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No.167 境界の仮面と、銀色の深淵




 No.167 境界の仮面と、銀色の深淵








 ──この世は嘘で創られている。








 社会。学校。家庭。




 あらゆる場所で。あらゆる立場で。人は他者を、自分自身をも偽っている。




 その塗り固められた笑顔の裏側に、どろりとした本心を隠しながら。




 昨日まで信じていたモノが、一夜明ければ滑稽な道化に成り下がる。そんな不確かな砂上の楼閣の上に、自分らは立たされているのだ。




 報道。SNS。噂話。




 さまざまな言葉がそのモノの外観を作り出す。




 あたかもそれが真実だと人々は認識していく。




 誰かが吐き出した実体のない「声」は、雪崩のように重なり、絶対的な真実へとすり替わっていく。




 画面の向こう側の見知らぬ誰かが決めた「真実らしきもの」に、人々は、世界は熱狂し、あるいは絶望する。




 そこには、検証も、誠実さも、実体さえも存在しないと言うのに……。




 偽りが偽りを造り出し、虚構が現実を改変していく。




 真実ホントなど要らない。




 ホント真実など知りたくない。




 耳障りの良い嘘を並べ、見栄えの良い虚飾で着飾れば、それだけで世界は疑いもなく回っていく。




 泥臭い本音を曝け出すことなど、この効率化された社会においては「ノイズ」でしかないのだから。




 ──小さな嘘。




 ───過ちの牙はやがて己を蝕む毒となる。




 ──絢爛たる虚構。




 ───煌びやかな万華鏡は己が姿を忘れてしまう。




 ──幸福なる虚妄。




 ───与えられしモノは、己が影すら最早自分のモノではない。




 ──甘美なる妄言。




 ───その優しき揺り籠は、やがて己の魂すら溶かしゆく




 ──鞭撻なる虚言。




 ───その鼓舞は己に与える活力か。はたまた足枷か。




 ──正当なる虚偽。




──他者を縛る鎖は、気付けば己を閉じ込める牢獄となる。




 ──やさしきウソ…。




 ───過去も未来も手からこぼれ堕ちる。けれど、その手にあるのは、空っぽの器……。




 嘘。嘘嘘。嘘嘘嘘。嘘嘘嘘嘘嘘───




 ああ…なんて……なんて見渡す限り何処も彼処も偽りだらけなんだ……。




 色彩を失った景色が、ノイズのように網膜を苛んで、吐き気のするような不協和音が、世界中の隅々から聞こえてくる。




 積み重ねられた言葉嘘は、やがてその真実姿すらも変えていく。




 目に見えるものだけが美しく。耳に聞こえてくるものだけが心地よい。




 そして目に見えぬモノ。聞こえぬモノはやがて腐り落ちるかの様に醜き獣ユガミへとなっていく。




 その異形こそが、押し込められた真実の成れの果てだというのに。誰もがその獣を見ようとはせず、ただ嘘香水を振り撒いて、自分の腐敗臭すら隠している。




 ああ…見るな。聞くな。我が姿。我が声を。




 この様なおぞましき姿に変えたのはお前らなのだからと…。




 深く暗き闇の底。怨嗟の如く蠢くモノ。




 然れど。然れど人はそれを見聞き認識しない。




 ──知りたくないから。




 ──見たくないから。




 ──聞きたくないから。




 ──関わりたくないからと。




 ──だから……。




 君のその汚れなき真実ホントは深い、深い場所にある、誰も立ち入ることも出来ない。扉の奥底に押し込めてしまおう。




 誰にも汚されず、誰にも奪われない場所。そこは冷たく、そして何よりも静かな聖域。




 ──君が傷付く前に。




 ──誰にも見られぬように。




 ──誰にも聞かれぬように。




 ──誰にも悟らせないように。




 ──扉にカギを掛け。決して出てこれないように。




 そっと閉じ込めてしまおう。








 ───カチリッ








 静止した世界でなり響くその音だけは、世界で一番信じられる確かな音として響いた。




