No.154 情報のカテドラル 、あるいは剥落する自己定義
No.154 情報のカテドラル 、あるいは剥落する自己定義
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視覚情報は無意味な色彩の奔流へと変わり、耳元では数千万人の『ささやき』が重なり合って、意味を成さない地鳴りへと変貌した。
真の論理回路は、この過剰な情報量を処理しきれず、絶え間ない警告音を発し続けている。
「(ッ!? 状況への対応が不可能。……自己境界の侵食を確認)」
真のその声は、自身の喉から出たものではなく、剥き出しの意識が空間そのものを振動させて響いた。
真が目を開けると、そこは物理法則が死に絶えた、極彩色の霧が立ち込める異空間だった。
空には太陽も月もなく、どろりとした脂ぎった黄色の雲が、内臓を攪拌するように渦巻いている。
足元に広がるのは、先ほどまでいた小さなお堂ではない。
それは、何者かの歪んだ願望によって肥大化し、再構築された、禍々しい『情報のカテドラル』の回廊のようであった。
回廊を構成する石造りの壁は、よく見れば数十年分の古新聞や古びた羊皮紙が、地層のように幾重にも積み重なってできている。
その紙の隙間からは、どす黒いインクが粘り気のある血液のように滴り、壁全体が巨大な肺のように、不規則に、そして重苦しく脈動していた。
壁に飾られた無数の肖像画。
そこに描かれた人物たちの顔は、すべて漆黒の『×印』のテープで乱暴に塞がれている。
真がその前を通り過ぎるたびに、肖像画たちは額縁の中で激しく身悶えし、乾いた紙が擦れるような、呪詛に近い不快な笑い声を漏らし、真の意識を混濁させる。
「『――まこと! まこと、しっかりしなさい!』」
意識の混濁を切り裂くように、まどかの声が響く。
この世界では、実体を持たなかったはずの彼女の姿が、物理世界よりも鮮明に、鋭い色彩を伴って『存在』している。
しかし、真には依然認識されておらず、彼女の言葉は深い水底から響く反響音のように真の脳内を揺さぶるに留まる程度であった。
その時、回廊の奥から『それ』が這いずり現れた。
それは人にあって人に非ず。
無数の活字が皮膚に突き刺さり、毛穴から腐ったインクを噴き出す異形の群れ。
先頭を行く個体は、顔面が巨大な真鍮製の拡声器へと変貌しており、全方位に向けて鼓膜を腐らせるような不協和音を撒き散らしている。
またある者は、自身の身体を何百枚、何千枚もの『嘘』と書かれたレッテルで埋め尽くし、その言葉の重みに脊椎をへし折られ、濡れたナメクジのように床を引きずっていた。
真は反射的に腰の清掃具へ手を伸ばした。
しかし、指先が触れたトングは、真の論理的な思考を嘲笑うかのように、飴細工のようにぐにゃりと曲がり、ドロドロとした銀色の液体へと変質した。
それは真の指の間をすり抜け、床のインク溜まりへと溶けて消える。
『物質』に依存する真の技術も、現実の物理法則に基づく護身術も、精神の強度がすべてを決めるこの世界では、『物質』の定義が崩壊していた。
真が無機質な絶望を計算する間にも、異形たちはその『静寂』を食らおうと距離を詰めてくる。
彼らが発する言葉は、真実を塗り潰すための『泥』。一歩近づかれるごとに、真の視界にはノイズが走り、思考回路の処理速度が劇的に低下していく。
「「「アナ……ン……ミ……、イ……セカ……ッ! ノ……ソ……ウ、ハ……コ……コ……!!」」」
拡声器の顔を持つ個体が、耳を裂くような音量で『嘘』の奔流を叩きつける。
それは物理的な衝撃波となって真の精神の境界を削り取り、強固だったはずの論理を、根底から腐らせていく感覚。
視界に真っ赤なノイズが走る。
真の思考回路の処理速度は劇的に低下し、自身の名前すら、意味を持たない記号へと分解され始める。
真は冷徹に、そして痛切に自らの無力さを悟った。
