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No.4 回想の湖畔、あるいは反転の始まり




 No.4 回想の湖畔、あるいは反転の始まり




 「──十年前、夏の暑い盛り。僕ら繭住家は、湖畔でキャンプをするために出掛けました」


 眼鏡の奥の目を細め、目の前の「繭住真」が静かに語り出す。


 すると、音も色もなかったはずの白一色の世界に、まるで水面に落ちた一滴のインクのように、鮮烈な色彩を持った「映像」がじわりと浮かび上がり、再生され始めた。


 それは彼が語る通り、十年前のあの日、幸福の絶頂にいた繭住一家の姿だった。


 「仕事の忙しい父さんが珍しく長期の休みを取ってさ。少し離れた場所にあるキャンプ地へ、家族みんなで車に乗って出掛けたんだ。運転するのは父さん。助手席には母さん。そして後ろの席には──」


 真は、愛おしそうに映像のひだりを指差す。


 「元気いっぱい、これから始まるキャンプにワクワクが抑えきれなくて、車の窓から顔を出しては母さんに怒られている姉さん。そして、その隣で文学少年よろしく知的で大人しい……あはは、僕の自己紹介はいいか。まあ見ての通り、酷い車酔いで完全にグロッキー状態なんだけどね」


 懐かしい語りに重なるように、白紙の空間に、十年前の家族の賑やかな「声」が立体的に響き渡る。


 『もう、まこと! キャンプだって言うのに、なんであんたはそんなにつまらなそうにしてるのよ!』


 『……つまらないんじゃなくて、車に酔ってるんだよ、姉さん……』


 『なっさけないわねぇ! ボクなんて楽しみすぎて、今すぐ車の中で走り回りたい気分よ!』


 『止めなさい、まどか。もう少し大人しくしてなさい。窓から顔を出すのも危ないでしょ』


 『はっはっは、良いじゃないか。たまの休みの家族旅行だ、はしゃぐ気持ちも分かるよ。な、まどか?』

『うん! そうよパパ、大好き!』


 『もう、あなたったら甘いんだから……。ところでパパ、少し雲行きが怪しいけど大丈夫かしら?』


 『……う~ん、予報は曇りのち晴れだったし、雨は降らないと思うよ。まあ、天気がどうなろうと、あそこの景色の美しさは変わらないさ』


 『そう! 変わらないのよママ!』


 『ハァ……。女の子なんだから、もう少しはおしとやかになって欲しいんだけどねぇ』


 『それはムリ! そういう面倒なのは全部まことに任せる!』


 『……僕は、女の子じゃないよ、姉さん……』


 『女の子みたいなもんでしょ! なんで料理も洗濯も掃除も、ボクより上手いのよ。おかしいじゃない』


 『……おかしくないよ。姉さんが大雑把すぎるだけ……う、うっぷ……』


 『うわわわわぁ!? ママ! まことが吐く! 紙袋! 早く紙袋ちょうだい!!』


 車内は大騒ぎになり、画面の中の父親と母親は顔を見合わせて笑っている。


 あまりにも眩しい、ありふれた家族の光景。


 「まあ、そんなこんなでさ。色々と騒がしくはあったけれど、キャンプ地には無事に到着したんだ。それからしばらくの間は、本当に楽しいキャンプだったよ。……まあ、主に楽しんでたのは、活発だった姉さんの方だけどね」


 映像の中で、太陽のような笑顔で駆け回る十年前の「まどか」の姿を見つめながら、現在の【真円を綴る者(繭住真)】は、ただ呆然と立ち尽くしていた。


「──そして、事件が起きたのはこの後だった」


 目の前彼がそう呟いた瞬間、白紙の世界に映し出されていた青い湖畔の映像が、急速にどんよりとした黒雲に覆われていく。


 不穏な光を孕んだ稲光が走り、腹に響くような重々しい雷鳴が遠くで鳴り響いた。


 『まどか! まこと! 早くこっちに避難しなさい!』


 画面の奥から、テントの設営を終えた父親が慌てた様子で二人を呼ぶ。


 『え~! もうちょっと遊びたい!』


 『姉さん、駄駄こねてないで早く行くよ。もう雷が鳴ってるんだから』


 『大丈夫よ、まこと。雷なんてそうそうボクたちに落ちてくるわけ───』


 ──ピシャゴロンッ!!!