 閉ざされた扉に触れる指先に残る金属の冷たさに、鉄臭い金属の匂いが肺の奥まで侵食してくる。




 隠した事への罪悪感か、それとも別の何かか。心臓の鼓動が、まるで遠い異国の太鼓のように耳の奥から聴こえ、それが他人事のように脈打ちを感じてしまう。




 さあ、扉は閉ざされた。




 これでもう、誰も見ることはない。聞くことも、知ることもない。




 あとは自らこの『仮面イツワリ』を被り。誰彼の嘘からでなく。自らの嘘で、世界常識を─────真実君自身をも変えてしまおう。 




 指先でなぞる仮面の縁は、剃刀のように鋭く、けれど吸い付くように自分の肌に馴染む。




 視界が狭まり、呼吸が自分の内側だけで反響し始める。その閉塞感こそが、自分にとっての唯一の自由なのだから。








 そうすれば、その『嘘』はやがて―――








 ☆★☆★☆








 「ようこそお越しくださいました。ここは『宿望館』。私はここの管理を任されておりますナイアと申します。以後お見知りおきを」




 靄のように霧が掛かっていた意識がハッキリすると、いつの間にであろうか。




 足元を漂う白濁とした冷ややかな気配が、重厚な絨毯に吸い込まれていく。どこからか入り込むはずのない風が、頬を撫で、思考を凍らせる。




 まるでそこは何百年も経ったような古木の匂いと、嗅いだこともないような高貴な香料の香りが混じり合った空間に、古く、然れど品の良い意匠が凝らされた調度品が所々に見受けられる館のロビー。




 だがロビーである筈なのに神聖な雰囲気を醸し出すその場所からは、どこからか、あるいは頭の中に直接響くような、厳かな讃美歌さえ聞こえてくるのではないかと、そう錯覚させるほどの静謐が、そこには満ちていた。




 空気が密度を増し、肺を圧迫するような重厚な静寂。それは生者の立ち入るべき場所ではないと、ぼくの直感が告げていた。




 そしてぼくの目の前には女性らしい豊満な肉体に、執事服を身に纏った人物が、優雅にお辞儀をして新たに訪れた客人を出迎えていた。




 彼女の指先は、まるで一滴の血も通っていない石膏細工のように白く、しなやかだ。 お辞儀から顔を上げるその一連の動作には、衣擦れの音ひとつ、呼吸の乱れひとつなかった。




 重力の影響を感じさせない、まるで精密に編まれたプログラムが空間を滑るような、そんな不気味なほどに完成された美。




 会釈していたナイアと名乗った女性が顔をあげた時、そのナイアの異様さが露となる。それはそのナイアの顔にあった。




 ――整った素顔を想像させる豊満な曲線とは裏腹に、その顔を上げた彼女の面おもてには、表情の代わりに『銀色の虚無』が張り付いていた。




 周囲の光を全て飲み込み、見る者の不安を跳ね返す、底知れぬ銀色の仮面。




 研ぎ澄まされた鏡面のようでいて、周囲の景色さえ拒絶するように沈黙している。




 そこにあるはずの「目」さえも見当たらないのに、射抜くような視線だけがぼくの存在を削っていく。




 異様だと感じたのは、その鏡面が、対面しているぼくの姿を一切写していなかったことだ。




 本来なら驚きに目を見開いているはずのぼくがそこにいるべきなのに、銀の奥に広がっているのは、ただ底の無い、無限に続く深い闇だけだった。




 まるで、『初めから映すべき実体など存在しない』とでも言いたげな、冷徹なまでの拒絶。




 その銀の淵を覗き込もうとすれば、ぼく自身の魂まで吸い込まれ、二度と戻ってこれなくなるような、底知れぬ恐怖が全身を駆け巡った。




 その感覚から目の前の人物は人の姿をしているが、決して普通の人ではない。寧ろ何かしらの正体不明のモノバケモノだと本能的に感じ取る。




 ――怯え。




 ぼくの体がその場から逃げるように足が後ずさると、ナイアの体が一瞬陽炎の様に揺らいだように見えた。




 するとナイアから感じていた筈の奈落へ落ちるような異質な雰囲気は、まるで初めから無かったかの様に霧散し消えてなくなり。そこに立つは客人を向かえる只の女執事にしか見えなかった。




