No.9 空白の惨劇、あるいは神の習作
No.9 空白の惨劇、あるいは神の習作
真は、動けなかった。
指先一つ、睫毛一つ動かすことすら拒絶されたかのように、全身の肉体が凍りついている。
隣にいるまどかもまた、どうして良いのか完全に分からず、ただ、震える手で真の身体を壊れ物を扱うように空を掴みながら抱きしめ、寄り添うことしか出来なかった。
そんな無力な二人を見つめ、和尚は心底がっかりしたように、深く、長く落胆の息を吐き出した。
「──まことどの。何か起こしてくれねば、拙は退屈で欠伸が出てしまうぞ。……ふあぁぁ……。うむ、どうやら恐怖で本当に動けぬようだな。それならば──こうしてみるのはどうだろうか」
パチンッ、と和尚が軽快に指を鳴らす。
その瞬間、空因寺の境内も、如是山の木々も、十王市の街並みすらも──まるで最初から存在していなかったかのように、音もなく、光すらも吸い込まれるような『白一色の無の世界』へと塗り潰され、変わり果てた。
「まことどのが元の世界へと戻りたい、と仰っていたからな。どうだ? これがまことどのの望んだ、改変前の元の世界……何も無い『無』の世界だ。だが案ずるな。拙の手にかかれば、望むままに如何様にも新世界を作れるぞ?」
和尚が腕を振るうたび、白いキャンバスにインクをぶちまけるように、目まぐるしく世界が誕生し、そして崩壊していく。
天地が裂ける原初の光景、石造りの城が並ぶ中世、鉄の煤煙が立ち込める近代、星々を渡る未来、果ては魔法の光が舞うファンタジーの異世界まで──。
「……うむ。どれもお気に召さぬか」
数瞬ののち、すべての世界が再びゴミのように廃棄され、静寂の白一色へと戻される。
しかし、次に和尚が指を鳴らしたとき、そこに出現したのは無機質な世界ではなく、真たちのよく知る「人間たち」の姿だった。
「あれ……? ここ、どこだ……?」
「あたし達、確かクリスマスパーティーの帰りで……バスに乗ってたはずじゃ……」
呆然と立ち尽くしていたのは、宇賀琥太郎と、兎束雛の二人だった。
真の身体が、ピクリと激しく拒絶に揺れる。
彼らの纏う衣服、その記憶は、歩きの帰路の途中、またはバスの中にいた瞬間のものだ。
「あ、和尚じゃん! それにまことも……! なあ、ここ一体どこなんだよ? なんかどこもかしこも真っ白でよ、おかしくね?」
「まことくん、どうしたの……? 何かあったの……?」
状況を何も知らない二人は、一切の警戒心を抱くことなく、親しげに和尚の方へと歩み寄っていく。
最悪の光景を前に、真は喉の奥の肉を引きちぎるようにして、絞り出すような声を震わせた。
「……だめだ。逃げろ……っ、琥太郎……兎束っ!!」
しかし、その必死の警告は、この世界のシステムに遮断されているかのように、二人の鼓膜には一切届かない。
「宇賀の坊よ」
和尚は、まるで散歩の途中で路傍の石を退けるかのような気軽さで、宇賀の前に立ち塞がった。
「──まことどのを奮起させるため、ちょっとここで、死んでくれるか」
「はあ? なに訳わかんねえこと言って──ッ!?」
ドズッ、と肉の爆ぜる鈍い音が響いた。
宇賀の言葉は最後まで紡がれなかった。
和尚の剥き出しの腕が、宇賀の胸の真ん中を、背中まで容易く貫通していた。
「きゃあああああああああああああ──っ!?!?!?」
兎束が狂ったような悲鳴を上げ、その場にへたり込む。
和尚は何の感情も乗せないまま、宇賀の身体から無造作に腕を引き抜き、血を払うように一振した。
ドサリ、と物言わぬ肉塊となった親友が、白い大地へと崩れ落ちる。
溢れ出た大量の深紅の血が、純白の世界を無残に、悍ましく染め上げていく。
ガチガチと歯を鳴らし、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、完全にパニックに陥って首を横に振り続ける兎束。
和尚は彼女の正面へとゆっくり歩を進め、その脳天へ向かって、真っ直ぐに腕を振り下ろした。
──ズブ、と肉を断つ音がして。
兎束の身体は、左右均等に、綺麗に二つへと裂かれて白い床へと転がった。
「うむ。これでもまだ動けぬか? ──ならば、次といくか。まことどの~、動けるようになったら、いつでも拙に言ってくだされ」
