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 No.152 欠落した獣 、あるいは 断絶のメタファー




 No.152 欠落した獣 、あるいは 断絶のメタファー




 広場の喧騒が、遠い異世界の出来事のように遠ざかっていく。


 宇賀や兎束の、体温を伴った心配の声を背後に残し、真は一人、如是山・空因寺の境内に足を踏み入れた。


 その瞬間、古びた木造建築が吸い込んできた数百年分の「死」と「生」が混ざり合う、重厚な静寂が彼を包み込んだ。


 夕闇が迫る中、線香の香りが冷えた空気に混じり、規則正しく響くししおどしの音が、世界の輪郭をかろうじて繋ぎ止めている。


 だが、真の視界は依然として『正常』には程遠かった。


 (……右目、未だに座標バグを継続中。。……右隣、特定座標のノイズ源、出力が安定せず。自己補完プログラムは――依然として機能不全)


 和尚の座る縁側のすぐ側、真の右隣に寄り添う『黒い砂嵐』は、古いテレビの故障のように激しく明滅し、時折キーンという耳障りなハウリングを撒き散らしている。


 それは、もはや「声」ですらなく、ただの「苦痛」そのものを増幅した電気信号のようだった。


 和尚は、茶碗から立ち上る湯気の向こう側で、慈悲とも諦観とも取れる細めた目を真に向けた。


 「……なるほど。あのお堂に迷い込み、鏡に触れたと」


 真は感情を排した声で、淡々と問いを重ねた。


 なぜあのお堂が今も放置されているのか。そしてあの鏡は何なのか。


 「あれは天虎家の強い願いにより、当時のままの姿で維持されております。あの一族にとって、あの場所は……失ってはならぬ『記憶』そのものなのでしょうな。一応の管理は当寺が引き受けておりますがな」


 和尚は茶を啜り、視線を本殿の方へと向けた。


 その瞳は、物理的な距離を超えて、何か別の時間軸を見ているかのようだった。


 「あの鏡は、本殿に祀られた御神体の力を分けた『分け身』のようなもの。お堂を外敵から守るための結界の役割を果たしておったはずなのですが。……まことどのがそこへ引き込まれたのは、仏の導き……あるいは、何らかの共鳴が起きたのかもしれませぬ」


「『導き!? あれはそんなご立派なものじゃなかったわよ! あれは! あれは…』」


 まどかがあの世界を形容しようとしたが、それをどう口にして良いのかわからないように、言葉が萎んでいく。


 真は真で和尚の言葉に心の内側で自嘲した。


 (……否定。……あれを『導き』などという曖昧な論理で定義することは不可能。……あれは、システムの致命的な破壊(クラッシュ)を引き起こすバグと変わらない)


 真は、精神世界で見た豹変者たちの姿を語った。


 自己を否定し、異形の姿で迫りくる『仲間』たちの幻影。


 和尚は数珠をなぞりながら、静かに頷く。


 「仏教には『マーラ』という言葉がある。修行者が悟りを開こうとする際、それを邪魔し、迷わせる天魔の類。まことどのが触れたものは、まことどのの(ことわり)を揺るがす煩悩の化身であったのかもしれませぬぞ」


 「否定」と真の声が、寺の静寂を冷たく切り裂いた。


 (あれは、邪魔や誘惑といった生易しいものではない。……他者を食べ、他者という輪郭を内側から塗り潰そうとする、飢えた『獣』のような存在)


 と、真がそう口にした瞬間、右隣の砂嵐がひときわ激しく波打った。


 「『――まこと! だめ、それは……!』」


 ノイズの塊から、理解不能な悲鳴のようなハウリングが奔り、真の思考回路を焼き切らんばかりに震わせる。


 和尚は動きを止めた。


 和尚は真の目を見ず、真のすぐ右隣にある『何も無いはずの空間』を、まるですべてを見通しているかのような鋭い眼差しで射抜いた。


「……食べる、あるいは塗り潰す、ですか」


 和尚がゆっくりと細めた目を開く。


 その瞳には、慈愛と、それ以上に深い深淵のような知識が宿っていた。


 「まことどの。……であれば、それは『マーラ』などではなく……『欠落した獣』というものではありませんかな」


 (Warning:――Error。……Error。……不明なキーワードを検知。……自己定義ファイルとの致命的な干渉を……確認……)


