No.13 神域の残滓、あるいは仮面の欺瞞
No.13 神域の残滓、あるいは仮面の欺瞞
荒れた山道を登り詰め、真とまどかはついに空因寺の山門前へとたどり着いた。
真は立ち止まり、その厳かな佇まいを見上げながら、眼鏡の位置を小さく直す。
「……五年前に廃寺となり、無人となった割には、随分と綺麗に管理されているようですね」
「『……ね、ねぇまこと。どこかの親切な誰かが、ボランティアで定期的にお掃除してくれていた、なーんていう平和な可能性はないのかなぁ?』」
「無くもないでしょうが、もしそうなら、ここまで登ってくる山道だけがなぜあそこまで荒れ果てたまま放置されていたのか、逆に説明がつきませんね。境内だけをピンポイントで清めておく理由がない」
「『うう……当たって欲しくない方が、じわじわと外堀を埋めてくるよぉ……』」
「蛇が出るか鬼が出るか。何が待ち受けていようと、僕たちの目で直接確認するだけです」
真は躊躇うことなく一歩を踏み出し、山門をくぐって空因寺の境内へと足を踏み入れた。
その瞬間──山を吹き抜けていたはずの、肌を刺すような冷たい空気が、まるでヴェールを一枚隔てたかのように、ふっと和らぐ奇妙な感覚が全身を包み込んだ。
それは温もりというよりは、世界のノイズが完全に遮断されたかのような、異質な静寂。
真はその肉体的な感覚をもって、いよいよこの空間に『強大な何かしらの力を持った者』が潜んでいると確信した。
(……まったく。論理ではなく、自身の曖昧な『感覚』をここまで信頼するようになるとは。……これも、僕の内側で再び芽生えつつある、感情の仕業なのですかね)
自身の中に確かに存在する機能でありながら、まるで他人の持ち物を借りて信じているかのような奇妙な居心地の悪さに、真の唇からは微かな苦笑の形が漏れ出していた。
「……周囲の建造物の配置など、僕が知る空因寺の内観と酷似していますが……」
警戒を怠らず、中庭へと進む真。
その背後で、まどかは完全に腰が引けた様子で、両手でメガホンのような形を作って虚空へ向かって叫んだ。
「『だ、誰かいますかー! 居たら、お願いだから返事しないでくださいー!!』」
「……姉さん、一体何ですかその矛盾した問い掛けは。返事をしないのなら、最初から居ないのと同じではないですか」
「『だって! 返事が返ってきたら本当に誰かいるってことでしょう!? そうしたら──』」
涙目で大真面目に持論を説明しようとするまどか。
だが、その怯えを含んだ高い声を遮るようにして、背後の本堂から、酷く穏やかで、それでいて鼓膜へと妙に通る「誰か」の声が滑り込んできた。
「おや──? どなたかいらっしゃるのかな」
カタ、と静かな音を立てて。
空因寺の長い縁側から、建物の影を背負いながら、何者かがゆっくりとその姿を現した。
暗闇の縁側から歩み出てきたその姿が、陽光の中で次第に明瞭になっていく。
綺麗に剃り上げられた青々とした頭に、眠たげな半開きの目。
身に纏っているのは、使い古されて色褪せた一着の作務衣。
青年と言うには若くはなく、さりとて中年と言うほどに老けてもいない──年齢という概念そのものを煙に巻くような、独特の不気味さと浮世離れした雰囲気を漂わせる男性。
そう、それは間違いなく、二人のよく知る「如是和尚」その人の風貌だった。
「『あれ……? なんだ、誰かと思ったらおしょさんじゃん! もう、脅かさないでよぉ……』」
見知った顔の登場に、まどかは先ほどまでの極限の緊張から一転して安堵し、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべた。
だが、真の眼鏡の奥の瞳だけは、一切の温度を失ったまま男の一挙手一投足を凝視している。
「失礼。こちらはすでに無人となった廃寺だと伺っていたのですが……御住職がいらっしゃったのですね」
真は声音のトーンを巧みに調整し、相手に一切の警戒心を抱かせない、極めて物腰柔らかな「迷い人の少年」の声色で話しかけた。
すると和尚は、あいや、と自身の禿頭を手のひらでパシッと小気味よく叩いてみせた。
「これはもしや、この山を管理されておられる者の関係者かな? 申し訳ない。拙はただの根無し草の僧でしてな。山々を彷徨い歩くうちにこの寺を見つけ、雨露をしのぐ一宿のつもりで転がり込んだのですが……どうにも居心地が良く、長々と居座ってしまいまして。ただで敷地を借りるのも申し訳ないと、こうして寺を綺麗に掃除して使わせていただいていたのだ。うむ、まことに申し訳ない!」
和尚は悪びれる様子もなく、どこか愛嬌のある動作で真に向かって深々と頭を下げてみせる。
真が導き出した「なぜ境内だけがピンポイントで綺麗なのか」という矛盾のパズルに、あまりにも完璧すぎる『アドリブの言い訳』が即座に提示された瞬間だった。
「そうでしたか。それは色々とご苦労をなさったようですね。僕は構わないと思いますよ。もし次にこの土地の管理人に会う機会があれば、そのように上手く伝えておきますね」
「左様で! これは助かる。まさに見仏の導き、慈悲の巡り合わせであるな。あっはっはっ!」
和尚は喉を鳴らして豪快に笑う。
だが──その愉快そうな笑い声を目の前にしながら、真は終始、完璧に整えられた「穏やかな笑顔」を崩さなかった。
声音にも表情にも、一切の針が含まれていない、あまりにも綺麗すぎる模範解答の笑顔。
「『……あ、あれ……まこ、と?』」
その真の様子を見た瞬間、まどかの背筋にゾクリと冷たいものが走った。
この世界の十王市で知り合いの誰とも出会わなかったが、唯一如是和尚と出会った、という安堵。
それを完全に置き去りにするほど、今の真が浮かべている「笑顔」は、人間の血が通っていない機械のそれのように冷酷で、恐ろしいものに見えたのだ。
まどかは本能的な恐怖に駆られるようにして、音もなく、真の背中から一歩だけ後退りして距離を置いていた。




