No.157 崩落の境界、あるいは祈りの残響
No.157 崩落の境界、あるいは祈りの残響
宇賀や兎束が和尚の語る「御三家」の因縁に聞き入っている最中、その熱気から自らを切り離しするように、一人黙々とトングでゴミを拾い集める真がいた。
カチ、カチ――。
無機質なクロム合金の音が、静謐な森の空気を刻む。
真にとって、これは「清掃」という名のルーチン・ワークであり、そこに情緒が入り込む余地はない。
拾い上げられる空き缶や吸い殻は、彼にとって「処理すべきノイズ」でしかなかった。
「『もうまことってば、どうしてみんながお話てる時に黙っていちゃうの。一声掛けてからいくべきでしょう。お姉ちゃん、恥ずかしいわよ』」
黙々と作業をする真の隣で、まどかは相も変わらずオカン化して小言を並べ立てていた。
しかし、その声のトーンはどこか上調子で、彼女の意識の端には、先ほど如是和尚が放ったあの「すべてを見透かすような」視線がこびりついて離れない。
「『あの…おしょさん。……あの人、ボクのこと気づいていた風だったよね』」
まどかは、陽炎のように淡いその指先で、所在なげに自らの裾を弄った。
実体のない布地は、彼女の指をすり抜けることもなく、ただ彼女の不安に呼応するように不規則に波打っている
「『はあ、まことにだってボクの姿や声が届いていないのに、あのおしょさんにわかるはずないよね』」
まどかはきっと気のせいだと、自分を言い聞かせるように言葉に呟き、森の深い緑の中にその不安を溶かそうとした。
真のゴミ袋が「不要な記憶」という名の廃棄物で満たされようとしていた、その時。
背後から、震える小動物のような、か細い幼い声が届いた。
「あ、あのすみません……」
「『おおっおう!? だれ? あれ? いない?』」
声のした方向に振り返るもそこに誰もいない。
まどかは一瞬自分と同じ幽霊と勘違いを起こすが、その声の主は目線の更に下から声を掛けてきた。
「あ、あの、ネネはこっちです」
真がゆっくりと、機械的な予備動作を伴って視線を足元へ落とす傍らで、まどかだけが「『わわっ、どこ!? 足元!? もしかしてボクと同じタイプ!?』」と、宙に浮いたまま慌てて周囲を旋回した。
そして漸くまどかも声の主を見つけると、そこには前髪を額に垂らし切り下げ、後髪を襟足辺りで真っ直ぐに切りそろえたボブカット、勿論まどかとは違いその存在はしっかりとある生者の、何処か猫のような可愛らしい見た目の女がいた。
「『な、なんだ。生きてる子だ……っていうか、ちっちゃ、かわいい! なにこの子、キャー!!』」
幽霊の同業者だと思って身構えたまどかだったが、相手が人間だと分かると、今度はその愛くるしさに毒気を抜かれたようで、実体のない手を頬に当てて身悶えした。
まどかが身悶えしながら宙を舞う傍らで、真は「カチリ」とトングの先端を合わせ、感情を削ぎ落としたような瞳で、足元の小さな来訪者をじっと見つめ返した。
「えっと、あの、おね、おに……」
少女の困惑。真の輪郭はあまりに端正で、同時にあまりに無機質だった。
少女にとって、目の前の存在がどちらの性別として定義されているのかが判別できない。
真は一言「男性」と、遮るように放たれたその声は、低く、しかし驚くほどに平坦で、まるで感情という色を持たない無機質な記号のようだった。
「『ちょっとまこと! せっかくこんな可愛い子が話しかけてくれたんだから、もうちょっと愛想よく、優しく言いなさいよ! 冷たすぎるわよ!』」
宙でジタバタと足を動かしながら、届かぬ抗議を真の耳元で叫ぶまどか。
迷いのない断定に、ネネは一瞬「ふぇ?」と間の抜けた声を漏らし、猫のように目を丸くした。
「えっとそれじゃあ、お兄さん。ネネは『姫乃森第一小学校』の五年一組、祈里寧々子って言います。よろしくお願いします」
挨拶をしてペコリと頭を下げる祈里。
そんな律儀な挨拶を受けてもなお、真の表情にはさざ波一つ立たない。
まどかはそんな弟の横顔を「『ちょっと! 無愛想に無視しないで、せめてよろしくくらい言いなさいよ! お姉ちゃんはそんな子に育てた覚えはないわよ!』」と、透ける拳でポカポカと叩く真似をしていた。
真はトングを構えたまま、高い位置から祈里を冷たく見下ろし、「用件は?」と短く投げた。
その様子に祈里はビクリと肩を揺らし、後ずさりしかけた。
しかし、ぎゅっと小さな拳を握りしめ、逃げ出したい本能を打ち消すように真の瞳を見上げ返した。
暫し見つめ合う二人。風に揺れる木の葉の音だけが響く中、まどかだけがその空気に耐えきれず「『……ちょっと、二人とも黙らないでよ。心臓に悪いわよ、ボク幽霊だけど』」と、透ける手で自分の胸を押さえた。
