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No.148 演算の綻び、あるいは赤い教室




 No.148 演算の綻び、あるいは赤い教室




 軽薄な電子音が、夜の静寂を吸い込んだ無機質な寝室の空気を叩き割る。


 それを合図に、真はまるであらかじめ組まれたスタートアップ・プログラムに従うかのように目を開けた。


 意識の覚醒と同時に、視界の端には日付、時刻、体温、朝のルーティーン通りの行動を淡々と開始する。


 「『……まこと、あの、大丈夫?』」


 まどかは昨夜の状況が今も継続していることを、あるいは昨日見た「何か」が真を侵食していることを危惧し、縋るように声をかけた。


 しかし、真からの反応は昨日までと寸分違わず、微かなノイズすら聞き漏らすように一切の反応を返さない。


 淡々とシーツを整え、ミリ単位の誤差もなく制服に袖を通す。


 真にとって、すぐ隣で震えている存在はもはや「対話の対象」ですらない。


 それは除去すべきだが、何らかの論理エラーによって居座り続ける、メモリの肥大化に伴う「無意味なバグ」として、冷徹にバックグラウンドへと追いやられていた。


 朝の支度を済ませ、一階のリビングへと下りる。


 そこには、この家では珍しい光景が広がっていた。


 いつもなら慌ただしく朝の嵐を巻き起こしているはずの美弥が、既にダイニングテーブルに着き、死人のような顔でテレビのモニター画面を見つめていたのだ。


 美弥のすり鉢状に深く窪んだ瞳が、リビングに現れた真の姿を捉える。


 「まーちゃんおはよう。今朝の調子は? 問題ない? 本当に? 昨日も言ったけど無茶なことしちゃダメだからね。わかった?」


 真は、その言葉を「生存維持に関する定型的な警告」として受理し、短く頷いた。


 美弥が既に起きていた理由は、単なる早起きではない。


 徹夜でゲームの世界に没入していた結果、脳が現実を拒絶し始めた状態のまま、仕事へ向かおうとしているようだった。


 「大丈夫、大丈夫。お客様が来なければ寝てるから」


 「『……美弥ちゃん。それはそれでどうなの』」


 真の影に隠れるようにして、まどかが力なく笑う。


 同じ朝、同じ空間。


 しかし、その歯車は明らかに噛み合っていない。


 徹夜明けの美弥の虚ろな笑顔と、完璧な論理に守られた真。


 その境界線には、砂嵐のような不協和音が満ちていた。


 昨日と変わらない通学路。


 信号機の色、行き交う車の排気音、すべてが「日常」という記号として真の脳内に取り込まれていく。


 しかし、やはりその風景に拭い去れない「違和感」を感じている、まどかがいた。


 「『……ねえ、まこと。あなた本当に大丈夫? どこか無理してない?』」


 それは長く見ていた経験からなのか。


 それとも別の何かか。


 真が明らかにこちらを意識的に無視をするような態度を取っていることに、まどかは薄々気がつき始めていた。


 学院に着き。


 教室に行き、席に座る。


 真は流れ作業のように決められた行動を取り続けている。


 それは徹底的に自己を保つために。他の情報(ノイズ)を完全に排除し続けていた。


 「『ねえ、まこと。やっぱりボクのこと──っえ?』」


 不意にまどかの姿がぶれる。


 それは霧が晴れるような消滅ではない。


 世界の画素(ピクセル)から、彼女という存在だけが弾き出され、強制的に消去(デリート)されるかのような、暴力的な拒絶。


 「『まこと!? ダメ! 今、ボクを───』」


 言葉が言葉になら無い。


 今言葉に意識を集中するとその存在が危ぶられかねないと、まどかは今は自分の存在を繋ぎ止めておかなければと、自分の体を抱き締めるように身を縮めた。


 「おーい、まこと!  昨日の今日でちゃんと登校してくるとは、お前も大概真面目だなぁ!」


 鼓膜を揺らす暴力的な音圧(ボリューム)


 宇賀が真の肩を叩こうと手を伸ばす。


 真はその軌道を予測してわずかに上体を逸らし、避ける。


 真は一言「問題ない」と最小限の音節でそう答えた。


 「お、おう。そうか? でも和尚さんのところから戻ってきた時、お前、顔真っ青だったぜ。無理して今日出てきたんじゃねぇのか?」


 真が口を開こうとした、その時だった。


「『──だ、め……。まこ──、嘘を──。いま──は……コタローは────本当に心配して──!』


 消え入りそうな、けれど鋭い痛みを伴うまどかの声が、真の意識の底に沈殿したはずの『不協和音』を掻き鳴らした。


 真の返答は「問題ない」の一言のみ、宇賀の期待した『友人としての対話』を鮮やかに切り捨てた。


 宇賀の顔に、戸惑いと、昨日感じたものよりも深い寂寥が過る。


「……そっか。まぁ、お前がそう言うならいいけどよ。……なぁ、()()。お前もそう思うだろ?」


 宇賀が救いを求めるように、窓際で本を読んでいた大口一子へ話を振る。


 「ええ、そうですね。()()くんの言う通りに()()くんが平気だと思っても回りの()()()()しますよ。でも──」


 大口の瞳が、真の瞳と真っ向からぶつかる。


 「──それが本当に()()くんの意思であるならばの話ですが…」


 大口の言葉が放たれた瞬間。


 真の右目は、血を流すような真っ赤なエラー警告が走る。


 (ッ!? Error! この時刻、この場に対象個体・大口一子が居る理由、意図不明! あれは大口一子ではない!?)


 真の右目が見る世界で、大口の言葉の一部がデジタルの砂嵐に変わる。


 それを皮切りに、教室に満ちるあらゆる音、光、クラスメイトたちの会話が、不気味なエラー表記を伴って崩れ始めた。


 (……Error! Error! Error! 対象個体:宇賀琥太郎。発話内容と網膜投影テキストの不一致率、87%。……対象個体:大口一子。発話内容を『定義不明のノイズ』として再分類……)


 宇賀の顔が、バグを起こした映像のようにガクガクと歪む。


 彼が「心配だ」と口にするたび、真の右目には【不適切な干渉】【情報漏洩の危機】という冷酷な赤い警告がオーバーレイされる。


 真の右目は、もはや教室の風景を正しく映し出していなかった。


 談笑するクラスメイトたちの口元から溢れ出すのは、真っ赤なエラーログの濁流だ。


 彼らが親しげに笑えば笑うほど、真の演算はそれを【敵意】や【拒絶】という真逆のデータに翻訳し、脳内に警報音を鳴らし続ける。


 (状況不一致。自己の情報誤作動、脅威度最大。深刻なバグを検知。自己修復に必要なタスクを模索……)


 この世界は、壊れている。


 あるいは、壊れているのは「繭住真()」の方か。


 (自己修復に必要なタスクを模索終了……トリガーとなった事象、該当件数、1。……昨日訪れたお堂の鏡と判断。速やかに、当該座標への再訪と、情報の再取得を推奨する――)


 教室の喧騒が、耐え難い不協和音となって真の精神を磨り潰していく。


 赤い警告の波紋の向こうで、大口一子だけが、静止画のような冷たい微笑を浮かべて真を見つめ続けていた。














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