No.140 【幕間:大口一子】
No.140 【幕間:大口一子】
かつて学院中を騒がせ、万能の情報屋として君臨し、全校生徒の秘密さえ握っていたとされる大口一子の姿は、そこにはなかった。
放課後の喧騒から切り離された校舎の裏。
枯れ葉が冷たい風に舞う、人気のないベンチに、気配を消すようにして座る一人の少女。
世界から「情報屋」としての彼女の足跡が完全に消去された今、彼女はただの「地味で目立たない生徒」へと還元されていた。
かつての取り巻きも、情報を求めてすり寄ってきた者たちも、彼女の名前すら思い出せない。
鉛色の冬空から降りてくる冷気が、薄い制服越しに体温を奪っていく。
けれど一子にとって、その寒さよりも、誰からも認識されないという「空白」の方がよほど鋭く身に凍みた。
卒業という『終わりの時間』を待つだけの、色彩を失った孤独な日々。
「……きっと、この先もこうなんだろうな」
諦めに似た溜息が、冬の空気に白く溶けて消える。
来年には卒業。
世界は残酷なほど変わらずに回り続け、自分だけが空っぽの殻を残してこの場所を去るのだ。
そう思っていた、その時だった。
ザッ、と乾いた砂利を踏む、無機質で正確な足音が彼女の耳に届いた。
「大口一子」
「ひゃい!? だ、だだだ、誰ですか……っ?」
突然声をかけられ、反射的に肩をすくめ、一子は怯えるように顔を上げた。
目の前に立っていたのは、中性的な端整な顔立ちをした、冷徹なほどに静かな瞳の男子生徒だった。
逆光の中に立つ彼は、まるで一枚の研ぎ澄まされた刃のような鋭利な存在感を放っている。
縮こまる彼女に対し、彼は表情一つ変えず、ただ無造作に右手を差し出した。
「忘れ物だ」
「えっ? 忘れ……でも、私こんな──」
有無を言わさず掌に押し付けられたのは、銀色の小さな機械。
ひんやりとした金属の質感が、彼女の震える指先に伝わる。
彼は一言の挨拶も、説明も付け加えることなく、踵を返して去っていった。
その歩みに迷いはなく、まるで最初からそこに存在していなかったかのように、彼の背中は冬の夕闇へと吸い込まれていく。
一人取り残された一子は、困惑しながらも手の中のそれを見つめた。
手のひらに残る、微かな彼の体温。
「……ボイスレコーダー?」
吸い寄せられるように、彼女は細い指で再生ボタンを押した。
チリッ、と小さな電子ノイズが走り、スピーカーから声が流れてくる。
それは、どこか聞き覚えのある――けれど、今の彼女の記憶には『存在しない』はずの、快活で自信に満ちた少女の声だった。
『……いい? 真実は一つじゃないの。嘘も、願いも、全部ひっくるめてその人の『本当』になるんだから。だから私は、それを届けるわ……』
録音された声は、一度静かに呼吸を置く、その一瞬ノイズのように幼い子供の、本当に楽しそうに笑う声が入る。
そして、どこか自分自身に言い聞かせるような、切実で温かい響きを帯びる。
『……たとえ私自身が傷ついたとしても――私は、あの時私が救われたように、『本当だけ』を届けるの』
「……これ、私の声……?」
そんな青臭い理想を語った覚えはない。
そんな高潔な意志が、自分の中にあったはずもない。
なのに、どうしてだろう。
彼女の目からは、止めどなく涙が溢れ出し、ボイスレコーダーの冷たい外装を濡らしていく。
記憶は失われても、その言葉に宿る「祈り」のような熱量が、彼女の凍てついた胸の奥を激しく揺さぶった。
数分間の再生が終わる頃、校舎の影はさらに長く伸びていた。
一子の頬には、まだ涙の跡が赤く残っている。
けれど、その瞳に宿っていた諦めの影は消え、代わりに、失くしてしまった「本当の自分」をもう一度探しに行こうとするような、ささやかだけれど確かな光が灯っていた。




