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No.155 鏡面の境界線、あるいは集合的無意識への潜行




No.155 鏡面の境界線、あるいは集合的無意識への潜行




 「おう、まこと。お前どこ行ってたんだって、なんだその手は!?」


 広場へと戻ってきた真、祈里達とわかれた後、宇賀がその姿を見かけると声を掛けてくるが、真の手首が赤く鬱血していることに目が行く。


 真が淡々と、壊れた計測器がエラーログを出力するかのように自身の不注意、崖からの脱落、そして「救助」という名の執行。


 その報告を聞いた瞬間、宇賀の顔から血の気が一気に失せた。


 「『規律』……? おい、それって、まさか……あの氷結の処刑人(アイス・メイデン)がここにいたのかよ!? あ、いや、あいつらも学生会の一員だから来てないって方がおかしな話だし…」


 宇賀の言葉とは裏腹に、膝が目に見えてガクガクと震え。


 かつての『反省房』で徹底的に叩き直された記憶が、宇賀の脳内で警報を鳴らしていた。


 「マジかよ……最悪だ。ここに来てあいつにエンカウントするとか、どんな罰ゲームだよ……。いいか、まこと。あいつの目が届く範囲じゃ、クシャミ一つ、瞬き一つにも気をつけろよ。呼吸の仕方が規律に反してるとか無茶苦茶なこと言われて連行されるぞ!」


