No.45 再構築の演算、あるいは還るべき静寂
No.45 再構築の演算、あるいは還るべき静寂
悲鳴と共に世界のロジックが弾け飛び、天と地が溶け合う青一色の鏡面に、ついにその「姿」が実体となって吐き出された。
そこにいたのは、真の知る鮫島汐音の面影を辛うじて残した、あまりにも悍ましい異形の形骸だった。
華奢な四肢の至る所を、鋭利な刃を思わせる白骨の外骨格が軽装鎧のように覆っている。
そして何より異質なのは、彼女の顔面を完全に隠蔽している、深海の捕食者──鮫の顎骨を模した白い骨の仮面だった。
「……あれが、鮫島汐音の……『無明の面』」
真は右目の片眼鏡を通じて、現出した彼女の姿を冷徹に凝視した。
これまでに対峙してきた、大口一子、獅子井志那都、兎束雛、祈里寧音子、そして九尾ヶ坂麗。彼女たち独自の『識蘊の箱庭』を作り出した想像主たちはみな、己の肥大化した願いが暴走し、ひとつの強烈な感情に支配された姿をしていた。
だが、いま目の前に立つ鮫島汐音からは、その「意志」すら感じられない。
「……違って見える。今までの想像主たちとは、本質的に何かが。一番近いのは九尾ヶ坂さんだけど、それとも違う……」
「『ざ~んねん。あいにくだけど、麗ちゃんのように綺麗な伽藍堂ってわけじゃないわよ、まことちゃん。あれはねぇ──「本能」よ』」
真の精神を通じて、ヴィクセンが吐き捨てるように、しかしどこか憐れむような声音で告げた。
「本能、ですか」
「『そっ。関係性も、思い出も、自分の心さえも「断絶」の力でなにもかも消し去って、その果てに剥き出しになって残った最後の残りカス。もう人間としての言葉も、思考も残っちゃいないわ。ただ、自分の領域に入ってきた「消し去るべき不純物」に反応して牙を剥くだけの……そうね、ただの『獣』よ』」
──と、そこまで哀れむように解説した声が、まるで真っ赤な嘘だったかのように。
ヴィクセンは突然、ウユニの天井を仰ぎ見るようにして、耳障りな高笑いを響かせ始めた。
「『おほほほほ! さあ、どうするのよまことちゃん! あそこのお魚ちゃんはもう、な~んにも残っていない完全な空っぽ! ライアーの『嘘』で取り繕って誤魔化す? レグルスの『規律』で無理やり縛り上げる? それともラピッドの『煽動』で無理やり感情を昂らせてみる? ──ムダムダ、全部無駄よぉ! あんな状態になったらもう助けられないし、元にも戻せなーい! だって、自分から心そのものを切り離して失くしちゃったんだもの!』」
「『こ、のぉ……ッ! 性悪オカマ狐ぇ! 少しは黙ってなさいッ!!』」
「『ギャアッ!? なにすんのよこの小娘ぇ! 私の美しい髪(毛並み)を引っ張るんじゃないわよ!』」
「『うるさい! まことが今、必死に考え事をしてるんだから邪魔をするなーっ!』」
「……両方とも、僕の脳内で暴れないでほしいんですけどね。非常にうるさいです」
真は溜息混じりに頭を押さえ、だがその鉛色の瞳の奥に、冷徹な勝利の計算式をパチパチと点滅させた。
「ですが、そうですか。……感情をすべて削ぎ落とし、ただ本能だけで動く、いわば『赤ん坊』のような状態。無垢。……なるほど、そう考えれば、まだ打てる手はあります」
真の唇が、不敵に、そして少しだけ残酷に歪んだ。
「やはり、この作戦にはどうしてもあなたの力が必要です、ヴィクセン」
「『……はあ? なによ急に改まっちゃって。まだ私に何かさせる気?』」
「ええ。あなたがかつて僕にやったこと──独自の『識蘊の箱庭』に閉じ込め、精神を侵食したあの芸当を、そっくそのまま鮫島さんにも行ってもらうだけですよ。……ほんの、十数年分ほどね」