 その代わりのように、ナイアが何かおかしな事でもあったかのように首を傾げた、その刹那。止まっていた時間が動き出すかのように、どこからか清冽なハープの音色と重なり、静寂を塗り替えていった。




 張り詰めていた空気が、音の粒子によって優しく解きほぐされていく。




 だがその音色さえ、どこか作り物めいた、現実味のない完璧さを伴っていた。




 「ここに訪れた以上は、お客様はお客様であるのでしょうが…。現在この宿望館の部屋は既に満室となっております。もしやお客様は何方かのお客様に喚ばれお越しになった…いえ、それも変ですね。ならばロビーここではなく専用施設にとなるはず…では何故ここに?」




 ナイアの言葉は、耳で聞いたというより、脳の深淵に直接文字列が刻み込まれたような感覚に近かった。




 鈴を転がすような美声でありながら、その響きには生物が持つ『体温』が一切混じっていない。




 氷細工が触れ合うような、冷たく透明な響き。それは、数千、数万もの過去の残響を繋ぎ合わせたような、非人間的な音の連続体だった。




 暫く考え込むようにしていたナイアは、突然明後日の方を向き。しきりに何かを聞き入るように頷く。




 その仕草はまるでこことは違う、別次元にいる誰かと会話しているように感じられた。




 彼女の周囲だけ、時間の流れが加速し、あるいは停滞しているような感覚。




 そしてこちらを、仮面が在るのでわからないが、多分こちらを凝視するように見つめ。何か納得したのか、ナイアがパチンと手を打った。




 その音だけは、やけに現実的な乾いた響きを伴って、静謐なロビーを震撼させた。








 「お客様は何やら厄介なモノとご契約をなされましたね? お客様の『心魂タマシイ』には、お客様以外のモノの力が感じられます」








 その指摘は、まるで薄氷を素足で踏み抜いたような、鋭利な冷たさを伴って背筋を駆け抜けた。




 ぼくの熱き体液が、一瞬にして冷たい銀の流体に置き換わったような錯覚。心臓が激しく脈打ち、呼吸が浅くなる。




 目の前の存在は、ぼくという器の内側に潜む「汚れた真実」を、いとも容易く見透かされたと感じた。








 ☆★☆★☆








 あれは、曇天の空模様だった。




 今にも雨が降り出そうに低く垂れ込めた、圧迫感のある曇り空。生温かく、湿り気を帯びた風が頬を撫で、遠くで燃え爆ぜる木々の音が、世界を終わらせるカウントダウンのように、一定の周期で聞こえていた。




 本当なら青い空と白い雲。森林の緑色の景色が清んだ湖の水面に映り。とても見応えのある場所なのだが――








 代わりに在ったのは異・形・の・バ・ケ・モ・ノ・だった。








 辛うじて、それが生物であると言うのが分かるくらいに、その姿がとてつもなく不気味で。




 そして神々しくもあった。光を屈折させ、空間そのものを歪ませるほどの質量を持った暗黒。数え切れないほどの瞳が、あるいは関節が、法則性なくうごめいているように見えた。








 『生きたいと言うのであれば生かそう。だがその代償にお前は『・・・・』を失うが、代わりに『・・・・』を得る。しかし死にたいと言うのであれば、私は何もせずにこの場を去ろう。さあ、どうする?』








 その声は、幾千の死者の囁きを一つに束ねたようでもあり、あるいは無機質な地殻の軋みのようでもあった。




 耳ではなく、直接『生存本能』に突き立てられる、逃れようのない音の杭。




 異形のバケモノは、ぼくに選べと言う。




 提示されたのは、選択肢と呼ぶにはあまりに無慈悲な代物だった。拒めば『死』。抗う術など、今のぼくには一欠片も残されていない。




 ぼくを殺そうとしているのは目の前の異形ではなく、既にぼくの肉体を焼き尽くそうとしている『現実』なのだから。背後で燃え上がるキャンプサイトの炎が、凄まじい轟音を立てて木々を飲み込み、皮膚を、髪を、肺の奥を、無慈悲に焼き焦がしていく。


