No.156 静止する秩序、あるいは氷結の処刑人
No.156 静止する秩序、あるいは氷結の処刑人
踏みしめた腐葉土が砕け、真の視界から確定した地面が消滅した。
重力という逃れようのない演算結果に魂を引かれ、肉体が完全に空へ投げ出された、その刹那。
「――規律を乱すな!」
低い、凛とした冷気が鼓膜を打つと同時に、真の右腕に、骨を軋ませるほどの強烈な衝撃が走った。
落ちるよりも速い、電光石火の踏み込み。
そこには、いつの間にか崖の縁に現れた、北王子学院風紀維持局局長――獅子井志那都が立っていた。
獅子井は真を助けるために『手を伸ばした』のではない。
逃げ場を失った犯罪者を捕らえるかのような、無慈悲で正確な捕縛術の動きで。
獅子井は自分の掌で真の手首の急所を完璧に制するために、紐で関節を固定した。
そうすることで、その重さを『支え』ではなく『制御』の下に置いたのだ。
無機質だった真の表情が、腕を捻り上げられるような鋭い痛みに微かに歪む。
紐が食い込む軋みと、獅子井の指先から伝わる絶対的な静止の意思。
真は自分が崖から落ちる恐怖よりも先に、獅子井という巨大な『規律』に縫い留められた不自由さを感じていた。
「『――っ!?』」
悲鳴を上げていたまどかも、その場に現れた獅子井の放つ『圧』に言葉を失う。
獅子井は、崖下の深淵など微塵も恐れる様子もなく、ただ冷徹に、自身の体幹を軸にして真の体を崖上へと一気に引きずり戻した。
ドサリ、と真の体が地面に投げ出される。
獅子井は固定していた紐を流れるような手捌きで解くと、自身の白い手袋を整え、乱れるように広がった長い髪をその紐で結び直した。
その一分の隙もない仕草で腕章の位置を直す姿は、荒れた森の中でも凛として、そして異様なまでに無機質だった。
「見回りの最中に、随分と無様な姿を見せてくれたな。重力という法にすら従えぬのか、貴様は」
空間ごと凍結させるような冷淡な言葉が、真の頭上に降り注ぐ。
「『……な、なによその言い方! 助けてくれたのはありがたいけど、もうちょっと優しくできないわけ!?』」
まどかが真の前に立ち、見えない拳を獅子井に突きつける。
だが、獅子井の射抜くような眼光は、まるでそこに『異物』があることを予感しているかのように、まどかが浮遊する空間を鋭くかすめた。
「『ヒッ……!?』」
まどかが思わず身を引く。
実体のないまどかでさえ、獅子井が纏う『静止した秩序』の寒気に肌が粟立つ。
この獅子井の前に立てば、幽霊という存在そのものが『世界のバグ』として、獅子井の手により排除されるのではないか――そんな本能的な恐怖だった。
「お、お兄さん……大丈夫?」
震える声で駆け寄ってきたのは、先ほどまで呆然としていた祈里だった。
彼女の友人のサキもまた、獅子井の圧倒的な威圧感に気圧され、リュックを抱えたまま固まっている。
獅子井の視線が、ゆっくりと少女たちへ移動し、その目線を合わせるように膝を着く。
「君達の方には怪我などないか? 今回の事はあの様な危険な行為を一人で行おうとした彼に責任がある。君達に落ち度はない」
先程の絶対零度な空間を作り上げていた人物とは思えないほど、暖かみのある言葉で少女達に言葉を掛けていた。
「あ、えっと……はい。ネネたちは大丈夫です」
祈里が戸惑いながらも答えると、獅子井は僅かに目を細め、その小さな頭に優しく、しかしどこか儀式的な手つきで手を置いた。
「ならいい。そのリュックの中身も、後で必ず管理責任者に報告して確認を受けるように。不備があれば、それは君達の過失ではなく、運営の不備となるからな」
その声は、真に向けられた氷の礫とは対照的に、柔らかな陽光を思わせた。
だが、その瞳の奥には依然として『正しすぎる』光が宿っており、まどかはその異様な二面性に、救出された安堵よりも深い寒気を覚えていた。
彼女にとって、獅子井の優しさは、秩序という檻を守るための「メンテナンス」のように見えたからだ。
「『……なによ、ポニテちゃんってば、子供には優しいってこと? それとも、うちのまことを人間扱いしてないだけ? 無愛想だけどうちのまことは良い子なのよ』」
まどかが真の背後に回り込み、恐る恐るといった仕草で獅子井を観察する。
獅子井は立ち上がると、再び真の方へと向き直った。
その瞬間、獅子井の纏う空気は春の微風から、全てを切り裂く冬の疾風へと一変する。
「君の今回の失態、ならびに校外学習における安全義務違反は、局長権限で記録しておく。次に不祥事を起こせば、『反省房』行きだ。覚えておけ」
真は平坦な声で「わかった」と応じ、泥のついた手を軽く払う。
獅子井はそれ以上言葉を交わす必要はないと断じるように背を向け、一歩踏み出す。
「君達の清掃活動はそろそろ終わりになるはずだ、集合場所へと戻りなさい。列を乱さず、定められた歩道を。……いい子にしていれば、何も恐れることはない」
その去り際の後ろ姿は、美しいまでに整い、一点の曇りもなかった。
しかし、その足跡が刻まれた地面は、心なしか凍りついたかのように白く、冷たく乾いて見えた。
獅子井の背中が森の深緑に消え、完全にその気配が遠のいたことを確認して、まどかは「『ふぅーっ!』」と大げさに肩を落として宙に浮かび上がった。
「『……なんなのあのポニテちゃんは、確かに悲しい過去があるのはワン子ちゃんから聞いてるけど、怖すぎ! 本当に歩く校則。氷結の処刑人だよ。まこと、あのポニテちゃんと学院で毎日顔を合わせていける? 心臓……あ、ボクは止まってるけど、普通の人なら麻痺しちゃうよ』」
まどかの喧騒を余所に、真はただ静かに、獅子井に掴まれていた手首を見つめていた。
赤い充血が指の形に残っている。
それは『助け』の痕跡というよりは、やはり『刻印』に近いものだった。
「あ、あの……お兄さん、本当にありがとう」
祈里が、サキの抱えるリュックの端をぎゅっと握りながら、改めて真に向き直った。
彼女の瞳には、獅子井への畏怖とは別の、真に対する純粋な感謝と、そして少しの不思議が混じっている。
「ネネたちのために、あんな危ないこと……」
真は落ちていたトングを拾い上げると、先端を一度『カチリ』と鳴らした。
感情の起伏を一切感じさせない、いつも通りの無機質な動作で「見つけたから、回収しただけ」と突き放すような言葉。
しかし、真は拾い集めていたゴミ袋を持ち直すと、少女たちが進むべき道の先を、守るように見据えた。
「『こら、まこと! もうちょっと優しく言えないの? ホントお姉ちゃんは悲しいわ……。でも、まあ、あの子たちが無事に戻るまで見守るつもりなのよね』」
まどかは真の不器用な優しさを察し、にんまりと笑って真の周りを一回転した。
「……行こう、サキちゃん」
「うん」
少女たちは、無愛想な真の背中と、その上を舞うまどかの陽炎のような気配に導かれ、森の出口へと歩き始めた。




