No.48 虚無のウユニ、あるいは見えざる断絶
No.48 虚無のウユニ、あるいは見えざる断絶
真は、地面の上に力なく横たわり、眠るように気絶した琥太郎の顔へとそっと手を伸ばした。
泥塗れになりながら、理由も分からずに流し続けていた男の涙──その乾きかけの雫を、指先で静かに拭ってやる。
最近でこそ少しずつ人間らしい感情が芽生え、表情豊かになったと言われる真だったが、今のその横顔は、かつての彼を思わせるほどに冷徹で、張り詰めていた。
いまだ周囲に「無表情」と評されるその面の奥底には、世界を書き換えた存在への、烈火のごとき静かな怒りが確かに込められていた。
「鮫島汐音さん。あなたは……一体なんで、みんなとの関係性をそこまでして断ち切りたかったんだ」
真はスッと立ち上がると、公園に唯一備え付けられている古びたベンチに向かって、ぽつりと問いかけた。
当然、そこに人の姿はない。ただ、空間が陽炎のごとく不自然に景色が歪む現象だけが、不気味にそこに佇んでいた。
「『ピロピロちゃん。ううん……汐音ちゃんはきっと、「普通」が欲しかったんだよ』」
脳裏に響くように、いつもと変わらない双子の姉・まどかの、どこか悲しげな声。
「普通、ですか?」
「『そっ。他の誰もが当たり前に持っていて……でも、自分だけは絶対に持たせてもらえなかったもの』」
「……要は、隣の芝生は青いってことですか」
真は小さく息を吐いた。
かつて感情の枠組みを持たず、世界の「外側」にいた真だからこそ、その痛切な飢えの気持ちはわからないでもなかった。
今は、理解できてしまう。
──だが、だからといって、そのために他人の大切な記憶まで巻き込み、居場所を奪い去るようなそのやり方が、その独善的な手段が、どうしても気に食わなかった。
真の拳が、みしりと音を立てて強く握りしめられる。
「『──おい、理屈屋。テメェの番犬として、無償で教えてやれるのはここまでだぜ?』」
真のすぐ傍らから、煙が実を結ぶように、幽霊じみた気配を伴って『虚飾の獣』が姿を現した。
「ありがとう、ライアー。……でも、どうして今回は自ら進んで協力を? お前がそんな殊勝な真似をするなんて、なにか裏があると勘ぐられるよ」
普段から皮肉めいた言葉ばかりを並べ、自分を翻弄して楽しんでいるはずの『虚飾の獣』が、珍しく自発的に情報を開示したことに、真は明確な違和感を覚えていた。
「『けっ、勘違いするなよ。はっきり言えばな、今度の相手──あの欠落した獣は、俺やレグルス、ましてやあの脳筋のラピッドじゃあ致命的に相性が悪いんだよ。まともに正面から相手ができるとしたら、せいぜいクレイドルの奴くらいだろうな』」
「『え? あの堕落ねこが!? でも、あの子の力って……』」
まどかの声に、ライアーは獣のような瞳の奥でニヤリと不気味に笑った。
「『そう、あいつの力は「忘却」だ。そして、今回の想像主が契約した奴の力は「断絶」……。似たような能力ではあるが、その質が決定的に違う。世界から関係性をバッサリと切り離しやがる。……厄介という意味じゃ、どっちも最悪だがな』」
「……なるほどな。大体の性質はわかった。ありがとう、ライアー」
「『はっ、好きにしろ。どうせ今のテメェの力じゃ勝ち目はねぇよ。せいぜいあいつの力に捕まって、何もかも忘れた木偶人形に成り下がるのがオチだ。あーあ、傑作な結末を期待してるぜ?』」
ライアーはそれだけ吐き捨てると、言葉通りに黒い煙となって、風の中に掻き消えた。
静寂が戻った公園で、真はもう一度、歪む空間の核心を見つめた。
右目の鉛色の光が、その境界線の奥にある「世界のバグ」を正確に捉えている。
「……行こう、姉さん」
「『うん! みんなの記憶を、またあの熱いステージを、絶対に取り戻さなきゃね!』」
二人は一瞬の躊躇もなく、空間の歪みへとその足を進めた。
鮫島汐音が望み、その狂気と渇望によって作り出した、閉ざされた偽りの世界──『識蘊の箱庭』へと、真円を綴る者は静かに潜行していく。
──『識蘊の箱庭』。
歪む空間の境界を跨ぎ、その世界へと一歩を足を踏み入れた真とまどかは、思わず息を呑んだ。
そこは、真がこれまでに対峙してきたどの想像主たちが作り出した箱庭とも、決定的に、その本質から異なっていた。
「『綺麗……』」
「……ウユニ湖の景色みたいだけど、これは……」
どこまでも、どこまでも果てしなく続く、雲ひとつない青き空。
