No.153 論理の引導、 あるいは正常という名の毒
No.153 論理の引導、 あるいは正常という名の毒
宇賀と兎束に両脇を支えられ、真は広場へと続く参道を戻っていた。
一見すれば、それは負傷した友人を労う学生たちの、ありふれた風景に過ぎない。
だが、真の網膜が捉え、再構築する世界は、決定的に、そして不可逆的に変質していた。
(…右目、有視界に異常を確認…レンダリング・エンジンの不具合と断定。一時的なハードウェア・エラーと判断し、補完処理を開始)
真の視界は、現実のテクスチャを維持できず、数秒おきに「カテドラル」の残滓がフラッシュバックのように現実と虚構が交互に点滅していた。
隣を歩く宇賀が喋ったり動いたりするたびに、真の耳元で『ドクン、ドクン』という不快な重低音のノイズが響く。
宇賀の周囲の空間だけが、その低周波に当てられたかのように波打ち、座標が激しくズレていた。
「まったく、手は怪我するし、床踏み抜くしで、ついてなかったな、まこと」
(……音響処理の重層化エラー。対象個体・宇賀琥太郎から出力される言語以外の『不明な振動』を検知。論理回路が同期を拒否。不快指数の上限を突破を確認)
「まことくん…だ、怪我は平気?」
同じく隣にいる兎束が声を掛けるが、その言葉が一旦声を詰まらせる。
だがそんなことより真の目には、兎束の姿が『何十人もの残像を背負い、肉体が焼き切れるほどの摩擦熱を放ちながら爆走している』ように異常なフレームレートで描画されていた。
彼女が指先を動かすだけで、その軌跡が空中に数秒間、汚い残像としてこびり付く。
(……描画フレームの異常。対象の移動速度と残像処理の矛盾を確認。……バグとして処理する)
現実という名の情報が、腐った生ゴミのように真の論理回路へ雪崩れ込み、彼を蝕んでいく。
「……戻ったか。自己の修復は完了したのか」
広場の中央、獅子井が立っていた。彼女が歩み寄るたびに、真の視界のタイル状の床が物理的に『固定』され、逃げ場のないグリッド線となって浮き上がる。
世界が、彼女の「規律」という名のアルゴリズムに強制的に同期させられ、呼吸の隙間さえも計算式の中に閉じ込められていく感覚。
(……座標のスタックを確認。対象の歩行に合わせ、背景データが強制停止している。システムの柔軟性が損なわれている)
三者三様の『バグ』が荒れ狂う中、ふっと耳元で、甘やかな毒のような声が響いた。
噴水のそばに座る祈里の姿。彼女の周囲だけが、まるでテクスチャの読み込みに失敗したように色彩が抜け落ち、真っ白な「空白』と化していた。
彼女が声を発するたびに、その空白が世界を蝕む癌細胞のように広がっていく。
(……未描画エリアの拡大。……思考レベルの低下。論理回路のオーバーヒートを回避するため……思考の一時遮断を提案……?)
視界が、音が、思考が。耐え難いゴミデータで埋め尽くされ、真の論理回路がパンクしかけたその時だった。
「……まことくん!? 怪我してる!? 大丈夫……じゃないよね?」
背後から響いた、湿り気を帯びた声。
遅れて参加したのか、開始時にはその姿を見なかった大口一子が歩み寄った瞬間、真の視界を埋め尽くしていた極彩色の火花、歪んだ振動、凍りついたグリッドのすべてが嘘のように消え去った。
(……正常。……対象個体:大口一子。バグ未検出、ゼロ。……この場において、唯一の『論理的整合性』を維持する個体と定義する)
真の目には、大口だけがこの狂った世界の中で、正しくそこに『存在』している唯一の解のように映った。
彼女の放つ言葉には一片のノイズも混じっていない。その声は、乱れた周波数を平滑化するマスター・クロックのように、真の脳内に平穏をもたらした。
「いや、まことが大丈夫って言うから一緒にいったんだけど……」
宇賀が弁明するが、大口は悲しげに首を振った。
「琥太郎くん……。私、嘘は、いけないと思うな。どうせ琥太郎くんがポイント欲しさに連れ回したんでしょう。ダメだよ、真実だけが、人を救うんだから」
彼女の透明な『真実』に、真の論理回路は救われるような安らぎを覚えた。
彼女こそが、この壊れたシステムの唯一の修理者なのだと、真は確信に近い安堵を覚えた。
だが、大口が静かに立ち去った直後。真は自らのシステムに生じている『最大の矛盾』を検知した。
(……警告。特定座標に、持続的な高エネルギーノイズを検出。……対象との距離、零。……すぐ右隣?)
真が視線を巡らせても、そこには誰もいない。宇賀も兎束も、数歩先を歩いている。
しかし、真の右目は、自分のすぐ隣に、人の形をして蠢く『真っ黒な砂嵐』を捉えていた。
「『――まこと! まこと、しっかりして! お姉ちゃんが、ここにいるから!』」
そのノイズの塊から、理解不能なハウリングが発せられるたび、真の思考回路は致命的なエラーコードを吐き出す。
その声は、かつて慈しみ合った記憶を呼び覚まそうとするが、今の真にとっては、それは耳の奥で金属を擦り合わせるような、吐き気を催すほどのゴミデータに過ぎなかった。
(……データの完全な破損。……自己の『存在定義』を根底から否定する、無意味なゴミデータと断定。排除プロセスを推奨)
真は、存在しないはずの隣の『空白』に冷徹な視線を向けた。
己と言う存在を『真』であることを証明するはずの論理回路が、大口の残した『嘘』という言葉と、隣に寄り添う『最大のバグ』によって、静かに、確実に、真に崩壊と言う名の亀裂が入り始めていた。
「……おい、まこと? 大丈夫か、ぼーっとして」
宇賀の声が、厚い霧の向こう側から届く幽霊の声のように聞こえてくる。
真は意識を強制的に『通常レイヤー』へと引き戻した。網膜の端では、依然として右隣の『黒い砂嵐』が激しく明滅し、ハウリングを撒き散らしている。
だが、真はそのノイズを「存在しないもの」として、意識の最下層へと追いやった。
(……異常検知、問題なし。現状のバグは、件の鏡との一時的接触による情報処理不全と再定義。自己活動の支障に問題なし)
そう。己は『真』なのだ。
大口が言った通り、真実だけが自分を救う。
そして今の自分にとっての真実は、この北王子学院の生徒として、獅子井や宇賀たちと共に『正しい日常』を送ること。
それ以外はすべて、排除すべきノイズに過ぎない。
「問題ない。……救護テントへ、いや和尚に、報告しなければならないことがある」と、真の声は、先ほどまでよりもさらに抑揚を失い、完全に感情を排した合成音声のようになっていた。
彼は、隣に寄り添う『姉』という名のバグが、絶望に顔を歪め、ボロボロとノイズの涙を流したことに、気づかないふりをした。
歩き出す真の背後で、夕暮れの広場に長い影が伸びる。
それは真一人の影ではなく、重なり合う複数の『誰か』の影のように、歪な形をして地面に張り付いていた。