 大袈裟に身振り手振りで恐怖を語る宇賀。


 その必死な様子に、隣にいた兎束は「そんなわけないでしょう」と、宇賀の胸元に軽く手の甲を当てツッコミをしていた。


 真は、宇賀の騒ぎも兎束のツッコミも、背景ノイズとして処理しながらトングを『カチリ』と鳴らし、「支障はない。清掃を続行する」と一言告げる。


 「続行もなにも、まこと……。その手、感覚あるのか? 救護、いやこの場合医者か? 見せた方がいいって」


 「そうだよ、まことくん。怪我してまでやる依頼(タスク)じゃないんだし」


 「『ほら見なさい、コタローも雛ちゃんもあんなに心配してるじゃない。まこと、少しは自分の体を労りなさいよ!』」


 まどかが宇賀たちの言葉に合わせるように、真の顔の前で両手をバタつかせ、必死の形相で訴える。


 しかし、真の網膜に映るのはまどかの姿ではなく、効率的に処理されるべき『残りのゴミの量』というデータだけだった。


 真は感情を排した声で「問題ない」と答え、再びゴミ袋の口を縛り直す。


 その無機質な断定に、宇賀は呆れたように天を仰ぎ、兎束は困ったように眉を下げました。


 「……まったく、まこと。お前のその『頑固な機械』っぷりには、時々怖くなるぜ」


 宇賀が溜息混じりに零した、その時。


 カツ、カツ、カツ、と。


 広場へと続く石畳の参道から、一分の狂いもない、メトロノームのように正確な足音が響いてくる。


 その音は、近づくにつれて周囲の空気の密度を重くし、先ほどまでの穏やかなやり取りを凍りつかせていく。


 宇賀の肩が、ピアノの線が弾けたような音を立てて跳ね上がり。


 宇賀は反射的に真の背後に回り込み、震える指先で参道の方を指し示す。


 「来やがったぜ……死神さまがよ……!」


 参道に漂う薄い霧を切り裂くように現れたのは、ポニーテールを微塵も乱さず、腕には鈍く光る『規律』の腕章を巻いた獅子井志那都だった。


 彼女が踏み出すごとに、広場の喧騒は絶対零度の緊張感に塗り替えられていく。


 獅子井は広場全体を一瞥し、一切の『乱れ』すら許さない冷徹な視線を走らせ、真の姿を確認するとこちらに視線を固定し近寄ってくる。


 「ひ、ひいぃぃ、こっち来やがった…な、なんようだ。あの局長さまはよ…」


 怯える宇賀に兎束は「いや、あんた怯えすぎだし」と、呆れた言葉を漏らしていた。


 獅子井は一分の隙もない歩法で真の目の前まで来ると、ピタリと足を止めた。


 周囲の気温が物理的に下がったかのような錯覚に、宇賀は真の背中にしがみつくようにして身を縮める。


 その無様を晒す後輩の姿に獅子井は一瞥をくれるも、特に気にする様子はなく。


 真の手首に視線を落とした。


 「……やはり怪我をさせてしまったか。申し訳ない。非常事態だったとは言え、無茶な助け方をしてしまった」


 獅子井は真に対して深々と頭を下げた。


 その様子を見ていた宇賀は「……おお、あの氷結の処刑人(アイス・メイデン)が人に頭下げてるよ」と珍しいものでも見たかのように呟いていた。


 それは周りにいた者達も同じようで、獅子井の予想外の行動に、広場の時間は先ほどとは別の意味で凍りつく。


 『規律』の権化が、一個人の学生に対して一切の迷いなく頭を下げる。


 その姿には、傲慢さの欠片もなく、ただ自身の『落ち度』に対する誠実すぎるほどの責任感が宿っていた。


 真が感情を排した声で「問題ない」と応じるが、獅子井は顔を上げると、その鋭い眼差しに強い光を宿した。 


 「いや、私の制御不足だ。人を救うために振るう力が、その対象を傷つけては本末転倒。……こんな時のために救護テントを用意してある。清掃活動を続けるにしても止めるにしても、治療は必要だ」


 「『……ポニテちゃん。ただの怖いだけの人かと思ったら、変なところで律儀なのね。……でもまこと、ポニテちゃんの言う通りに治療はした方がいいわよ。帰ったら美弥ちゃんも心配するだろうし』」


 まどかが真の肩越しに、獅子井の顔をまじまじと見つめ、家に帰った後の保護者の心配ぶりを案じるように真に声を掛ける。


 一方、真の背後で『奇跡』を見たかのような顔をしていた宇賀は、獅子井が視線を自分の方へスライドさせた瞬間、再び心臓が止まるような戦慄を覚えた。


 「……宇賀。貴様、いつまでそこに無様に張り付いている。重力に逆らえぬ背骨など、この広場には不要だ、背筋を伸ばせ」


 「ひ、ひぃっ! はいっ!!」


 宇賀は反射的に真から離れ、文字通り『規律』正しい直立不動の姿勢を取る。


 その様子を見ていた兎束は、溜息をつきながら真の手首を改めて心配そうに見つめ。


 「でも、獅子井先輩。まことくん、さっきから全然休もうとしないんです。先輩からも、もっと厳しく言ってやってください」


 兎束がなかば悪戯っぽく獅子井に振ると、獅子井は真の手首にある鬱血の痕をもう一度厳しく見据え、頷くと、真に対して『宣告』した。


 「これより君の清掃活動の一時停止、ならびに『強制休息』を命ずる。自己の保全を優先し、救護テントにて細胞の修復にリソースを割け。そこから一歩でも動けば、規律違反として拘束する」


