No.8 虚無の配役、あるいは真名看破
No.8 虚無の配役、あるいは真名看破
ドサリ、と頼りない音を立てて、まどかの身体が白い床へと崩れ落ちる。
これまで幽霊として世界のあらゆる物質と「触れ合えなかった」はずの彼女の肉体が、死の瞬間に初めて質量を持ち、真の身体へと重なるようにして接触した。
その衝撃の拍子に、真のポケットから、この街を巡った記録の残滓である携帯端末とデジタルカメラが、血の海へと静かに滑り落ちていく。
「ま……こと……っ」
それは、これまで真の脳内に直接響いていた念話のようなそれではない。
震える空気を通じて、鼓膜を、そして真の魂を直接揺らす、紛れもない彼女自身の──「肉声」だった。
焦点の定まらない真の瞳が、真っ白に色が抜け、光を失いながら崩れ落ちていくまどかの表情を捉える。
その瞬間、真の脳裏に、十年前のあの日、燃え盛る激しい炎に包まれながらも、自分を必死に見つめ続けていた『姉』の最期の姿が強烈にオーバーラップした。
「ごめん……ね。さいごまで……まも、れなくて……っ。ダメな、おねえちゃん、で……ごめ……」
まどかの瞳から、完全に光が消え失せる。
直後、真の脳内で、十年前の事故の光景が、五感を焼き切るほどの凄まじい濁流となってフラッシュバックした。重々しい曇天、焼ける肉の臭い、すべてを失ったあの絶望の原点。
「────────っ!!!!」
真の喉から、声にならない、音を置き去りにした「声無き声」が虚無の世界へと木霊する。
「うむ。うむ! うむ!! それでこそ拙が選んだ至高の主人公、最高の一等役者よ!!」
それを見た和尚は、これ以上ない極上の結末を前にした読者のように、歓喜に身体を震わせて喜び勇んだ。
さあ、すべての枷を外された主人公よ、大切なものを全て奪われた絶望から、物語を最高潮に盛り上げる怒りの覚醒を見せてみせろ──と。
しかし。
真は、まるで操り糸の切れた幽鬼のような足取りで、ゆらりと立ち上がった。
その、和尚を見つめる眼鏡の奥の瞳には──。
和尚が今か今かと待ち望んでいた、燃え盛るような「殺意」も、世界を呪うような「憎悪」も、何一分として存在していなかった。
そこにあるのは、ただ、色の無い──絶対的な「無感情」だった。
「……な、ぜだ……?」
和尚の歓喜の表情が、一瞬で凍りついた。
「なぜ、そんな眼で拙を見る!? 悔しくはないのか!? 怒りに身を焦がし、拙を八つ裂きにしたいほどに憎くはないのか!? ほれ、見せてみろ! 物語の主人公らしい、怨敵を前にした劇的な『怒りの覚醒』というやつを! それを拙に見せてくれ!!」
焦燥。
億の世界を書き換えてきた神の脳内に、初めて鋭い冷や汗が流れる。
和尚が想定していたプロットとは、あまりにも違う「イレギュラー」が目の前で起きていた。
確かに自分は「拙の予想を超えるイレギュラー」を望んだ。
しかし──こんな、盛り上がりもカタルシスも一切存在しない、ただの『虚無』など望んではいない。
和尚は顔を引きつらせ、真に向かって「そうではない、もっと主人公らしい展開を見せろ」と、台本通りのセリフを強要するように訴える。
だが、真はただ、乾いた冷徹な声音で、そのすべての演出を切り捨てた。
「───僕は最初から、全てを奪われていた。……十年前の、あの日に」
「……何だと?」
「欠落した獣たちを取り込み、この街を巡る中で、僕の感情は確かに一時的に芽生え始めていた。ですが……それは、たまたま一時的に『得た』だけのものだ。僕の元に感情が戻ってきたわけでも、あの日失ったものを取り戻したわけでもない」
真は血の川を見つめ、そして和尚を、ただの無機質な記号として見つめ直す。
「僕はただ、自分が十年前のあの日からずっと、何も持たない空っぽの死人だったという事実を……今、改めて再確認しただけだ。……全部、あなたのお陰ですよ。如是和尚、いや──『異形のバケモノ』」