 そんなぼくが死にたくないと一心に願った末。その思いに応えたのが、この異形のバケモノだった。




 『神』か。と問えば『違う』と答え。




 『悪魔』か。と問えば『違う』と答える。




 異形のバケモノは言うのだ。自分はただの『傍観者』『観測者』もしくは『無辜の読者』だと。




 この異形のバケモノはただただ退屈だと言うのだ。悠久の時を生きるモノには刺激が必要だと。




 そしてぼくのように呼ばれて来ては、気まぐれに『力』を与え。その者がどんな人生を歩むのかを見て楽しむのだと。




 それは、無邪気でありながら底知れない悪意を含んだ響きだった。




 だから選べと。選ばなければ選ばないで、それはそれでも構わないと言う。




 ただし異形のバケモノは、ぼくを救わない。そうなればぼくは数分もしない内にその命が尽きる。




 これは決して選択肢などでは無い。




 はじめから決まっている事象事柄なのだ。この異形のバケモノがこの場に現れた以上は……。




 「―――た、い……」




 はじめて知る『死』の恐怖に喉が引き攣れ、絞り出すような、けれどこの世で最も浅ましい欲望を乗せた声で、ぼくは『生』を願った。




 自らの尊厳さえも投げ出し、醜く生に縋りついたその瞬間、ぼく自身の本質は決定的に損なわれたのだ。








 『良かろう』








 その声に宿ったのは、純粋な慈愛ではなく、新しい玩具を手に入れた子供のような残酷な歓喜だった。




 その瞬間、ぼくの体は『作り替えられた』。




 骨の芯まで沸騰するような熱が駆け巡り、細胞の一つ一つが無理やり繋ぎ合わされていく。




 肉が裂け、新たな線維が編み込まれる激痛。




 傷ついた組織が猛烈な熱を帯び、絶たれかけた命の脈動が再び刻まれ始める。




 代わりに、触れていた家族の体からは、まるで急速冷凍されるかのように体温が奪い去られていった。




 彼らから奪った命の熱が、ぼくの内側を巡る。




 だが、器が満たされる代わりに、ぼくの魂の芯にあった『何か』が砂のようにこぼれ落ち、消えていく。




 何かが壊れ、何かが欠損したという、修復不能な空虚感。




 それは一生かけても埋めることのできない、暗く深い穴となって魂の中央に穿たれた感情モノ。




  その『崩れ落ちる欠落』の不快感だけは、意識が遠のく中で鮮明に刻み込まれた。




 ──こうしてぼくは、バケモノに飼われる『観測対象』として、この地獄にただ一人繋ぎ止められたのだ。




 全てが何もなかったかのように、今にも雨が降りだしそうな灰色の空には黒煙が。そして青と緑を映していた水面には煌々と燃え盛る炎が映っていた……。




 あの時、ぼくの中で何かが決定的に死に、代わりに「異質な生」が接ぎ木された。それは、生きながらにして死を内包するような、不自然な生命の躍動だった。




 「連絡があった現場に到着した! 要救助者を発見! 子供が、一名! くっ、大人が二名──」




 その日。ある湖の畔にキャンプ場に来ていたキャンパー達が原・因・不・明・とされる火災事故に合う。




 救助隊員の叫び声、荒い息遣い、無線から漏れるノイズ。それらすべてが、遠い異世界の出来事のようにぼくの鼓膜を滑っていった。




 多くの者が病院で死亡が確認される中、奇跡的に七歳の子供がひとり。軽傷で発見されたとニュース番組内で報道されるも、すぐに別の大きなニュースが取り上げられ、その話題は人々の記憶に留まること無く。まるで泡のように、消されていった。




