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No.15 虚飾の囁き、あるいは即興の箱庭




 No.15 虚飾の囁き、あるいは即興の箱庭




 カタタタン、と。


 不意に、キーボードを叩く真の指先が完全に停止した。


 静まり返ったデジタルアーカイブ室の不気味な静寂の中、真はディスプレイから視線を外すことなく、虚空へ向かって静かに、その名を発音した。


 「──ライアー」


 直後、真の側の空間が不自然に歪み、そこから赤黒い髪を乱暴に揺らした野性味ある男が、酷く不機嫌そうな顔をして這い出てきた。


 「『……あァ? なんのようだ、理屈屋』」


 明らかに苛立ちを隠そうともしないライアーのプレッシャーを、真は一切意に介することなく、ただ網膜の奥の冷徹な光だけで彼を射抜く。


 「君ならわかるはずだ。何が真実で、何が嘘なのか」


 真にしては珍しく、主語も前提も完全に欠落した問いかけ。


 しかし、人の世のあらゆる『虚飾』を司る獣には、それだけで真が何を疑い、何を恐れているのかが完全に理解できたらしい。


 ライアーは顔面が歪むほどに嫌そうな、そしてひどく侮蔑的な表情を作り上げてみせた。


 「『おい、テメェ……。俺を便利な嘘発見器か何かだと思ってんのか、ああん!?』」


 喉の奥を鳴らすような低い声で威嚇しながら、ライアーは真の鼻先が触れ合うほどの至近距離まで顔を寄せる。


 だが、真の睫毛一本すらも震えはしなかった。


 「そう言うつもりは無いとは、言えませんね」


 「『少しは隠そうとか、取り繕うとかしろよおいコラッ!』」


「虚飾の獣を前に、虚実の駆け引きなど通じない。だからストレートに聞いている。……この世界は、嘘か? それとも──」


 ──僕たちのいた元の世界が、嘘なのか。


 その決定的な言葉を口にしようとした瞬間。


 真の喉が、まるで見えない鎖で締め付けられたかのように、突如として言葉を失った。


 論理的な思考を極め、感情を排した冷徹な機械となったはずの真。


 その彼が、世界の根底が崩壊する恐怖に脳を支配されたのか。


 あるいは、今隣にいる「まどか」という存在の不条理を証明してしまうことを恐れたのか。


 ……それは分からない。だが、その先の領域に踏み込むことだけは、なぜかこの時の真にはどうしても躊躇われたのだ。


 「『……ケッ』」


 真の刹那の躊躇いを見逃さず、ライアーは吐き捨てるように舌打ちをした。


 そして、さらに真の耳元へと顔を近づけると、部屋の空気を一切震わせないほどの、微かな、しかし酷く明瞭な声音で囁いた。


 「『……いいか、理屈屋。本物の『嘘』ってなぁ、残酷なほどの真実を混ぜ込むからこそ、嘘としての価値が跳ね上がるんだよ。嘘だけで塗り固められた空間なんざ、あのヴィクセンの野郎が魅せる安っぽい幻影と何も変わりゃしねぇのさ』」


 それだけを告げると、ライアーは満足したように真からパッと顔を離した。


 それはまるで、覗き見している「誰か」に、この言葉を聞かれないための配慮であったかのようにも見えた。


 「『それじゃあ、二度と俺を便利屋扱いすんじゃねぇぞ。……じゃあな』」


 そう言い残し、ライアーの身体は陽炎のように揺らぎ、黒い霧となって掻き消えた。


 残されたまどかが、青ざめた半透明の顔で真を振り返る。


 「『まこと……今の、どういうこと? あれじゃ、まるでこの世界が──』」


 「『ああ、そうだ。ひとつ伝言があったのを忘れてたぜ』」


「『きゃあああっ!? 消えたんなら消えてなさいよ、このバカ犬っ!!』」


 突如としてまどかの真横の空間から再び生えてくるように現れたライアーに、まどかは度胆を抜かれて悲鳴をあげた。


 ライアーはそれを見て、わざとらしくニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる。


「『そんなの知るかよ、いつどこに出現しようが俺の勝手だろが嬢ちゃん。……おい、理屈屋』」


「……それで、誰からの言葉ですか」


 「『クレイドルの野郎だよ。──『なぜあの戦いの時、自分を使わなかったのか』とよ』」


 かつて死闘を繰り広げた、ヘヴンリー戦での記憶。


 確かに、絶対的な「価値」を肯定し押し付けてくるヘヴンリーを相手にするならば、あらゆる概念の「忘却」を司るクレイドルを魔道書から呼び出すのが、戦術的には最もロジックに叶った適任であったはずだ。


 しかし真は、最後までクレイドルの力を借りようとはしなかった。


 「理由は単純ですよ。……あなたたちのように無理やり鎖で縛り付けた獣たちとは違い、彼は、自分の意思で僕の側にいる事を選んだ。そんな相手を、こちらの都合で無理やり戦道具として消費するのは……僕の論理に反するからですよ」