そして足元に広がる大地には、薄く張った水が巨大な鏡のごとく空の青を完全に映し出し、天と地のすべての境界線を消し去っている。
果てのない静寂。上下の感覚すら狂いそうな美しさの極致。
──だが、真にはそれが、あまりにも恐ろしい「死の世界」そのものに思えてならなかった。
音も、風も、他者の気配も何一つない。
すべての人間関係を断ち切った汐音の精神の底は、これほどまでに孤独で、完璧な虚無に満ちていたのだ。
今、この世界には、真たち以外の生命の存在は一切感じられなかった。
「姉さん。何が起きるかわからない。念のため、最初からリベレーターの姿に──」
真がその言葉を言い終わる、まさにその瞬間だった。
ドン、と凄まじい衝撃波のようなものが真の真横から炸裂し、彼の身体は防ぐ術もなく虚空へと吹き飛ばされた。
鏡のような水面を何転も激しく滑り、真の身体が止まる。
「『まこと!?』」
まどかが悲鳴のような声を上げ、慌てて真のそばへと駆け寄った。
それと同時に、彼女は己の体を光の粒子を変換させ、真の肉体を守るための防壁──濃紺な銀河を纏うローブに『真円を覗くもの』の片眼鏡。
そして左手に『真実を綴る書』の魔道書を持つ『リベレーター』の姿へと瞬時に変貌する。
真は痛む脇腹を押し、水面を蹴って立ち上がりながら、鋭い視線で辺りを見回した。
しかし、360度どこを見渡しても、天と地が溶け合う青のなかに誰の姿も確認できない。
「どういう──っ、ぐうっ!?」
返答は、容赦のない追撃だった。
今度は正面から、目に見えない何者かに顔面を強く殴り飛ばされるような強烈な衝撃が真を襲う。
脳を揺らされ、再び水面に膝をつく真。
「『どういうこと!? 誰もいない、気配すらないのに、なんで……!?』」
真の精神の内側で、まどかが完全に混乱し、周囲を警戒して構える。
だが、立て続けに理不尽な暴力を受けながらも、真の明晰な脳細胞は、すでにこの世界の歪んだ『からくり』を読み解き始めていた。
「なるほど……。だから、『断絶』、か……!」
真は口元に血を滲ませながら、冷徹に、確信を込めて呟いた。
「この能力の真髄は、ただ他人の記憶から存在を消すだけじゃない。対象の認識そのものから、自分のあらゆる情報を『切り離して』いるんだ。……相手はいる。鮫島汐音さんは、間違いなく僕らのすぐ目の前に立っているんだ」
「『で、でも、見えない、聞こえない、気配も感じられない相手に、どうすればいいの!?』」
まどかの切羽詰まった叫びに、真の脳裏でライアーのあの嘲笑うような言葉が蘇る。
──「『俺やレグルス、ましてやラピッドじゃあ致命的に相性が悪い』」
その意味が、いま最悪の形で理解できた。
ライアーの『虚飾』も、レグルスの『規律』も、ラピッドの『煽動』も、すべては「相手を認識し、交渉し、介入する」ことで初めて成立する能力だ。
観測することすら許されない絶対の断絶のなかでは、どんな強力な獣の権能も、虚空を空しく切るだけの無力な机上の空論に成り下がる。
「確かに対象の有無を気にせず、空間そのものを白紙に戻すクレイドルの『忘却』なら、無理やり対応は可能だったかもしれない……。だけど、これは……っ!」
思考の隙を突くように、容赦のない拳と蹴りが、真の身体を一方的に蹂躙していく。
相手は見えない。
触れようとしても、こちらの攻撃は虚しく空をすり抜けるだけ。
それなのに、相手はこちらの動きを完全に感知し、絶対的な質量を持って的確に殴りつけてくる。
どれだけ片眼鏡に力を込めようと、どれだけ『真実を綴る書』を繰ろうと、世界そのものが「鮫島汐音を認識しない」というロジックで固定されている以上、真には抗う術がなかった。
濃紺な銀河を纏うローブが虚空からの衝撃に裂け、光の粒子が火花のように散る。
「『きゃあああッ!』」
精神を共有するまどかの苦悶の喘ぎが、真の脳裏に直接響いていた。
リベレーターの力を以てしても、手も足も出せない──世界のルールそのものから拒絶されるような、かつてない致命的な窮地に、真たちは立たされていた。
水面に膝をつき、荒い息を吐く真の視界が、自身の血と青一色の世界によって混濁していく。
完全に詰んだかに思えた、その静寂の死の世界に。
突如として、あまりにも場違いな、妖艶で、どこか全てをからかうような「男の声」が真に語りかけてきた。
「『あらあら。随分とぉ、やられてるじゃないのぉ。好い様よぉ、まことちゃん』」




