No.2 双星の残照、あるいは夜明けの銀光
No.2 双星の残照、あるいは夜明けの銀光
「プッ……、あははははは! なによそれ……っ! アハッ、アッハッハッハッ!!」
白紙の世界に、今度は鈴を転がしたような、突き抜けた笑い声が響き渡った。
円は涙をボロボロと流しながら、お腹を抱えて大笑いした。
自分が真を困らせて、罰せられるのを待っていたはずなのに、その真が情けない泣き落としで自分を困らせにくるなんて。
あべこべだ。
あまりにもあべこべで、あまりにも、私の大好きな可愛い弟そのものだった。
その笑顔を見て、真は心底ホッとしたように、肩の力を抜いて柔らかく微笑んだ。
──その瞬間。彼の足元から、その輪郭が陽炎のように、徐々に薄く霞み始めていることに円は気付く。
「……うん。どうやら、そろそろ時間のようだね」
「時間……? 時間って、なに言ってるの、まこと!? まだ、ボクは……!」
「あのねぇ、姉さん。僕はとっくの昔に死んだ人間だよ? そんな幽霊が、いつまでも現世に居座り続ける方がおかしいでしょう?」
「で、でも……っ! だって……! ボクはまだ、まことに何も返せてない! もっと、ちゃんとお話をして……!」
「無理だって、それは姉さん自身が一番よく分かってるでしょう?」
詰め寄ろうとする円を、真は静かに手制した。
その手はもう、向こう側の白が透けて見えるほどに淡い。
「こうして最期に、姉さんとちゃんと言葉を交わしていられるのもさ……。どこかの、お節介な万能の人が、奇跡みたいな舞台を作ってくれたからなんだ。本当なら、こうして出会うことすら出来なかったはずなんだよ」
「でも……っ! ボクはまことに、ちゃんと謝りたかった……。ちゃんと、ありがとうって……!」
「それはさっき聞いたよ。だから──その続きは、また今度。僕が泣いちゃうくらいな、楽しい人生を、姉さんが全部使いきって、また僕に会いに来てくれた時に、その時にたっぷり聞かせてよ。お土産話としてさ」
呜咽を堪えながら、円は何度も、何度も激しく首を縦に振った。
そんな姉の姿を苦笑しながら見守っていた真だったが、ふと、何かを思い出したように「あ、そうそう」と手をポンと叩いた。
「この箱庭にいた人達はね、みんな、ちゃんと現実の世界に生きている人達だから。きっと、これからどこかでまた会えるよ。……それとさぁ、想像主として選ばれた女の子たちのことなんだけど。大雑把な姉さんが、あの子たちのアフターケアを全くしてなかったからさ。僕が現実世界の方で、代わりにちょっと手を回して、辻褄を合わせといたからね。まったく、やるだけやって後はポイなんて、ちょっと酷いと思うよ?」
「人聞きの悪いこと言わないでよ……っ!」
向けられた生前と変わらない小言に、円は涙を拭いながら、小さな子供のように唇を尖らせた。
だけど、すぐに愛おしそうに目を細める。
「……でも、うん。わかった。もし現実であの人たちに会えたら、今度はちゃんと、ボクから声をかける。仲良くなって、友達になって、それから、あとは……」
視線を交わす。
もう、言葉を交わせる残り時間は数秒もない。
真の姿は、いまや光の粒子となって空間に溶け出し、完全に霞んでいた。
「──うん。その続きの『あとは』は、また今度会った時に、ね」
「う、うん……。まこと」
「ん? なに、姉さん」
「……ありがと」
円は、涙でぐしゃぐしゃになった顔に、十年前のあの夏と全く同じ、ひまわりのような満開の笑顔を浮かべて告げた。
それを見た真もまた、これ以上ないほど満足そうに、最高の笑顔を浮かべ──。
カチャリ、と眼鏡の縁を上げる優しい仕草を残して、完全に光の中へと消え去った。
「……また、会おうね。まこと」
消えた弟の行方を追うように、円はぽつりと、愛おしそうに呟いた。
彼女は、胸の前に残された、最後の『真実を綴る書』へと視線を落とす。
書はもう、世界を消滅させるための凍てついた銀の光を放ってはいない。
そこにあるのは、凍える心を温めるような、朝焼けに似た淡く優しい銀の光。
その輝きは徐々に、徐々に大きくなり、白紙だった世界を塗り替えるように、繭住円のすべてを包み込んでいった──。
☆★☆★☆
眩い銀光が、ふっと凪ぐように消え去った。
代わって、円の鼻腔をくすぐったのは、微かな古木の匂いと、脳の奥を静かに刺激するような高貴な香料の香り。
──ゆっくりと目を開ける。
そこは、見覚えのあるクラシカルな空間。
すべての始まりの場所であり、因果の交差点──「宿望館」のロビーだった。
ロビーの中央、いつもと変わらぬ佇まいで、館の管理人・ナイアが恭しく頭を下げた。
「お客様の宿望が成就されたこと、心よりお喜び申し上げます」
銀の仮面から響く、抑揚のない端正な声。
