No.47 幻影の毒舌、あるいは変質の逆鱗
No.47 幻影の毒舌、あるいは変質の逆鱗
「『あらあら。随分とぉ、やられてるじゃないのぉ。好い様よぇ、まことちゃん』」
静寂のウユニ、その境界のない青き死の世界に、あまりにも場違いなオネェ口調の男の声が響き渡る。
目に見えない連撃を浴び、水面に血を散らしながらも、真の明晰な記憶はその独特な声の主を即座に引きずり出していた。
「……ヴィクセン。なんの用だ」
『欠落した獣』の一匹──万華の幻影狐。
かつて九尾ヶ坂麗と無理やり契約を交わし、その圧倒的な幻影の力で真を独自の『識蘊の箱庭』へと幽閉し、精神の崩壊寸前まで追い詰めようとした因縁の獣だった。
「『カーちゃん!?』」
真の精神の内側から、まどかが驚きと間の抜けた声を上げる。
「『誰がカーちゃんだ! ぶち殺すわよ小娘ぇッ!!』」
脳髄に直接響くような音量で、ヴィクセンの激しい怒号が炸裂した。
「『私を呼ぶならヴィーちゃんと呼びなさいな! いいこと、次間違えたらその不細工な布切れを光の粒子ごとミンチにしてやるからね!』」
「……っ、ぐ、はっ……! 漫才をする気なら、後にしてくれないか。見ての通り、今は死地なんでね……!」
会話の間も、容赦のない「見えない拳」が真の腹部を深く抉る。水面を何度もバウンドし、濃紺な銀河のローブを泥濘のような水で汚しながら、真は執念深く立ち上がった。
「『私だってねぇ、べつにアンタたちと漫才するつもりで声をかけた訳じゃないわよぉ。まことちゃんが一方的にボコられてるから、特等席で見物に来てあげただけ。あはは、いい気味よぉ~! もっとぼっこぼこにされなさいなぁ! 私に恥をかかせたみたいにさぁ!』」
「『うわぁ……。このオカマ狐、やっぱり性格悪ぅ……』」
まどかが心底嫌そうな声を出す。
「『うっさいわね小娘! 私はねぇ、やられたらやり返す、執念深いオカマなのよ! 例えそれが自分の手でなくてもね、アンタたちが惨めにのたうち回って消えるなら、どんな極上スイーツより栄養価が高いのよぉ!』」
「くっ……! はぁ、はぁ……! 本当に、漫才なら……っ、他所で……お願いしますよ……っ!」
ドン、と頭上から叩きつけられるような全方位からの全質量。
真は水面に激しく叩きつけられ、ついに膝を屈した。
真は悲鳴を上げ、左手の『真実を綴る書』が水面に浸かる。
姿も見えず、触れることもできない『断絶』の蹂躙が続く中、真の意識の限界はすぐそこまで迫っていた。
「『あんたねぇ! まことがここでやられたら、アンタ達だってただじゃ済まないんじゃないの!?』」
姿なき拳に打ちのめされる真を内側から支えながら、まどかが悲鳴混じりに叫ぶ。
だが、魔道書の奥底から響くヴィクセンの声は、どこまでも冷酷で愉悦に満ちていた。
「『はあ? それがどうしたのよぉ。まことちゃんが死ねば、私たちはこの忌々しい魔道書からおさらばできるの。解放されたらさ、またあの可愛い麗ちゃんに取り憑くもよし、別の誰かを捕まえて、中身をぜーんぶ貪り尽くして伽藍堂に変えてあげるのもありよねぇ?』」
「『ほんっと最悪ね、この底意地悪い狐ッ!』」
「『おほほほほ! 小気味いいわぁ、もっと悔しそうに吠えなさいな小娘!』」
「『むぎぎぎ……っ!』」
真の精神内で歯軋りをして悔しがるまどか。
だが、絶え間ない暴力を受け、意識が朦朧とするほどの全方位攻撃を受けながらも──真の鉛色の瞳だけは、まだ完全に「勝負」を捨てていなかった。
水面を血で染めながら、真はあえて冷徹な、極めて淡々とした一言を呟いた。
「……つまり。ヴィクセン、あなたよりあちらの『断絶』の方が、遥かに優秀な獣だということですか」
その瞬間、世界を覆うヴィクセンの気配が、ピキリと凍りついた。
「『……おい。まことちゃんよ。今、なんて言ったの? それ、どういう意味かしら。この私が……あんな、ただ存在を消し去ることしかできない不細工な鮫野郎に、劣るですって……!?』」
「事実、そうでしょう」
真は口元の血を手の甲で拭い、あえてせせら笑うように論理を紡ぐ。
「あなたが一時期、僕を伽藍堂に落とそうとしたプランは、あなた自身の浅はかな墓穴によって完全に破綻した。しかし、あちらの『断絶』はどうですか。姿も見せず、触れさせもせず、こうして僕を今もなお圧倒し、確実に殺しにかかっている。……客観的な事実として、あなたは『欠落した獣』の中でも、最も頭の悪い、最弱の獣であったと証明されたわけだ──」
「『上等だぁあああッ!! そのケンカ、万倍の利子つけて買い取ってあげるわよぉおおおおお!!!』ー
オネェ口調は完全に霧散し、鼓膜が裂けんばかりの、ドスの利いたヤンキーじみた咆哮が箱庭に轟いた。
「『おい理屈屋ァ! 表の鮫野郎ごと、アンタのその生意気なツラ、文字通り「万華」に叩き割ってやるから、今すぐこの書を開きやがりなさいよぉおお!!』」
「『……うそでしょう。この狐、煽り耐性低すぎない!?』」
さっきまでの絶望が嘘のように、ヴィクセンのあまりのチョロさにまどかが素で呆れ返る。
ボロボロの体を引きずり、左手の『真実を綴る書』を開くとページがバサハザとまるで今のヴィクセンの心を表しているかのように荒ぶっていた。真の唇が、不敵に、微かに吊り上がった。
「……ええ、本当に。僕も、ここまで綺麗に誘いに乗ってくれるとは思いませんでした」




