No.44 【幕間:鮫島汐音】
No.44 【幕間:鮫島汐音】
私が生まれた家は、伝統を重んじる能楽の家系だ。
生まれたその瞬間から、私の世界には常に能楽があり、共に生き、生活してきた。
それは私にとって、呼吸をするのと何ら変わらない当たり前の日常。
だけど、だからと言って、それで私が能楽の道を生きていくかと言えば、話は別だ。
はっきり言って、私に能楽の才能はない。
もし私に少しでも才能が残されていたなら、あの祖父が──世間から人間国宝なんて呼ばれ、狂言の天才と称されたあの古風な老人が、私をこうして好き勝手させておくはずがないからだ。
「……まだ10月だから何とかなるけど、もうすぐ11月。それで直ぐに12月……はは、寒さで死ぬよね、これ」
着の身着のまま、私は家を飛び出してきた。
理由は単純。私は能楽以外の生き方をしてみたかったから。
けれど、能楽しか知らない私。
それ以外に出来ることなんて何一つない私。
それだけしか持っていない、私……。
だって、しょうがないじゃない。生まれた時からそれしかしてこなかったんだから。
学校に行ってクラスメイトと話しても、みんなが何を話しているのか、私にはさっぱり理解できなかった。
ゲーム? アニメ? 好きな俳優? ……まあ、俳優くらいなら辛うじて分かる。
たまに舞台を観に来る客の中に、そういう仕事の人も混ざっているから。
でも、それ以外の話題は、私にとっては未知の言語と同じだった。
だから話も合わないし、放課後に誰かと一緒に遊ぶこともほとんどない。
年の近い人と遊ぶ機会があるとするなら、それは大概、同じ能楽の家に生まれた子供たちだけ。
まあ、遊ぶと言ってもやることは一つだ。やれあの演技の解釈はどうだの、ここはもっと腰を落とした方がいいだの……。
「はぁ……もう、うんざり」
息苦しい。
生きているのに、生きていない気がする。
私がいるべき場所として最初から与えられていたそこは、私にとって、ただただ苦しいだけの檻でしかなかった。
だから家を出た。
何も持たず。
与えられたお仕着せの未来なんて真っ平御免だと、啖呵を切って。
「……で、結果が無一文で明日も知れぬ身、か。はは、バカだね、私。狂言の演目に出てくる阿呆な男(太郎冠者)の役なら、いつでも張れるじゃん……ッチ」
頭がすぐにつまらない方へ向かってしまう。
もっと他のことを考えよう。何かないかな、何か……。
その時、不意に脳裏を過ったイメージがあった。
──それは、私が、大勢の人の前で、眩しい光を浴びながら歌を歌っている姿。
はは、あり得ない。
能楽の古典的な発声しか知らない人間に、いまどきの歌なんて。
まあ、歌えますよ、歌うだけならね。
でも、あんなに人を熱狂させるだけの歌が歌えるかってなると、私では逆立ちしたって無理。
だって、そんな歌い方なんて知らないもの。
──でも。
ほんの、ちょっとくらいなら、真似してみてもいいかな。
「塗りつぶされた昨日の足跡~~♪」
私は、なぜか突然頭に浮かんできた見知らぬ歌詞を、小さく口ずさんでみた。
ビル群に囲まれた、冷たいコンクリートの中にある小さな公園。
そこを舞台に見立てて、私は私だけのためのコンサートを開いた。
──たぶん。私はこの時、生まれて初めて、私自身の意志で望んだ行いをしたんだと思う。
ひとしきり歌いきり、ふっと現実に戻って目を開けると。
そこには、いつの間にか一人の知らない男の子が立っていた。
年の頃は私と同じくらい。
たぶん高校生か、もしくは中学生くらいの、妙に目つきの鋭い男の子。
「……スゲェ! いやマジでスゲェよ、あんた!! 俺、こんなに感動したのは生まれて二度目だぜ! なにあんた、プロの歌手かなんかか!?」
男の子は顔を真っ赤にして、興奮しながら私との距離を詰めてきた。
「ちょっ、落ち着きなさいよ! 私はプロの歌手かなんかじゃないわよ。これくらい、誰でも歌えるでしょう?」
「いや無理だから! 俺や健也なんて、カラオケで六十点超えればいい方だぞ!? そうだあんた! もしよかったら、俺たちのバンドでボーカルやってくんねぇか!?」
「待って、話が全然見えない。落ち着きなさいってば、君」
「いや、落ち着いてらんねぇって! ちょっと待っててくれよ、いま健也に電話してこっちに来させるからさ! ……もしもし健也か!? 俺俺! あ? オレオレ詐欺じゃねぇよ!」
男の子は携帯を取り出すと、まくし立てるように電話を始めた。
私は、この嵐のように落ち着きのない男の子に振り回されている自分の心境が、意外にも、決して悪い気はしていないということに気がついた。
「……ボーカル、ってことは……歌歌いになれってこと? この私が?」
さっき脳裏を過ったばかりの『あり得ないはずの未来の残像』が、いま、少しずつ私の現実に向かって近づいてきているのが分かる。
そう思った瞬間、背筋にぞくぞくと身震いが走った。
能楽の舞台では、ただの一度も感じたことのない、快楽にも似た強烈な身震い。
「おう! 健也の奴、すぐそこまで来るってよ! で、あんた……そう言えばまだ名前聞いてなかったな」
「私は……鮫島汐音よ」
「そうか! 俺は──」
溢れるような笑顔で名乗ろうとする彼の姿を見ながら、私は心の中で、確信に近い予感を抱いていた。
この落ち着きのない男の子と、これからしばらく、ううん──きっと、ずっと長く付き合っていくことになるだろう、という、確かな確信を。