 人々の関心という名の波にさらわれ、ぼくという「生き残り」は、社会という名の砂浜に打ち捨てられた。




 バケモノとの出来事は現実にあったことなのか。それとも命を失う瞬間に垣間見た幻だったのか。




 それを思い出すにはぼくの記憶はフィルムが焼け焦げたように欠落していた。






 だけど、あのバケモノが置いていったモ・ノ・は、それが幻や夢だと言わせないものは確かにある。




 ぼくは家族を失い。ぼく一人だけが残ったことだ。




 それは「孤独」という名の、消えることのない痣となって、いまもなお、ぼくの精神に刻まれている。




 その蝕みが、あのバケモノの声が、最近はやけに鮮明に聞こえてくるのだ。




 それは奈落のような、暗き奥底から静かに響くように。








 『間もなくだ。もう間もなく安寧とした時は終わりを迎え、再び欲望に満ちた世界へと移り変わるだろう。その時、お前がどの様な選択を取るか。それを私に見せよ』








 それは警告のように──それとも神託、の類いのモノとしてなのか。その声が響くたび、ぼくの心の奥空の器が、焼けるような熱を帯びる。








 ☆★☆★☆








 ナイアがあの忘れようとしても忘れられない、バケモノの事を言っているのだとすぐに理解する。




 我知らずとしてあのバケモノの事をナイアに尋ねていた。




 縋り付くような、けれど答えを拒絶するような矛盾した思いを抱えながら。




 「いいえ。お客様がどの様なモノとご契約を成されたかまでは存じ上げません」




 しかしナイアからの返答は知らないと言うものであった。




 その銀色の仮面は、ぼくの焦燥も、期待も、すべてを無機質な輝きで跳ね返してしまった。




 「ですが、お客様とは違う。強大な力を持つ何モノかの残り香、とでも言うべきものがお客様から感じられたと。我が主が仰られた故に、私もそれを感知することが出来ました」




 ナイアが言う『主』らしき人物を探すが、このロビーには、ぼくら以外には誰も存在しないし、その気配すら感じられることはなかった。




 壁に飾られた肖像画の瞳さえ、ぼくを追ってはこない。完全なる、絶対的な静寂。




 「我が主はこの館には居りません。しかしこの館で起きる出来事を全て把握しております」




 ここに居ないのに、ここでの出来事を把握できる。その主と呼ばれる人は、もしや神と呼ばれる存在なのかと尋ねる。




 「いいえ。我が主はお客様と同じ『人』です。主曰く。『自分は人より強い力を持っているが、決して万能と呼べるほどの力は持っていない』とのこと」




 その言葉を口にした瞬間、ナイアの銀の仮面が、一瞬だけ熱を帯びたように輝いた気がした。




 まるで、その「不完全さ」こそが、彼女にとっての至高の価値であるかのように。 ナイアの言葉の端々から、彼女がその主を敬愛しているのが伝わってくるように感じられた。




 「お客様のご事情は理解いたしました。それでは改めてご紹介を。今ではないいつか。ここではない何処かにあるこの場所は『宿望館』。ここは何らかのカタチでご契約をなされた方が『ネガイ』を叶える為に訪れる場所となります」




 宿望館……契約……ねがい……。




 その言葉が空虚なロビーで反響し、重なり合う。




 ぼくの願った「生」は、はたして「ネガイ」と呼べるような高尚なものだったのだろうか。




 「本来であればご説明したあと『宿望館』への入館手続きへと移行するのですが、先程も言いましたが、現在の館は満室となっています。ですのでお客様への力添えすることもままなりません」




 背後に続く果てしない廊下を見やるが、そこには人影ひとつない。




 だというのに、閉ざされた扉の奥底から、無数の『誰かの人生が軋む音』が、地鳴りのように響いてくるのを感じた。




 それは、祈りよりも重く、呪いよりも鋭い、無数の執着の叫びように。




 ぼくは偶然に間違いで、ここに来てしまったのかと尋ねた。




 「いいえ。物事が起きる時、そこに『偶然』はなく。在るのは『必然』となります。満室となったこの『宿望館』に来られたと言うことは、お客様にとって それは意味あること」