 その言葉が放たれた瞬間、真の右目の視界は真っ赤なエラー警告で埋め尽くされた。


 隣の砂嵐が、まるで力尽きたようにぴたりと静止する。


 夕闇の境内に、和尚の言葉だけが重く、冷たく、真の『真実』という名の嘘を暴くように響き続けていた。


 和尚は茶請けに用意した煎餅をひとつ手に取りそれを割った。


 「まことどの、これがまこどのが見たと言う欠落した獣。その獣は己が失った半身を求めさ迷い、他者を食らう。然れど、獣は他者を食らえど失った半身を得ることはない。何故なら──」


 和尚はもう一枚手に取りそれも割る。初めに割った煎餅と後に割った煎餅の半分を合わせる。


 「このように決して合うことはないから。それでも獣は求め他者を食らう。真の己を取り戻すために。奪った破片を自分の欠けに押し当て続け、血を流しながら、合わぬ痛みに喘ぎ続ける」」


 真の口から「……真の、己を」と、乾いた言葉がこぼれ落ちる。


 和尚の手元では、断面の合わない二枚の煎餅が、不格好に押し当てられていた。


 どれほど強く押し付けようとも、元々一つの塊であったはずの滑らかな曲線はどこにも存在せず、ただ無残に砕けた破片が縁側に座る和尚の手からこぼれ落ちるだけだ。


 (……論理的矛盾。……欠落したデータの補填は、他者のデータでは不可能。……修復プロセス、完全停止)


 真の右目の視界を埋め尽くしていた真っ赤なエラーログが、和尚の言葉に従うように、静かに、そして絶望的な黒へと塗り潰されていく。


 右隣の砂嵐――まどかは、もはや音も立てなかった。


 ただ和尚が合わせた『合わない半身』を、自らの姿に重ねるように、力なく揺れている。


 真は和尚に問う「獣は食らい尽くした果てに何を見ける」と、だが和尚は答えなかった。


 ただ割れた煎餅うちひとつをそっと盆の上に戻し、再び細めた目を閉じただけだった。


 「それは……食らわれた者にしか分からぬこと。あるいは、食らい続けている獣自身にも、永遠に解けぬ問いなのかもしれませぬな」


 バリ、ボリ、と。その咀嚼音は、真の網膜の端で激しく明滅し続ける『黒い砂嵐』の悲鳴を塗り潰すほどに、冷酷で、現実的な音だった。


 和尚との話を終え、寺を出る真の背中に、冷たい夜風が吹き付ける。


 山門を下る足取りは重く、石段を下りるたび、膝に鈍い衝撃が走る。


 右隣の砂嵐は、もはや形を成しているのかさえ怪しいほどに濃く、昏い。


 そこから漏れ出る冷気は、山門を下る真の半身を、まるで『分け身』の鏡のようにじわじわと凍りつかせていった。


 『欠落した獣』。


 和尚が噛み砕いた煎餅の音が、今も鼓膜の奥で、真の論理を嘲笑うように響き続けている。


 (……検索。……『真の己』。……該当データなし。……代替案:不適合なパーツによる『(まこと)』を──継続。……エラーの不可視化を推奨)


 真は、震えそうになる指先を強く握りしめた。


 どれほど他者の煎餅(ピース)を奪い、繋ぎ合わせても、その断面は決して一致しない。


 和尚が示したのは、救いではなく『終わりのない飢え』の宣告だった。


 それでも自分は『(まこと)』である。


 自分が『(まこと)』として生きるために。


 あるいは、自分の中にいる『(まどか)』に、すべてを塗り潰されないために。


 「……治療の再開を」と、その独り言ちた声さえ、真にはどこか遠く、他人のサンプリングデータを再生しているようにしか聞こえなかった。


 闇に溶けゆく空因寺を背に、真は救護テントの、どこか死の匂いのする清潔な光を目指して、重い一歩を踏み出した。















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