 言葉の途中で、鼓膜を破らんばかりの凄まじい大爆音と共に、至近距離に猛烈な稲光が落ちた。


 『きゃあぁあああッ!?』


 あまりの光と衝撃に、まどかは悲鳴を上げてその場に蹲り、耳を強く塞ぐ。


 恐る恐る目を開けた瞬間、十年前の彼女の瞳孔が、恐怖によって極限まで見開かれた。


 『パパ……!? ママ……ッ!?』


 ほんの数メートル先。両親が崩れるように地に倒れ、その周囲の地面では紫色の小さな火花がチリチリと走っていた。


 パニックになり、倒れた両親のもとへ駆け寄ろうとするまどか。


 しかし、その華奢な手首を、真が尋常ではない力で強く握り締めて引き留める。


 『離して、まこと! パパとママが……ッ!』


 『駄目だ! 姉さん、逃げて──っ!!』


 混乱するまどかには見えていなかった。


 だが、大人しいが故に周囲をよく観察していた真は、見て、聞いていたのだ。


 落ちた稲光は二発。


 一発は両親へ。


 そしてもう一発は──自分たちの真上に聳え立つ、巨大な大木へ。


 『えっ──?』


 次の瞬間、まどかの身体は、真によって背後へと強く弾き飛ばされていた。


 直後、ミシミシ、バリバリと悍ましい破壊音を立てて、今まで彼女がいた場所に、燃え盛る大木が音を立てて倒れ込んでくる。


 まどかは間一髪で倒木を免れた。しかし、その代わりに──。


 『あ……、か……』


 炎を上げる巨木と大地の隙間に、真の身体が完全に挟み込まれていた。


 『まことぉおおおっ!?』


 何が起きたのか、脳の理解が追いつかないまま、まどかは悲鳴のような声を張り上げる。


 『……よかった。姉さん、だけでも……助かって……』


 炎の隙間から、血を流した真が最期の力を振り絞って微笑む。


 それが、弟の最期の言葉だった。


 『まこと! まこと! まこと! まことぉおおおっ!?』


 涙をボロボロと流し、泣きじゃくりながら、まどかはただ叫ぶことしかできなかった。


 熱風に煽られ、真の顔から転げ落ちるようにして自分の足元へ滑ってきた銀の縁の眼鏡。


 彼女はそれを無意識に拾い上げ、胸に強く握りしめたまま、赤黒く燃え盛る炎の地獄を、光を失った瞳で見つめ続けるしかなかった。


 ──どれほどの時間が経っただろうか。


 『連絡があった現場に到着した! 火災が思ったより酷いぞ、すぐに消火活動を!』


 『周囲に生存者がいないか確認を急げ! 救助を優先だ!』


 サイレンの音と共に、数人の消防隊員が駆け込んでくる。煙の奥で立ち尽くしていたまどかは、すぐに彼らに発見され、抱き上げられた。


 『もう大丈夫だからね。……ボク、自分の名前は言えるかい?』


 煤に汚れ、救助されたまどか。


 その瞳からは完全に全ての生気が消え失せていた。


 彼女はただ、壊れた機械のように、うわ言のように、同じ言葉を繰り返し呟き続けていた。


 『……まこ、と……。まこ……と……』


 『まこと? ……そうか、君の名前は「まこと」って言うんだね?』


 『まこと……? ……そう。ボク……僕の名前は、繭住、まこと……です……』


 映像は、そこでピツリと静止し、白一色の虚無へと溶けて消えた。


 「……うん。これはね、誰が悪いっていうわけじゃないんだ。ただの自然災害に、運悪く遭ってしまっただけ。そして、救助隊の人がショック状態だった姉さんの言葉を誤解してしまった。まあ、病院に運ばれた後、性別が違うんだからすぐに間違いだってことは大人たちに気付かれたんだけどね」


 本物の真は、悲しげに眼鏡の縁を押し上げ、立ち尽くす彼女を見つめる。


 「だけどね、その後、姉さんは頑なに自分を『繭住真』だと思い込んで生きようとしたんだ。普通なら、周りの大人や医者がそれを指摘して、無理にでも現実を認めさせて元に戻そうとするよね。だけど……あの日、一瞬で家族全員を失った姉さんの心は、もう限界だった。それを無理に剥がせば、姉さんの精神は完全に壊れて、最悪の事態になる可能性があったんだよ。だから──周囲の大人たちはみんな、あえて姉さんを『繭住真』として扱うことにしたんだ」









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