No.32 虚妄の歯車、あるいは天上の博愛者
No.32 虚妄の歯車、あるいは天上の博愛者
どれほど多くの者たちが、繭住真の現在の姿を憂い、涙を流し、その心を連れ戻そうと必死に足掻こうとも──世界はどこまでも冷酷に、そして残酷なまでにその針を進めていく。
『──続いてのニュースです。本日、国内最大手の複合企業・鳳グループが、次世代に向けた新たなエネルギー開発事業へ本格的に乗り出すことを発表しました。これに伴い、都内で行われた記者会見には、鳳グループ総帥夫人である凰千鶴氏が、夫の鳳紅太郎氏に代わって登壇。新事業への並々ならぬ意気込みを語られました』
リビングのテレビ画面の向こう側では、きらびやかなフラッシュの光を浴びながら、和服姿の老齢な婦人がマイクの前に立っていた。
『いやぁ、それにしても驚きましたね。まさか総帥の紅太郎氏ではなく、千鶴氏本人が直接記者会見の場に現れるとは』
『そうですね。これまでは良くも悪くも、総帥である鳳紅太郎氏がすべての実権を握り、メディアの前にも立ち続けてきましたから。夫人の千鶴氏はどちらかと言えば、内助の功としてあまり表舞台には出てこない印象の方でしたからね』
画面がスタジオへと切り替わり、ワイドショーのナレーターとコメンテーターたちが、したり顔で話題の人物に対する無責任な物言いを並べ立てていく。
『だからこそ、財界の裏では早くも様々な憶測が飛び交っているんですよ。いわく、紅太郎氏が密かに重病で倒れ、すでに亡くなっているんじゃないかとか。あるいは、実権を完全に握った千鶴氏によって、紅太郎氏がグループの座から強引に追いやられたんじゃないか、とかね』
『どちらにせよ、もうこの鳳グループという巨大組織は、ただの一企業という枠を超えて、世界の実権を握っているのと何ら変わりはありませんからね。彼らの動向一つで、私たちの日常はこの鳳グループなくてはならない存在ですからね。この鳳グループが何かすると簡単に世界がひっくり返ってしまうわけですな』
テレビから流れる軽薄な笑い声が、静かな部屋に虚しく響く。
世界は移ろっていく。
誰かがその歩みを止めようと、どれほど必死に手を伸ばそうとも、その祈りを嘲笑うかのように、巨大な社会の歯車はただ規則正しく、機械的に回転を続けている。
それはまるで、今の真の心のようだ。
──もし。
もしも仮に、この世界の理だけでなく、巻き戻すことのできない「時間」すらも完全に支配し、書き換えてしまえるモノがいたとしたら──。
それはきっと、人間の領域を遥かに超越した、神のごとき絶対的な力を振るう存在に違いない。
☆★☆★☆
世界という名の巨大な歯車が、新たな歪みを回し始めた頃。
この北王子学院という閉じた箱庭の中で、ただ一つの小さな歯車として機械的に回り続ける真の周囲にも、極めて小さな「変化」が起き始めていた。
「おーい、まこと。お前、最近は放課後のタスク活動に全然出てないみたいだけどさ。……いま、ポイントってどれくらい貯まってんだ?」
真後ろの席から、宇賀が唐突にそんな質問を投げかけてきた。
真は彼の言葉の意図、およびその質問の背景にある心理的欲求を正確に読み解くことができなかった。
しかし、単に現在の保有ポイントを返答するだけであれば、秘匿すべき理由も拒絶すべき理由も存在しない。
真は即座に、端末に記録されている正確な数値を口頭で返答した。
「……は? ──おいおい、マジかよ。なんでお前、そんなに貯め込んでるんだ? 普通そこまで行く前に適度に使っちまうだろ」
宇賀は若干引くレベルで目を見張り、驚愕の表情を浮かべている。
ポイントを消費するほどの必要性を感じなかったためだと、真は自分自身の行動の動機を極めて客観的な論理性を以て説明した。
「いいや、必要だね。いいかまこと、そんなに後生大事にポイントを抱え込んでいたってな、卒業する時には全部消えてなくなるんだぞ。だったら使えるうちに有効に使っちまった方が、それこそ『ごうり的』ってやつじゃァないのか?」
宇賀の提示した「卒業時の消失による損失」という視点は、確かに一理ある。
真はその最適化された効率性を肯定し、静かに頷いた。
それを見た宇賀は、我が意を得たりと言わんばかりに、破顔して何度も頷く。
「そうだろう、そうだろう! だったらさ、ちょうど今期のポイント交換品の中に、日帰りでいける良い感じの旅行プランってのがあるんだよ。……今度の休み、さっそく一緒に行かねぇ?」
真は脳内で瞬時に、指定された日程のスケジュールを検索する。
その日に設定されている優先すべき既存の予定、および義務的なタスクは存在しなかった。
何も予定はない、と真が事実のみを告げると、宇賀は待ってましたとばかりに身を乗り出してきた。
「よしよし! 予定がないなら決定だ。じゃあ決まりな、いくぞ!」
宇賀の誘い方はやや強引であり、多分に主観的な感情が混じっている。
しかし、断る明確なメリットもデメリットもないため、真はそれをそのまま受け入れた。
すると──
「えー、なになに? 二人だけで旅行? いやらしい~、そういう関係だったわけ?」
すぐ近くの席から、兎束がいつものように軽薄な調子で会話に割り込んできた。
「だから、そのいやらしいのはお前の頭の中身だって言ってんだろ、兎束」
「しっつれいだなあ! ──ねえねえ、それよりさ。あたしもその旅行、一緒に連れていってもらっちゃっていい? 混ぜてよ」
「はあ? お前、そんな急に行けるほどのポイント残ってんのかよ」
「あるよーだ! あたしは普段あんまり使わずに、ここぞという時にドカンと一気に使うタイプだからね。ねえ、いいでしょ? まことくん」
兎束がこちらに向けてくる態度には、普段の彼女の行動パターンとは明らかに異なる「不自然さ」が含まれていた。
まるで、あらかじめ用意された台本をなぞっているかのような、作為的な演技のニュアンス。
しかし、真はその違和感をあえて指摘しなかった。
彼女の行動にどれほどの不審な点があろうとも、真にとって、それは特段の脅威でも問題視すべき対象でもないと判断したからだ。
「(おい兎束、これ絶対にバレてねぇか……?)」
「(大丈夫だってば宇賀! あたしのこの自然な演技はハリウッドスター並みよ。まことくんなら疑いもしないって!)」
背後で、二人が極めて小さな声でそんなひそひそ話を交わしているのが聞こえる。
真はその音声データを鼓膜で受容しながらも、一切の思考を巡らせることなく、ただ無機質な瞳で窓の外の世界を眺め続けていた──




