう。まことどのが気になさることはありませんぞ」


 如是和尚は、茶を啜りながら事も無げに言った。


 真は、自分が『鏡を割った』という結果だけを伝え、その過程については、執筆中の『物語の構想』という形を借りて話し始めた。


 物語の中で、人の妄執が作り出す精神世界の領域を、一人の少女が、自らの嘘を隠すために築いた、そんな閉じた世界をなんと呼べばいいかを相談していた。


 「ほう、それはまた……。そうさな、仏の教えに従うなら、それは『識蘊(しきうん)箱庭(にわ)』と呼ぶのがふさわしいかもしれん」


 和尚は、遠くの山並みを眺めるように目を細めた。


 「己の認識(識)を積み重ね(蘊)、そこから一歩も出られぬように囲った庭。美しくも、外の世界の風を知らぬ、脆い場所。……そして、その中で己を偽るために纏う獣の鎧。それは、真理に暗い心の象徴――『無明(むみょう)(めん)』とでも名付けましょうか」


 識蘊の箱庭。そして、無明の面。


 和尚の口から出たその言葉は、あの日、真が右目の奥で感じた異質な論理の正体を、見事に言い当てていた。


 「『まこと、このおしょさん……もしかして全部わかってて言ってるんじゃない? ねえちょっと、本当はボクのこと見えてんでしょう。ねえ聞こえてんでしょう、あーもう、このハゲー!』」


 隣でまどかが顔を近づけて和尚を観察し怒鳴るも、和尚は空を飛ぶ彼女に気づく様子もなく、ただ愉快そうに笑った。


 「いやはや、まことどのの想像力には恐れ入る。拙も何だか感化されて、一筆認めたくなりましたぞ!  英雄と怪人が知略を尽くして戦う法廷劇……あっはははは、これは売れるかもしれませぬな!」


 豪快な笑い声が境内に響き渡り、沈んでいた空気を揺らす。


 和尚はそれを、少年が抱く瑞々しい『創作の悩み』だと信じて疑っていない。


 だが真は、その笑い声に救われるような心地を感じながら、心の中で新しく名付けられた定義を反芻していた。


(識蘊の箱庭。無明の面……。次に現れる『想像主(イマジニア)』もまた、それを纏っているのか)


 真は無意識の内に顔の半分に手を向けていた、もしかしたら自分の片眼鏡(モノクル)も無明の面なのではと。


 和尚に別れを告げ、寺を後にする真の背中に、夕暮れの影が長く伸びる。


 右目の痛みはまだ、微かに、けれど確実に熱を持ち続けていた。










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