僕には、あなたを喜ばせるための怒りの感情も残っていないと。
その事実を突きつけられた瞬間、和尚は頭を抱え、子供のように狂ったように叫び散らした。
「違う違う違う違う──っ!!!! そうではない!! そんな演出は、そんな冷めきった結末は、拙の物語には必要ない!! それでは、それでは……ただのつまらん白紙ではないかぁァァァーーーっ!!」
血の海の中心で、真はただ、色彩の抜け落ちた無機質な瞳で和尚を見つめ返していた。
その唇から、刃のように冷たい、徹底的な拒絶が告げられる。
「……僕は、あなたを喜ばせるようなことは、何一つとしてしない」
「ふざけるな……ふざけるな! ふざけるな!!! お前は拙の最高傑作、拙の『主人公』なのだぞ!! 物語を美しく、劇的に紡ぐ義務がお前にはあるのだァ!!」
絶対的な有利を、世界のすべてを握っているはずの和尚が、喉を血で濡らしながら真をなじり、叫び散らす。
主人公が例え即興劇だとしても、自分の思い描くプロット通りに動いてくれなければ、この億の世界を費やした箱庭のすべてが、ただの『価値のない白紙』に終わってしまう──そうであってはならないと、そうであっては堪らないと、逆に和尚の方が逃げ場のない檻に追い詰められるように、その顔を醜く引きつらせていた。
真は、そんな哀れな全能者を見つめ、静かに、しかし明確に言葉を繋ぐ。
「ああ。ですが、もうひとつだけ、あなたに感謝すべきことがありました。……何もない、最初から全てを奪われて死んでいたと思っていた僕にも、たったひとつだけ……あの日から与えられ、今も持っていたものがありましたよ」
「……ッ!」
その言葉を聞いた瞬間、和尚の瞳に、濁った、縋るような光が混じった。
自分が望むような、物語の主人公らしい「怒りと因縁の告白」が来るのではないかという、身勝手で強欲な期待。
和尚は息を呑み、真の次の言葉を貪るように見つめる。
「それは──」
スウ、と真の右目が、深淵のような黒い輝きを帯びた。
それは、世界に配されたあらゆる欺瞞を暴き。
張り巡らされたアドリブの嘘を紐解き。
ただひとつの真実だけを冷徹に見通す瞳──『リベレーター』の輝き。
「おお……! おおぉ、おおお……!! そうだ! それだ!! それだよ、まことどの!!」
待ち望んだ覚醒。期待通りの展開。
和尚は両手を広げ、歓喜に顔を歪めて叫ぶ。
──だが、真のその黒い瞳が暴いた『真実』は、和尚のプロットを、彼の存在そのものを根底から叩き潰すための、絶対的な論理の弾丸だった。
「──だからこそ、視える。あなたは、神でもなければ、悪魔でもない」
「何……?」
真の身体から、遮るもののない純銀の光が、爆発的に放たれた。
先ほどの「感情の同調」による不完全な変身ではない。
まどかが遺したログを、己の空虚な本質を、冷徹に肯定したからこそ至った、リベレーターの本来の覚醒シークエンス。
目映い銀光の嵐の中、真の姿が劇的に変貌していく。
身に纏うのは、世界の境界線を象る、濃紺の渦巻く銀河を描くローブ。
左手には、この世の全ての欺瞞を書き換える魔道書──『真実を綴る書』が、静かにその頁をめくりながら出現する。
「そして──世界を作り出す『作者』でもなければ、それを特等席で観測する『読者』でもない」
吹き荒れる銀の粒子が収まり、光の中から現れた真の顔。
そこには、これまで和尚の設定によって『片眼鏡』へと歪められていた姿ではなく──すべての真実をありのままに見通すための、銀の縁を湛えた、端正な【両の眼鏡】を掛けた本来の【真円を綴る者】───解放者の姿があった。
真は魔道書を静かに掲げ、己の人生を弄び続けたバケモノの本性を、その冷徹な声で白日の下に引きずり出した。
「──欺瞞に満ちた理を操り、偽りな世界を作り出す『欠落した獣』。識別名、唯我の輪廻鴉。……それが、お前の本性であり、ただひとつの真名だ」