「『はぁ!? 意味がわからないわよ! あんな空っぽの獣を箱庭に閉じ込めて、一体何の意味があるっていうのよ!?』」
「作戦はこうです──」
真は、背後に狂気的な静寂を佇ませる『無明の面』を凝視しながら、ヴィクセンとまどかに向けて、そのあまりにも大胆不敵なリライトの概要を語り始めた。
「『……あんたさぁ。私が言うのもなんだけど、かなり、引くレベルの鬼畜よ?』」
作戦の全容を聞き終えたヴィクセンの声から、さっきまでのふざけた色気が完全に消え失せていた。
「『……まこと。お姉ちゃんとしても、今の作戦は流石に擁護できないよ。そんなこと、絶対に駄目……!』」
「理解はしていますよ。ですが、これが最も確実性の高い、唯一の状況打破です。──それでどうですか。ヴィクセン、あなたにこれが『出来ますか』?」
「『出来るか出来ないかで聞かれたら、出来るわよ。私の「変質」の権能をフル回転させればね。だけど、決定的に情報が足りないわ。あの子の人生の、ほんの僅かな記憶の断片だけで作り上げた世界に彼女を放り込んだって、十数年後にそこから出てくるのは──あの子の形をした、まったくの別人よ。中身が完全にすり替わった、偽物よ?』」
「ええ。そこも織り込み済みです。ですが、足りない情報は僕が補います」
「『補うって、一体どうやってよぉ!?』」
「リベレーターの力をフル活用します。僕の脳を触媒にして、先ほど収集した記憶の断片から、彼女が歩むはずだった数千、数万通りの『未来観測』を同時並行で行う。その中から、現在の鮫島汐音に最も近くなる『正しい道筋』を僕がリアルタイムで弾き出し、あなたの箱庭へ同期させ続ければいい」
「『ちょっ、ちょっと待ちなさいよアンタ本気!? そんな天文学的な演算、人間の脳みそで処理してどうにかなるもんじゃないわよ! 最悪、始めた瞬間に脳の許容量を超えて頭がパーンよぉ!!』」
「……大丈夫ですよ。全演算能力のすべてをそれだけに回せば、十分に勝算はあると、リベレーターのシステムからも回答が出ています」
「『すべてって……あんた、本気なの!? そこまでリスクを背負うなんて、相手はただの他人でしょうが!』」
「ええ。ですが、僕の親友の大事な仲間です。それに、僕自身が『連れ戻す』と、彼に宣言してきましたからね」
「『待って! 待ってよ、どういうこと!? まことがどうにかなっちゃうってこと!? ボクは、そんなの絶対に嫌だよ、まこと……!!』」
精神の内側で、まどかが今にも泣き出しそうな悲鳴を上げる。
だが、真の鉛色の瞳は、凪いだ水面のようにどこまでも静かだった。
「大丈夫ですよ、姉さん。脳が破裂するわけでも、僕が死ぬわけでもありません。……ただ、戻るだけです」
「『戻る……? なにに……?』」
「元の、僕にです」
感情が再構築される前。
ただ純粋に、無機質な論理の怪物として、世界をただの数式として眺めていた、あの空っぽな『繭住真』に──。
「さあ、時間がありません。ヴィクセン、やりますよ」
「『ああ、もう! いいわよ、付き合えばいいんでしょうが! だったらそのイカれた心中作戦、最後まで見届けてあげるわ! オカマの意地、嘗めんじゃないわよぉおおおッ!!』」
「『待って! 待って、まこと──っ!!』」
すがるようなまどかの声を、真の冷徹な意志が優しく遮る。
「では、姉さん。また会いましょう」
真が左手の『真実を綴る書』を最大出力で解放した瞬間──世界は音を失い、一瞬にして、すべてを白く塗り潰す圧倒的な光に包まれた。




