No.150 帰還のノイズ、あるいは偽りの聖域
No.150 帰還のノイズ、あるいは偽りの聖域
気がつけば、白い光の檻は背後に消え、真は夜の闇を歩いていた。
宇賀たちの騒がしい声も、大口の澄んだ視線も、今はもう遠い。
(……ログ確認。意識の断続的な欠落を検知。……過負荷によるセーフモードへの移行。……現在地、自宅前)
右隣では、相変わらず『黒い砂嵐』がまとわりつくように蠢いている。
それは時折、真の袖を掴もうとするように形を変えるが、真の網膜はその動きを『無意味な座標の揺らぎ』として冷徹に処理し続けた。
真は昨日同様に既に明かりが点いていた家の玄関を開け、帰宅の報告をする。
「あ、まーちゃん! おかえり。……って、どうしたの!? その怪我は!?」
玄関を開けるなり、美弥が血相を変えて駆け寄ってきた。
リビングの温かな灯りが、真の包帯を白く照らし出す。
その光景にさえ、真は言いようのない『解像度の不一致』を感じていた。
美弥は、真の親と親交があっただけの、血のつながりのない赤の他人だ。
身寄りのなくなった真が施設へ送られる寸前、彼女は「自分が預かる」と申し出た。
以来、彼女は真の保護者として、この家で共に暮らしている。
その献身的な慈愛は、今の真にとって最も理解不能な、非論理的なデータの塊だった。
真は小学生のリュックを拾うため崖を下りたり。
鏡のお堂で床を踏み抜いたりと──事実のみを、まるで読み上げソフトのような抑揚で彼女に伝えた。
「まーちゃん。あなた昔からそんなに活発な子じゃないんだし、無茶なことしちゃダメでしょう。無機質無感動なのは、あなたが昔、辛い思いをしたことの防衛本能だと私は理解しているわ。でもそれとは別、あなたの命が今あるのは、あの子が懸命に守った証なの。それを蔑ろにするのは、あの子の意思を無駄にする行為よ。だから命を粗末にするような行為だけはやめてちょうだい」
「あの子」という言葉が出た瞬間、右隣の砂嵐がひときわ激しいハウリングを上げた。
美弥が心配そうに、手首の包帯に触れようとする。
真は反射的に、彼女の指先が包帯の端に触れる前に、その手を静かに、だが明確に拒絶するようにかわした。
獅子井に中性的な個体と指摘されたと、真がぽつりと呟いた言葉は、自分という存在が、もはや個体としての定義からも剥離し始めていることへの報告だったのか。美弥は、わずかに目を見開き、悲しげに微笑んだ。
「個体って、あなたね……。まあ、無事ならいいけど。今日はもう、しっかり休みなさい。私が美味しいもの作って、はい…。リビングで大人しく座ってます」
美弥の言葉。美弥の心配。それは自分に向けられている温もりだ。
だが、今の真にとっては、それもまた『真としてのロールを維持するための環境音』に過ぎない。
食事中も、風呂の中でも、右隣のノイズは消えなかった。
「『――まこと、食べないで。それ、私の、私の場所なの……』」
幻聴のように耳を劈くハウリングが脳を揺らす。だが、真は無表情に箸を動かし、鏡に映る自分の顔さえも見ずに髪を乾かした。
(……ノイズレベル、最大。……無視を推奨。……全感覚遮断によるシステム・スリープを開始)
ベッドに潜り込み、冷たいシーツを首まで引き上げる。
隣で訴えるように、あるいは絶望を嘆くように泣き叫んでいるはずの『ナニカ』の気配を、真は強固な論理の壁で、冷酷に圧殺した。
「僕は真だ。真なんだ」。
そう自分に言い聞かせる回路が、深い闇へと沈んでいく。
……不意に、鼻腔をくすぐったのは、古い木々と高貴な香料の匂いだった。
瞼を開けると、そこは自宅の天井ではなかった。
古く、然れど品の良い意匠が凝らされた調度品が所々に見受けられる館のロビー。
神聖な雰囲気を醸し出すその場所からは、どこからか、あるいは頭の中に直接響くような、厳かな讃美歌さえ聞こえてくるのではないか。そう錯覚させるほどの静謐が、そこには満ちていた場所。そう──
――宿望館。
真は、一歩も外へ出てなどいなかったのだ。