ここでは彼が誇る『効率』も『論理』も、誰かの歪んだ願望という名の濁流に飲み込まれるだけの小石に過ぎないのだ。
「『まこと、鏡よ! 鏡を探して! ここにいたら、あなたの『本当』が全部消されちゃう!』」
水底から響くようなまどかの叫び。
それが、バラバラになりかけた真の自我を繋ぎ止める唯一の『杭』となった。
真は自身の感覚さえも疑いながら、周囲のノイズを無理やり「不要データ」として棄却し、この狂った空間における『綻び』を見つけるように視線を走らせる。
歪んだ回廊の突き当たりに、そこには、周囲のおどろおどろしい質感とは明らかに断絶した、不自然に波打つ銀色の光があった。現実のお堂で目にした、あの「たゆたう水面」と同じ周期の波紋。
「(……座標、確認。最短経路での帰還行動を――選択)」
真はもはや計算を放棄した。全精神を「帰還」という一点のみに収束させる。
背後からは、レッテル塗れの異形たちが「嘘」の重圧を撒き散らしながら、真の意識の裾を掴み取ろうと無数の腕を伸ばしてくる。
新聞紙の壁から飛び出した無数の指先が、真の頬を、肩を掠めた。
触れられた場所から、自身の存在が薄汚れ、意味を失っていく感覚。
真は自我崩壊する寸前に回廊の床を蹴った。
重力が横倒しになり、視界が時計回りに回転する中、彼はその銀色の波紋へと、魂を弾丸にして飛び込んだ。
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――肺が、燃えるような熱を帯びた。
次の瞬間、真の全感覚を襲ったのは、重力という名の無骨で、しかし愛おしいほどの質量だった。
「――おい! まこと! 大丈夫か、しっかりしろ!」
鼓膜を激しく叩く、宇賀の焦燥に満ちた怒鳴り声。
視界が明転する。
極彩色の霧も、活字の異形も、血の通った新聞紙の壁も、すべては白昼夢であったかのように霧散していた。
真は腐った床板を思い切り踏み抜き、祭壇に突っ伏すようにして倒れ込んでいた。
左手は今やただの古い鏡の表面を、指先が白くなるほど強く押し付けている。
「びっくりしたぞ……。いきなり床が抜けたと思ったら、そのまま硬直して動かなくなるんだから。どこか強く打ったのか?」
「まことくん、手首の怪我が響いたんじゃない!? ほら、早くそこから出よう」
宇賀と兎束が、左右から真の脇を抱えて引き上げる。
二人にとって、それは数秒足らずの『不運な事故』に過ぎない。
彼が今しがた、誰かの歪んだ願望が形を成した『情報のカテドラル』を彷徨い、自己境界を削られかけてきたことなど、露ほども疑っていなかった。
(……帰還に成功……外部環境の正常化を確認。心拍数、正常値への収束を開始……)
真は二人に支えられながら、脳内のシステムログを高速で走らせた。
しかし、その末尾には、現実世界の論理では解析不能な『意味を成さない活字の羅列』が、バグのようにこびり付いている。
真は、無機質な瞳で再び静止した鏡を見つめた。
埃を被ったその鏡面には、今はただ、茫然と彼を覗き込む宇賀たちの顔と、表情を欠いた自分自身の顔が、無慈悲なほど正常に映っている。
だが、包帯の巻かれた左手には、まだあの世界の、精神を逆なでするような冷たさが、消えない痺れとなって深く刻まれていた。
(……あの空間は危険だ。自己保存を優先するなら近寄らない方が良い……)
自身の内側に残る『バグ』のような痺れを、真は冷徹なデータとして処理し、分析を終える。
だが真はまだ知らない。
あの異界で目にした『×印で塞がれた肖像画』や『嘘のレッテル』が、この後に対峙することになる存在の、拭い去れぬ『罪悪感』の具現であったことを。
「……問題ない。作業を、再開する』と普段と変わらぬ抑揚のない声質であったが、真は震える指先を隠すようにトングを拾い上げていた。
言動や動作は確かにいつも通り機械的だったが、隣で彼を見つめるまどかの瞳には、かつてないほどの、そして隠しようのない深い不安が揺れていたのだった。




