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No.141 残響、あるいは真実の産声




 No.141 残響、あるいは真実の産声




 鳴り響く硝子の崩壊音。


 カテドラルを構成していた白黒の論理は、断末魔のような軋みを上げて粉々に砕け散っていく。


 剥がれ落ちていく嘘の断片――その鏡のような破片の中に、幼い一人の少女の姿が映し出された。


 それは如是山・空因寺。今よりずっと昔、色鮮やかだったはずの、幼い日の大口一子の記憶。


 遠くの街から十王市へ引っ越してきたばかりの彼女は、新しい環境に馴染めず、色褪せた手提げ鞄を抱えて教室の隅に溶け込むことしかできない、影のような子供だった。


 名前を呼ばれることもなく、ただ時計の針が刻む音だけを聞いて過ごす放課後。


 そんな彼女の唯一の楽しみは、あちこちを歩き回ることだった。


 地図にも載っていない古い小道、錆びついたガードレールの先。


 学校のハイキングで訪れた如是山の、正規ルートから外れた獣道の奥で、彼女はあのお堂を見つけた。


 誰にも教えない、自分だけの隠れ家。


 埃っぽい空気と、木漏れ日が揺れる静寂。


 鏡に映る自分だけが友達だった、誰にも侵されない聖域。


 けれど、その日。


 お堂に近づく荒々しい足音に、彼女は慌てて縁の下へ身を隠した。


 隙間から見えたのは、不気味なエンジン音を響かせるトラックと、大量の不法投棄を繰り返す大人たちの、卑屈で傲慢な背中。


 彼らが去った後、静寂を取り戻した境内に、小さな手提げ袋が一つだけ取り残されていた。


 「落とし物を拾ったら届けましょう」――朝礼で聞いた先生の言葉を、縋るような思いで守り、彼女は震える足でそれを交番へ届けた。


 警察官に問われ、彼女はただ、褒めてほしい一心で無邪気に答えた。


 「山のお堂にゴミをいっぱい捨ててた人たちが、これを持ってたの」


 その一言が、一部とはいえ、長く迷宮入りしていた不法投棄者の摘発へと繋がった。


 後日、彼女は全校生徒の前で表彰された。


「勇気ある少女」として。


 教室の隅で透明人間だった少女は、一夜にして、誰もが名前を知るクラスのヒーローとなった。




 ――あぁ、こうすれば人は喜んでくれる。私を見てくれる。友達ができる。




 ――『情報』さえあれば、私は、私じゃない何かにだってなれるんだ。




 この成功体験こそが、あの事件を産み出す、彼女の人生を狂わせた甘い毒となった。


 以降彼女は情報を必死に集め、加工し、他人の望む「正解」を提供し続けた。


 そうしなければ、またあの誰も名前を呼んでくれない、白黒の教室に戻ってしまう。


 その恐怖が、彼女を嘘の女王へと変貌させていったのだ。


 「『……これがワン子ちゃんの始まり。悲しいよね、善意で始めたことなのに……。あんなにキラキラした目で、みんなを見てたのに……』」


 まどかの呟きと共に、記憶の映像が砂のように崩れ落ちていく。


 嘘の鍵を失うことは、その願いの原点となった記憶さえも代償として差し出すこと。


 真とまどかはそれを本能的に察し、ただ消えゆく少女の背中を見送った。


 (……接続、強制終了。……現実座標への復帰を確認)


 ふっと意識が浮上し、目を開けると、そこはカビ臭い埃が舞う現実のお堂だった。


 夕刻の斜陽が差し込む堂内は静まり返り、世界を飲み込もうとした異変の痕跡は何一つ残っていない。


 ただ、ご神体として奉られていた古びた鏡だけが、役割を終えたように、音もなく粉々に砕け散っていた。


 真は割れた鏡を一瞥し、重い肺から一息、現世の空気を吐き出した。


 身体に纏っていたローブも、魔道書も消えている。残っているのは、戦いの中で負った鈍い痛みと、手の内にある。


 いままで真が感じたことのない、いやかつては持っていたモノが残滓のように、こびりついていた。


 自分たちが何を守り、代わりに何を永遠に失ったのか。


 真はそれを確かめるように、迷いのない足取りで、夕闇の迫る山道を下り始めた。


 けれど、まどかはお堂の入り口で、金縛りにあったように立ち尽くしていた。


 精神世界で確かに感じた、真との魂の融合。


 けれど、あれは極限状態が生んだ幻だったのではないか。


 現実という強固な理の下では、自分はまた、誰にも認識されない『存在しないバグ』に戻ってしまうのではないか。


 「『……まこ──』」


 もし聞こえなかったら。もし、また無視されたら。


 恐れに足がすくみ、言葉が喉の奥で氷のように固まる。


 伸ばしかけた手は、虚空を泳いで力なく垂れ下がった。


 その時、数歩先を行っていた真が、足を止めた。


 効率と論理を重んじる彼なら、二度と振り返るはずのないその背中が、ゆっくりとこちらを向く。


 真の瞳は、以前のような無機質な演算機の輝きではなく、沈みゆく夕日を静かに反射していた。


 真は何処か遠くを見るような、それでいて何かを見つめるような視線を向け、彼の口からひとつの形を作り出す。




 「帰るよ。姉さん」




 短く、平坦な一言。


 けれどそれは、網膜に投影されるテキストでも、脳内をかき乱すノイズでもない。


 真が自らの意志で、この残酷なまでに確かな現実世界に刻みつけた、唯一にして絶対の定義。


 まどかの瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。


 十年。


 幽霊として、バグとして、彼の隣に居続けながら、一度も届かなかった場所。


 彼女の溢れだす涙の顔、けれどこの十年で一度も見たことがないほどの、輝くような笑顔に塗り替えられていく。


 「『……もう!  お姉ちゃんを置いていくなんてひどいぞ、まこと!』」


 彼女はもう、消えない。


 駆け出す彼女の足音は鳴ることはない。けれどその足音は確かに静かな山道に力強く響き渡ったのだ。

















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