「あの、えっと、腕章をつけた人が近くにいなくて、それで、サキちゃんの荷物が、落ちて、それで……」
一生懸命に用件を伝えようとする祈里。真はその言葉から祈里の友人の荷物が何処かに落ちた。
しかしそれを拾うことは彼女達には不可能だったと言うことを理解して、真は短く「場所は?」と尋ねると、祈里は一瞬真が何を言ってるのか理解しなかったが、直ぐ様その言葉の意味を理解すると、パアッと表情が明るくなる。
「こ、こっちです!」
真を案内するように歩き出す祈里。真は手に持っていたトングを一度だけ軽く鳴らし、手にしていたゴミ袋を持ち直す、祈里が指差す方向へと足を踏み出した。
その迷いのない歩みは、やはりどこか人間離れして見えた。
「『……もう! 素直に「いいよ」って言えばいいのに。でも、場所を聞いたったことは行く気なのね。無愛想なわりには、あんた意外と律儀よね』」
まどかは安堵の溜息を漏らし、先ほどまで握りしめていた胸をなでおろすと、今度は期待に満ちた目で真と一緒に祈里の背中を追った。
「サキちゃーん!」
祈里はひとり途方に暮れているサキと呼んだ少女に声を掛ける。
サキの方も祈里の声が聞こえるとこちらの方を見つけ。
「ネネちゃん。腕章の人見つかったの?」
「ううん。腕章の人は見つけられなかったけど、こっちのお兄さんがいたから声をかけたの」
サキと呼ばれた少女は真の姿を認めると、その威圧感に一瞬言葉を失った。
トングを構え、無表情に立つ彼は、助け舟というよりは森の怪異のようにも見えたからだ。
「……あの、えっと、ありがとうございます?」
真はサキに「落としたモノは」と淡々と尋ねると、困惑するサキの視線の先、彼女たちが指差す場所には、深い藪の向こう、急斜面の途中に引っかかったピンク色のリュックがある。
真はそのリュックを見つけると確かに幼い彼女達が拾うには無理がある場所だと理解した。
「『ちょっとまこと、あんなところにあるわよ! ちゃんと足元見て降りなさいよ、滑って転んだらお姉ちゃん、実体がないから助けてあげられないんだからね!』」
まどかはそう言いながら、真より先にリュックの場所まで浮遊していき、心配そうに下を覗き込んだ。
真は「待機して」少女たちに短く命じると、躊躇なく斜面に足をかける。
普通の人間なら、滑りやすい腐葉土や突き出した岩を警戒し、腰を落として慎重に降りるところを、真はまったく恐怖心を抱かずに、トングとゴミの入ったビニール袋をその場に置き、空いた両手で木々の幹を支えにして下っていく。
その一連の動作は、効率化を極めた機械の駆動を彷彿させた。
真の脳内では、自らの質量と斜面の摩擦係数、重力加速度による滑落のリスクが常に計算され、最適なグリップポイントだけが強調表示されている。
「『わわわっ、ちょっ、まこと! 崖なのよ、崖! もうちょっと慎重に、そんなにスタスタ行かない! 危ないでしょう!』」
まどかは空中で足をもたつかせながら、真の頭上を並走する。
実体があれば、今すぐその襟首を掴んで引き戻したい衝動に駆られながら。
数メートル下の岩棚に引っかかったリュックを、真は迷いなく掴み上げ。
土埃を払うこともなく、ただの「タクスを完了するための物体」として、それを左脇に抱えると、再び重力に逆らうように斜面を登り始めた。
「す、すごい……」
呆気に取られて見守っていた祈里が、真のその姿に吐息を漏らした。
「『ほら! 気をつけてって言ってるでしょう、この子は! あーもう! そこ危ないから!』」
まどかが真の頭上で、やきもきしながら叫び続けている。
しかしその心配も、真にとっては風の音と同じで耳に届かない。
リュックを抱えたまま、真は最後の一歩を踏み出だした。
——その瞬間。
踏みしめた腐葉土の下。不安定に転がっていた拳大の石が、真の体重という「変数」を支えきれずに砕け、地表から剥離した。
真の意識の中で、それまで完璧に構築されていた『歩行バランス』の数式が、一瞬にして崩壊する。
重力が、逃れようのない暴力となって真の肉体を深い崖下へと引きずり込もうとする。
無機質な世界が映る真の瞳が、その瞬間、驚きに微かに見開かれる。
「『ッ!? まことぉォォォ!!』」
まどかの、魂を切り裂くような悲鳴が響き渡る。
彼女の実体のない手が虚空へ伸び、真の腕を、服を、その命を掴もうとする。
しかし、その指は無情にも真の身体をすり抜けた。
「『嫌っ、嫌ぁあああ!!』」
まどかの視界から、色が消えていく。
墜落する真の姿が、モノトーンの背景へと溶け込み、深い闇の淵へと呑み込まれていく――