 獅子井の言葉に真は短く「わかった」と答え。


 救護テントの場所を聞くと、トングやビニール袋を背中にいる宇賀に渡し、そちらに歩いていった。


 そんな二人のやり取りを見ていたまどかは


 「『この二人の会話聞いてると、まことがそのうち「任務了解。自爆する」とか言いそうで、お姉ちゃん怖いんですけど!』」


 と、絶対、いや多分訪れることはないであろう真の未来を案じていた。


 規律に従い、機械的な歩調で救護テントへと消えていく真。


 その後ろ姿を見送った獅子井は、満足げに一度頷くと、再び氷の視線を広場へと戻した。


 その視線の先に捕らえられた宇賀は、いまだに石像のような直立不動を維持している。


 肺に送り込む空気の量さえも規律に抵触しないか不安なようで、その顔面は蒼白を通り越して、最早土気色だった。


 「宇賀。貴様のその『静止』は評価するが、行動に支障がないのであれば清掃活動を開始しろ」


 「……は、はいぃっ!!」


 宇賀は奇妙な叫び声を上げ、脱兎のごとくその場を離れていく。


 「『……ちょっとポニテちゃん、コタローのHPはもうゼロなんだから、勘弁してあげてよ』」


 まどかが苦笑しながら空中で肩をすくめ、真の後を追い始める。


 獅子井はそんな姿を見ることはなく、最後に兎束の方へと歩み寄る。


 「兎束。先程の言葉に感謝する。君の言葉がなければ、私は彼を力ずくで救護テントに押し込んでいたことだろう」


 その声は、先ほど真に向けた冷淡なものとも、宇賀を震え上がらせた鋭いものとも違っていた。


 どこか自嘲気味で、自身の言動が周囲に威圧感を与えてしまうことを自覚している者の不器用な響きがあった。


 「あ、いえ……。まことくん、ああ見えて一度決めたら動かないところがありそうですから。獅子井先輩が無理やり連れて行こうとしたら、それこそ二人の優先順位の押し付けあいで、被害甚大になってたでしょうし」


 兎束は困ったように笑いながら答えた。


 兎束は知っている。


 獅子井が誰よりも規律に厳しいのは、そうすることでしか守れないものがあると考えているからであり、その厳しさは獅子井なりの『責任』という名の優しさの裏返しであることを。


 「……そうだな。私は、言葉の選択を誤ることが多い。兎束、君のような柔軟な視点に救われることがある」


 獅子井は僅かに視線を落とし、それからまた凛とした表情に戻った。


 「彼は……自身を損なうことに無頓着すぎる。今後も彼の『異常』に気づいた際は、迷わず私に報告してほしい。それは規律の遵守以前に、いち学生を保護するために必要なことだ」


 「はい、獅子井先輩。また何かあったら、すぐにお節介を焼きに行きますね」


 兎束の明るい返事に、獅子井の口元が、ほんの一瞬だけ、北国の春の訪れのように僅かに緩んだ気がした。


「……期待している。では、私は巡回に戻る。宇賀の監視も兼ねてな」


 獅子井は一寸の乱れもない動作で翻ると、必死にゴミを拾っている宇賀の方へと歩き出した。


 その背中は相変わらず孤高で険しいものだったが、見守る兎束の瞳には、先ほどよりも少しだけ柔らかな光が宿っていた。




 ☆★☆★☆




 カツ、カツ、と乾いた靴音を響かせ、真が救護テントから戻ってきた。


 その手首には白い包帯が隙なく巻かれている。


 獅子井の『命令」という名の休息タスクを完了し、彼は再びトングを手にゴミ回収を再開する。


 「『……任務完了、とか言わないでよ、まこと』」


 呆れと諦めが混じったまどかの呟きに、真は反応しない。


 ただ手首の包帯を一度締め直すと、待機していた宇賀と兎束の元へ合流した。


 「お、まこと。戻ったか」


 「処置は終わったみたいだね。無理は禁物だよ?」


 三人は清掃活動を再開し、今度は広場から少し離れ、古びた石畳の続く一本道へと入り込んだ。


 広場の喧騒は、鬱蒼と茂る木々の合間を縫うように伸びる細い道に入ると、嘘のように遠ざかっていった。


 道幅は狭く、湿った土と古い苔の香りが鼻を突く。太陽の光は厚い枝葉に遮られ、ここだけが夕暮れに取り残されたような薄暗さに包まれている。


 「『……ねえ、まこと。ここ、なんだか嫌な感じがしない。空気が重いというか、肌がベタつくって言うか……』」


 まどかが真の耳元で心細そうに周囲を見渡す。実体のないまどかにとって、本能的な『違和感』は生身の人間よりも鋭敏に働くのかもしれない。


 だが真の網膜に映るのは『清掃未完了のエリア』という情報のみであり、まどかの不安は背景のノイズとして処理されていた。


 「ここ、隠れた穴場なんだよな。本堂の方はみんなで一斉にやるけど、こういう隅っこは案外ゴミが残ってるもんなんだぜ。なにしろ俺は去年そうやって冷蔵庫(大物)を見つけた」