 意味…だとするなら、ぼくは何のためにここに来たのだろうか…。




 答えのない問いが、ぼくの思考を泥濘のように沈ませていく。




 しかもナイアはぼくに助力できない様なことを言っているが……。




 「出会いは運命。結べば絆となります。結ばれた絆はやがてお客様の力となりましょう」




 ナイアの声が、幾重にも重なる囁きとなって脳を揺らす。




 絆、力……。




 そんな温かな言葉は、今のぼくの『空っぽの器』にはあまりに重すぎる。それは救いではなく、新たな鎖のように思えてならなかった。




 やはりぼくには理解が及ばない話だな。




 「今すぐ理解する必要はありません。時が来れば自ずと理解は出来ましょう。此度の出会いはお客様にとって良き出会いであった。そうご理解していただいて貰えれば良いのです」




 ナイアがそう言うのではあればそうなのだろう。




 出会ったばかりのナイアの言葉を信じたのは、あのバケモノと同じにしてしまうのは失礼な気もするが、なんと言うか『性質』とでも言うべきものが似ているような気がしたからだ。




 その圧倒的な隔絶、そして完成された「嘘」のような美しさに。




 それともうひとつ。




 圧倒的な力を持つナイアを相手にするのは、人の身であるぼくには、あまりにも無力すぎるゆえ。無心で受け入れていると言う側面も在るのかもしれない…。




 「お客s――」








 ゴーン ゴーン








 ナイアが何か言おうとした時、ロビーに飾られていた壁掛け時計が、荘厳な音で時を告げる音色を奏でる。




 その音を聞いたぼくは軽い眠気に誘われる。




 時計の針が刻む一刻一刻が、ぼくの意識という名の糸を少しずつ断ち切っていく。




 「どうやら此度の訪れはここまでのようです」




 ナイアのその声は時計の音と共鳴するかのように、美しい音のようでもあり、同時に何千もの囁きが遠くで反響しているようでもあった。




 何がここまでなのか。そう尋ねようとしたが、眠気が段々と強くなり。ふらふらと意識を保って居られなくなると、ぼくは膝を着いていた。視界が揺れ、館の床が水面のように歪み始める。




 鐘の音はどんどんと大きくなっていく。




 「お客様にお話ししたいことがまだありましたが、それはまた次回に、この『宿望館』へお越しくださった時にでも」




 音が大きくなるにつれ、ぼくの眠気も増していく。




 ぼくは、またここに来ることが…できるのか……?




 辛うじてそう言葉に出来た。




 「お客様がそう願われたのであれば。それではその時まで、ごきげんよう」




 ナイアが最後に恭しく頭を下げる姿を目にしたところでぼくの意識は失う。銀色の輝きが、視界のすべてを飲み込んでいった。




 時計の音だけが意識を失ったあとでも鳴り響いていた。








 Rin Rin Rin…








 時計の音色が荘厳な音色から軽薄な電子音へとその音色が混ざり合っていくと、深い眠りから目を覚ますように、ぼくの意識も目覚めていく。




 重たい瞼を持ち上げると、現実は容赦なく色彩を押し付けてきた。




 「───朝……ゆめ?」




 先程までの事ははっきりと覚えているが、睡眠時に見る泡沫うたかたの夢として、いまは記憶の隅に留める程度となった。




 寝起きの微睡みの中、カーテンの隙間から漏れた視界を焼く陽光。




 それはぼくを祝福しているのではなく、『僕を演じろ』と命じる小さなスポットライトのようだった。




 今日という台本のない舞台の幕が上がる。




 「ふあぁぁ…起きなきゃ」




 眩しさに目を細目るも、ぼくは身支度をする為、いまだに鳴り響く目覚まし時計を止めようとした指先が、空中で止まる。




 そこには、真新しい部屋にはあるはずのない古木の匂いと、心臓を直接撫でられたような冷たい銀の残響が、確かに刻み込まれていた。




 空気中に微かに舞う塵が、陽光を受けて銀色にきらめいている。




 ぼくは自分の手をまじまじと見つめた。震えの止まらない指先に、あの宿望館の静謐がまとわりついているような感覚があった。




 真新しいこの部屋に古びた匂いがする筈なんて有る筈がないのにと思いながら、ぼくは軽く指を振り、時計を止めると、ベッドからゆっくりと起き上がるのだった。




 今日という嘘を、再び生き始めるために。ぼく自身の本質を扉の奥に隠し、完璧な「僕」という仮面を整えて。









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