だが、今の円には分かっていた。
あのアドリブの箱庭を経て、すべての『ボク/僕/ぼく』──真を演じていた自分、殻にこもっていた自分、そのすべてが一つに統合された今の彼女は、ここでの出来事を完全に思い出していた。
「そっか……。ボクはここで、ずっと望んでいたんだね。本当のボクに、繭住円に戻ることを」
「いいえ。それは違います」
ナイアは間髪入れずに、静かに、しかし断固としてその言葉を否定した。
「違うの……? それじゃあ、ボクがここに持ち込んだ『宿望』って、一体なんだったの?」
「──物語を終わらせること。それが、どのような結末であろうとも」
仮面の奥の視線が、円を真っ直ぐに射抜く。
「もしあの時、お連れ様が現れなければ、お客様は死ぬこととなったでしょう。ただし、それは精神の死。現実世界にあるお客様の身体は、魂無き肉体として、緩やかにその生を終わらせていたはずです。逆に、もしお客様が『世界を作りしモノ』に与していれば、お客様の精神は、あの永遠の環の中で安らぎに満ちた生を過ごしていたでしょう」
「……、」
円は小さく息を呑んだ。
どちらを選んでも、待っていたのは実質的な『死』。
あの時の自分は、それほどまでに終わることを切望していたのだ。
円の胸中を察したように、ナイアは淡々と告げる。
「与していれば、お客様は偽りの安らぎの中で、その生を終わらせていた。どの選択肢を取っても、終わらせるという事実に変わりはありません。……ただ、その先が在るか無いか。それだけの違いにございます」
ゴーン。ゴーン。
ロビーの壁にかけられた古めかしい時計が、厳かに鐘の音を響かせ始める。
「お客様。退館のお時間にございます」
「……うん。そうだよね」
円は、自分の胸にそっと手を当てた。
どんな結末であれ、ボクはまことと約束したんだ。今度はその約束を破らないために、ボクはボクとして、前を向いて歩くんだ。
円の決意に満ちた瞳を見て、ナイアの銀の仮面の向こう側から、ほんの少しだけ、優しげな眼差しが向けられたような気がした。
ナイアはすっと手を掲げ、館全体に響き渡る、されど決して大きくはない威厳に満ちた声を発する。
「宿望館よ、その扉を開きなさい。──お客様のご出立のお時間です」
ギギッ……、ギギギ……。
重く、まるで数百年もの間、決して開かれることのなかったかのような「開かずの門」が、円の背後でゆっくりと左右に分かれていく。
開かれた扉の先は、あまりにも眩い光に溢れ、何も見通すことができない。
不安。恐怖。希望。未知。
あらゆる感情が渦巻くその白い光は、これから始まる「現実」の複雑さ、その厳しさを物語っている。
円はその光に心を激しく揺さぶられた。
しかし、円はもう後退りしなかった。
しっかりと地を踏み締め、その扉の先を真っ直ぐに見据える。
その円の背後から、ナイアの声が静かに投げ掛けられた。
「──あなたの行く道に、光があらんことを」
「っ……!」
円はハッとして、勢いよく振り返った。
その言葉。
それはリベレーターへと変貌するたびに、世界のシステムメッセージとして必ず脳内に表示されていた、あの冷たい文字列。
あれは、システムなどではなかった。
この館が、ナイアが、最初からずっと彼女に送り続けていた、最大の餞別だったのだ。
円は驚きに目を見張ってナイアを見たが、ナイアはそれ以上何も語らず、ただ姿勢正しく美しく立っているだけだった。
きっと、どこまで問い詰めても、ナイアは語らない。
答えない。
そんな確信が円の中にあった。
フッと微笑み、もう一度扉へと向き直ったその時、ポケットの中からチャリン、と金属の軽い音が響いた。
なんだろう、と円がポケットをまさぐり、取り出したもの──それは、一本の『銀の鍵』だった。
大きさこそ違えど、この鍵の意匠は、彼女がリベレーターとして初めてイツワリを切り拓いた時のものに酷似していた。
円は愛おしそうにその鍵を見つめ、小さく頷く。
そして、最後にもう一度だけナイアの方へと振り返り、その手元まで歩み寄った。
「──ナイア。これ、返すね」
円は、手のひらの上の銀の鍵を差し出した。
「ボクにはもう、これは必要ないから。……いままで、ボクの我儘に付き合ってくれてありがとう。ナイア」
ナイアは差し出された鍵を、両手で恭しく受け取ると、これまでで最も深々と、その頭を下げた。
その美しい一礼を見届け、円は今度こそ、もう振り返らない。
コタローくんが待っている。雛ちゃんが待っている。ワン子ちゃんが、志那ちゃんが、ネネちゃんが、麗ちゃんが、汐音ちゃんが、あの人達たちが待っている、ボクの、ボクたちの本当の現実へ。
まことの分まで、死ぬほど楽しい人生を謳歌するために。
繭住円は一歩、光に満ちた扉の向こうへと、力強く歩き出した──。