和尚はどこまでも気楽に、そして「次の一手」を楽しみにする熱い視線を真へと送りながら、再び、パチンと指を鳴らす。
白い虚無の向こうから、また次の人間たちが──真と何かしらの関わりを持ち、この街で生きていた者たちが、列をなすようにして呼び出されていく。
──屍山血河。
どこまでも平坦で純白だった空間は、今や見るも無残な肉の山と、足首を浸すほどのどす黒い血の川へと変わり果てていた。
真がこれまでの人生で出会い、関わりを持った十王市の人間たちは、一人残らずその山の一部と化している。
「──さて、まことどの。これでまことどのの記録にあった馴染みの者たちは、綺麗さっぱり皆死んでしまったわけだが、如何様かな? 少しは動く気になられたかな?」
和尚は、まるで遠方に送った手紙の返事でも期待するかのような気軽さで真に問いかける。
だが、真はただ虚空を見つめたまま、人形のようにピクリとも動かない。
その精神は、網膜に焼き付けられたあまりの不条理と絶望の連続に、防衛本能として全ての思考回路をシャットダウンさせていた。
和尚はやれやれと、まことどのは頑固だなぁと言いたげに大袈裟に首を振ってみせる。
そして、名案を思いついたようにパチンと手を打ち合わせた。
「そうだ、そうだ。まだ彼奴らが残っていたな。──お前たち、いい加減に出てこい」
和尚が虚空へ向かって呼びかける。
その瞬間、動かない真の身体から、ボタボタと滴り落ちるようにして、赤黒、蒼白、琥珀、白、紫、鉛、金──七つの禍々しい色の因子がこぼれ落ちた。
それらは白い床の上で急速に質量を持ち、それぞれが見覚えのある人の形へと肉付けされていく。
「くっそ! おいこら、理屈屋!! テメェ、何そこで死んだ魚みたいな目で腐れてやがる!! シャキッとしろ!!」
顕現したライアーが、狂ったように真へと声を荒げる。
真を奮起させようとする獣たちの必死の叫び。
しかし、真の瞳に光が戻ることはない。
和尚は、そんなライアーの側へと滑るように歩み寄った。
「うむ、うむ。お前はこれまでの物語の中でも、かなり深くまことどのの性質を理解している設定のようだな」
「だったらなんだ、このクソ野郎がッ!! ぶっ殺して──」
「あっはっは! 元気があって結構。──うむ。死んでくれ」
サク、と軽い音がした。
和尚の手刀が一閃し、ライアーの首が宙を舞う。
その瞬間、虚飾の獣は、ただの物言わぬ肉塊へと変わり果てて血の川へ没した。
「お主も死んでくれ」
規律の因子──レグルスが、抗う間もなく圧殺される。
「お前もな」
殉身の因子──ラビットが、一瞬で形骸へと変わる。
「次」
クレイドル。
ヴィクセン。
アビス。
ヘヴンリー。
真の欠落した感情を埋めていたはずの『欠落した獣たち』が、和尚の淡々とした、事務的な作業のような手付きによって、ただの順番待ちの家畜のように次々と殺され、屠られていく。
「……ううむ。これだけ舞台装置を排除しても、まだ変化はしてくれぬか。些か、物語の展開としては単調になってきたな、まことどの」
和尚はつまらなさそうに息を吐き、血の海をジャブジャブと踏み荒らしながら、真の正面へと歩みを進める。
その姿を見た瞬間、真の身体に寄り添っていたまどかが、弾かれたように立ち上がった。
その半透明の華奢な身体をガタガタと恐怖に震わせながら、それでも真を背中に庇うように両手を大きく広げ、和尚の行く手を阻む。
和尚は、そんなまどかの決死の抵抗を、どこか酷く冷めた目で見つめていた。
「……お主をなぜ、拙がここまで生かし、最後の最後まで残しておいたか分かるか?」
「『……ボクが、まことの、たった一人の姉だからでしょう……っ!』」
血の繋がった姉弟だからこそ、最も残酷な絶望を与えるために最後に残した。
まどかは涙を流しながらそう叫んだ。
しかし、和尚はただ、眠たげな目の奥を酷く冷酷に細めるだけだった。
「否。お前の姿が──『繭住、円』だからだ」
「『え──』」
和尚の言葉の意味を、まどかの思考が理解するよりも早く。
これまで幽霊として誰にも触れられず、どんな物理的な干渉もすり抜けてきたはずのまどかの胸の真ん中を──和尚の赤く染まった腕が、何一つとして遮るもののない当然の肉体として、無慈悲に貫き通していた。