 「そうだね。少し不気味だけど、こういう古い場所を綺麗にするのも、この依頼の醍醐味かも」


 宇賀と兎束は、この場所の異質な静寂を『穴場』という言葉で片付け、手慣れた様子で散乱しているゴミや落ち葉を掃き始めた。


 その道の突き当たりに、()()はあった。


 周囲の木々に飲み込まれそうになりながら、ひっそりと佇む小さなお堂。


 朱塗りの塗装は剥げ落ち、格子戸には幾重にも蜘蛛の巣が張っている。その存在自体が周囲の景色から浮き上がっているかのような、奇妙な断絶感があった。


 「『こんなところにお堂……? いつから放逐されてるのってほどばっちいお堂だね。まこと、あそこは止めときなさい。汚れはあっても ゴミなんてなさそうだし』」


 まどかが真の袖を引くように手を伸ばすが、指先は空しく虚空をすり抜ける。


 その真はまどかの制止を意に介さず、格子の隙間から内部を視認した。


 真が覗き込むと幾らかのゴミが散乱していた。


 真はゴミがあることを確認すると、一切の躊躇なく古い格子戸に手をかけ、ゆっくりと引く。


 乾いた木材が悲鳴のような音を立てて開き、中の澱んだ冷気が一気に溢れ出してきた。


 「『だあー! この子ってばどうしてお姉ちゃんの言うことを聞かないかな!? 反抗期!? 反抗期なの!?』」


 堂内は狭く、埃が舞う中央には古びた祭壇が置かれていた。


 だが本来あるべき仏像や神体の姿はない。


 ただ一つ、鎮座していたのは、一面の鏡だった。


 台座に固定されたその鏡は、本来なら真の無機質な表情を映し出すはずだった。


 だが、その鏡の表面がまるで『水面』のようにゆらゆらとたゆたっている光景だった。


 銀色の液体が物理法則を無視して円状の波紋を描き、鏡の奥へと引き込まれるように脈打っていた。


 真は鏡が異常だと外の二人に声を掛ける。


 真の声に中に入ってくる二人は、真の言う鏡を見つめるが。


 「……?  なんだよまこと、鏡がどうしたって?  ちょっと埃被ってるけど、普通だろ」


 「そうだよ、まことくん。ただの古い鏡に見えるけど……。処置したばっかりだし、まだ目が疲れてるんじゃない?」


 二人の瞳に映っているのは、埃の積もった変哲もない円鏡。


 真は『二人との認識の齟齬を確認がある』と短く思考のログに残し、深追いはせず清掃仕事を継続した。


 たとえ鏡面が流動化していようとも、それが物理的な干渉を及ぼさないのであれば、彼にとって優先度の低いことがらである。


 だが、異変は足元から訪れた。


 鏡の直下、溜まった埃を掃き出そうと真が半歩踏み出した、その時。


 ――()()


 数十年もの間、陽の光を浴びず湿気を吸い続けた床板が、真の体重を支えきれずに悲鳴を上げた。


 不吉な破壊音と共に、真の右足が虚空へと落ちる。


 「『まことっ!?』」


 まどかの叫びが響く。咄嗟に姿勢を立て直そうと、真は反射的に左手を近くの構造物へと伸ばした。


 指先が触れたのは、祭壇の中央に鎮座する、あの鏡の()だった。


 ――冷たい。


 硬質な感触を予想していた指先は、抵抗なく銀色の膜を突き抜けた。


 鏡面はガラスの反射ではなく、重油のような粘り気を持った液体へと変貌し、真の腕を、肩を、そして全身を強烈な重力で引きずり込む。


 「なっ……まこと!?」


 「まことくん、手をっ!」


 宇賀と兎束が手を伸ばす。


 しかし、真の網膜に映る二人の姿は、一瞬にして万華鏡のように粉砕され、反転した。


 重力が消失し、天地が入れ替わる。


 物理世界という殻を突き破り、真の意識は、あらゆる人間たちの想念が濁流となって渦巻く『集合的無意識の世界』へと、その身を投げ出された。


 精神の底に沈殿する無数の『声』がノイズとなって流れ込む中、真は無機質な思考の底で、一つの確信を抱く。


 ――ここは、物理的実体の外側。


 データの海ですら到達し得ない、精神世界の深淵であると本能的に察したのだ。




















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