No.42 等価の対価、あるいは来たるべき大いなる獣
No.42 等価の対価、あるいは来たるべき大いなる獣
古木の香りと、ささくれ立った精神を強制的に整わせるような、独特な香料の匂い。
五感がその刺激を受け止めた瞬間、僕はゆっくりと目蓋を開けた。
視界に映ったのは、いつもの『宿望館』のロビー。そして、ぼくの前に何も言わずに佇んでいる、この館の管理人──ナイアの姿だった。
いつもなら饒舌に、時に仄暗く、どこか詩的にも感じられる語りでぼくを迎えるはずのナイアが、今に限っては徹底的な沈黙を保っている。
その静寂が、ぼくの身に起きた「変質」を何よりも雄弁に物語っていた。
だから──ぼくは、ぼく自身の口から、凪いだ水面のような声で事実を告げる。
ナイア。ぼくは、ぼくの行いに後悔はないよ。
鮫島汐音を救うための超演算。
その代償として、ぼくの胸から彩り豊かな「感情」のすべてが抜け落ち、失われた。
けれど、たとえ何かを失ったとしても、それと同等の──あるいはそれ以上の価値を持つものを、ぼくは確かにこの手にしたのだと、ぼくは素直にナイアへ語った。
ぼくを「空っぽの檻」から連れ出してくれた親友への、これがぼくなりの答えだ。
「……お客様の選択に対し、出した答えに。私から何かを申し上げることはございません」
しばらくの沈黙の後、ナイアの唇から、満足とも不満とも取れる平坦な言葉が返ってきた。
その影を帯びた銀の仮面は、ぼくの色彩を失った冷徹な瞳をじっと見つめている。
「価値とは、ある者にとっては莫大な金を支払ってでも得たいものであれば、またある者にとっては路傍の石と変わらぬ価値にしかならないもの。お客様は対価を支払い、その対価に見合った品を手にした。ただ、それだけのことでございます」
そうだね。うん。その通りだと思う。
ぼくは静かに頷いた。
ぼくにとっては、あの感情を支払ってでも、彼に恩を返したかった。
宇賀虎太郎という人間がいたからこそ、ぼくは「価値のあるもの」を手にすることができたのだと思っているから。
今のぼくにはその時の熱量《感情》そのものは思い出せなくても、その「論理」だけは、脳の記録庫に厳然と刻まれている。
「──しかし。価値とは時に、絶対なる者がそのすべてを決めることがございます」
ナイアの声音が、一変して冷たく、重く響いた。
ナイアの背後の空間が、まるで見えない自重で歪むかのように、わずかに爆ぜる。
「弱者は強者に従うことしかできず。強者は弱者を虐げることで、強者としての威厳を保つことができます。その時、お客様が弱者と成り果てて虐げられるのか。あるいは、強者として冷徹に振る舞うのか。……すべてはお客様ご自身の判断となることを、努々お忘れないよう」
それは、一体どういう──
ぼくの問いかけは、最後まで言い切ることはできなかった。
急激な目眩。
世界の輪郭が急速に融解し、ぼくの意識は底のない暗闇へと引きずり込まれかける。
視界が完全にブラックアウトするその直前、耳元で囁かれるようにナイアの最後の言葉が、まるで呪いのようにくっきりと鼓膜を揺らした。
「まもなく。大いなる獣が、お客様の前に現れることでしょう。その時の選択を、お間違いなきよう。……では、再びお会いできる時まで、ごきげんよう」