 淡々と、当然の事実として言い放った真の言葉に、ライアーは一瞬だけ驚いたように目を見張った。


 やがて、その野性味ある唇の端を、この上なく皮肉で、しかしどこか愉快そうな笑みの形へと釣り上げる。


 「『はっ……! あいつが泣いて喜びそうな言葉だな。俺達はこき使い過労死しろってか、まったくえこひいきなお言葉で反吐が出るぜ──今度こそあばよ、理屈屋』」


 それだけを不敵に言い残すと、今度こそ、ライアーはその気配を消す。


 真は消えたライアーの行方を追わず、パソコンの画面を見て。


 「えこひいきをしているつもりはありませんよ──まあ使い勝手がいいと言うのは否定しませんが」


 そう言って取得した情報の閲覧記録を全て消し去り。パソコンの画面を落としたのであった。


 すべての調査を終え、真は十王市中央図書館の重厚な扉を押し開けて外へと出た。


 うららかな春の陽光が降り注ぐ街並み。


 その中を、半透明の身体で宙を漂いながら、まどかが不安げに真の後を追ってくる。


 「『ねぇ、まこと……。さっきのライアーとのやり取り、あれは一体どういうこと? まことが言い淀んだことと、あのバカ犬が言った『嘘の本質』の話……ボク、なんだか凄く嫌な予感がするよ……』」


 真は前を見据えたまま、歩調を緩めることなく淡々と、しかし噛み砕くように姉の質問に答え始めた。


 「……僕たちは先ほど、鳳千鶴が自身の『識蘊の箱庭』を内部から破壊し、そこから現実世界へと脱出してきたはずでした」


 「『うん、そうね。で、目を覚ましたら、歴史が微妙にズレたこの別世界に弾き出されてた……っていうのが、今までの前提じゃないの?』」


 「ええ。普通の思考プロセスであれば、そう結論付けるのが最も自然です。……ですが、僕はかつて、欠落した獣の一匹である『ヴィクセン』が作り出した、あの特殊な識蘊の箱庭の構造(システム)を身を以て知っています」


 「『あっ……!』」


 その言葉の意図を察し、まどかが短い息を呑む。


 真の隣で戦い、その論理を一番近くで見てきた彼女だからこそ、真が今、脳内で弾き出そうとしている最悪の仮説の輪郭が見えてきたのだ。


 「僕はあのヴィクセンの空間で、十数年という膨大な時間をループしながら過ごしました。もし──あの状況と全く同じ現象を、さらに高次元で発生させられる『何か』が、今の僕たちの状況を裏から操作しているのだとしたら?」


 「『た、確かに……。でも、確かあのオカマ狐の時って、『いくら欠落した獣の権能でも、十数年分の精巧な時間や人間関係を破綻なく作り出し続けるのは無理だ』って言ってたよね? ええと、確か他にも……人間の人生の全ての行動をシミュレートするなんて演算が追いつかない、人間にはそれを受け止めるのは不可能だ、とか……う~ん、あと何か言っていたような……』」


 「姉さん。それは『人間の人生そのものを完璧になぞらせるための演算』が必要な場合の話です。……単に『人間が活動できるだけの世界(舞台)』を構築するだけなら、そこまで膨大な演算コストは必要ありませんよ」


 「『え? そうなの……?』」


 「要は、舞台装置のセッティングから役者の配置、発する台詞の全てに至るまで、その一挙手一投足をすべてシステム側で完全にコントロールしようとするから破綻するんです。ですが……『舞台だけを用意した。あとはそれぞれ、己の割り振られた役割に従ってアドリブで演じてくれ』と、演者たちに丸投げしてしまえば、それは一つの『即興劇』として完全に成立します」


 真の眼鏡の奥の瞳に、図書館の窓に映った歪な街のパノラマが冷たく反射する。


 「『じゃ、じゃあ……もしそうなら……。ボクたちが今いるこの世界か、あるいはボクたちが元いたあの世界か……どちらか片方が、誰かに用意された『作り物の即興劇(箱庭)』ってことになるんじゃ……』」


 「ええ。現時点ではその可能性も否定できません。だからこそ、僕は今、この世界から集められるだけの客観的な情報(データ)が欲しいのです」


 真の歩みは、一切の躊躇いなく次の目的地へと向かって加速していく。


 「集めた情報から、二つの世界の決定的な『差異』を見つけ出す。そして……その歪な即興劇が孕む『綻び』が必ずあるはずです、その糸を一本ずつ手繰り寄せ、その先にある本物の真実を、僕のロジックで紡ぎだします」


 世界がどれほど巨大な嘘で自分を騙そうとも、このリベレーターの論理(ロジック)までは決して欺けない。


 決意を秘めた真の足跡は、歪んだ十王市のコンクリートを確かに踏みしめ、次なる歪みの中心地へと刻まれていくのだった。










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