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No.49 血脈の呪縛、あるいは断絶の果て




 No.49 血脈の呪縛、あるいは断絶の果て




 薄暗い『十王UNDERGROUND』のカウンターで、琥太郎は血の気が引いていくような感覚を覚えながら、目の前の男に食い下がっていた。


 「誰って……おいおい、冗談だろ。忘れんなよマスター! 俺たちのバンドのボーカル、汐音だよ」


 琥太郎の必死な声に、マスターはグラサンの奥の眉を深くひそめ、咥え煙草を指で挟んだ。


 数秒、まるで脳内の古い引き出しを無理やり抉じ開けるような沈黙が流れる。


 「……汐音、ボーカル……。ああ、そうだ。確かに、そんな奴がいたな。……チッ、なんだってんだ。なんで今、あいつの顔を忘れてやがったんだ、俺は」


 「知らねぇよ。いよいよ歳なんじゃねぇの?」


 「やかましいわ、クソガキが」


 マスターは忌々しげに煙草の灰を落とした。


 その表情には、自分自身の記憶が一瞬だけ「断絶」していたことへの、かすかな困惑と不気味さが滲んでいる。


 「んで、なんだって? 誰の評価の話をしてやがった」


 「だから、汐音だよ。鮫島汐音! ……この間さ、俺たちの学院の学芸祭に、審査員席の真ん中にとんでもねぇオッサンが座ってたんだよ。ええっと、名前はなんだっけ……能楽のレッド・ツェッペリンだって、健也がビビりながら言ってた、あの……」


 「能楽の、レッド・ツェッペリン……? ……おい、もしかしてそれ、千鳥冠介のことか?」


 「そうそう、それ! その千鳥のオッサンに、俺らボロクソに評価されたんだよ。ものの見事に、さっきマスターが言った通りの致命的な弱点をな。……だけど、その中でさ、汐音のことだけは、あのオッサンは一切評価しなかったんだ」


 マスターはグラサンの奥の目を少しだけ見開いた。


 「また随分な重鎮がステージの下に突っ立ってたもんだな。なんなんだ、お前の通ってる学院は」


 「俺にとっちゃ普通の学院だよ! そんなことよりマスター、マスターから見て、汐音はどんな評価なんだ。アイツの歌が、アイツの鳴らす音が本当はどれほどのモンなのか……俺、それが知りてぇんだよ」


 琥太郎の真っ直ぐな瞳。


 まだ完全にバラバラになっていないはずの『ALIVE²』の、最後の灯火を守ろうとするかのような執念が、そこにはあった。


 マスターはゆっくりと煙草を灰皿に置き、腕を組んで天井のスピーカーを見上げた。


 「汐音、か……。そうだな。あいつの音は──」


 マスターはそこで少し思案するように、咥え煙草を指先で弄んだ。


 そのグラサンの奥の目は、汐音の『音』をどう評価すべきか測りかねているというよりは、もっと別の、根深い現実をどう伝えるべきか迷っている風だった。


 マスターは評価を口にする代わりに、琥太郎を低く射抜くような視線を向け、ひとつ問いただした。


 「おいコタ。お前さんは……汐音のことを、あいつのことをどれだけ知ってる?」


 「あ? そりゃあ、俺たちのバンドに必要不可欠のフロントマンで、歌がとんでもなくスゲェ奴で……」


 「ああ、わかったわかった。もういい」


 マスターは琥太郎の言葉を片手で制し、呆れたようにため息を吐いた。


 「つまりテメェは、相手の私生活だの過去の話だの、そういう中身のことは何一つとして聞いちゃいねぇってことなんだろう」


 「しょうがねぇだろうが! 汐音の奴、自分からそういうこと一切話さねぇんだからよ。俺だって、プライベートを根掘り葉掘り聞くような真似は──」


 「……話さねぇんじゃねえよ、コタ」


 マスターのトーンが、一段と低く沈む。


 「アイツはな、自分の『過去』を必死に捨て去ろうとしてるんだよ」


 「捨て去る……? 何をだよ」


 「ああ。千鳥冠介なんて名前が、今のお前の口から出てきたのも、果たしてただの偶然かねぇ」


 「はあ? なんか関係あんのかよ?」


 琥太郎は怪訝そうに眉をひそめた。


 だがその瞬間、あの学芸祭のステージ裏での、汐音のただ事ではない様子が脳裏をよぎる。


 「……いや、そう言えば。汐音の奴、あの日あのオッサンに対して、かなりブチキレた態度取ってたよな。ジジイを殺すだのなんだのって、いつも以上の狂い方だったっていうか……」


 「ブチキレたか。……まあ、汐音にとってはそれだけの理由があるんだろうな」


 「だからなんなんだよ! もったいぶらずに言えよマスター、気持ち悪いな!」


 じれったさに声を荒げる琥太郎を、マスターは「うるせぇ奴だな」とグラサンの位置を直しながら一蹴した。


 そして、灰皿に煙草の灰を静かに落とし、至極淡々と、その決定的な事実を告げた。


 「──汐音と千鳥冠介は、血の繋がった孫と祖父だ」


 「はあ!? ……どういうことだよ、それ!?」


 あまりの突飛な事実に、琥太郎は身を乗り出して絶句した。


 芸能界の、それも日本が誇る古典芸能の最高峰の怪物が、自分たちのバンドの、あのアンダーグラウンドの泥水をすすっていた歌姫の祖父。


 あまりにも結びつかない二つのピース。


 「俺も詳しくは知らん。ただ、あのハコに未成年を上げる以上、こっちだって大人のケジメとして身分証明書の確認やら裏取りを行う。その時に調べたら、嫌でもその関係が出てきたんだよ。……んで、先方の、汐音の実家の方にも一応連絡を入れて確認を取った。その時、電話に出たのが汐音のお袋さんだったんだがな」


 マスターは当時の電話のやり取りを思い出すように、新しく吐き出した白い煙と一緒に、ぽつりぽつりと語りだした。


 「……向こうの母親も、娘のことはそれなりに心配はしていたみたいだった。ただな、表だって警察に捜索願を出すような真似はできない、とよ」


 「なんでだよ!? 娘が家出してんだぞ!?」


 「『家の恥』ってやつなんだろうよ」


 マスターは自嘲気味に鼻で笑い、グラサンの奥の目を細めた。


 「古典芸能の偉大なる家元の娘が、家出して男に混ざって地下のライブハウスで泥水をすすってやがるなんて世間に知られたら、あいつらにとっちゃ恥以外の何者でもねぇってわけだ」


 「なんなんだよそれ……!? 家族じゃねぇのかよ!?」


 「そう言う家も、この世にゃあるってことだ。んで、俺も訊ねた。あんたのところの娘をこのハコで預かる以上は、店主おとなの最低限のケジメとして事情を知っておきたいとな」


 「……」


 「答えは、よくある『反発』だそうだ。芸のために身を粉にし、私生活の、人間としての日常の全てを捧げる。そうした歪んだ生活に、あいつは底から嫌気がさしたんだとよ」


 信じられなかった。


 あんなに圧倒的で、触れれば切れるナイフのようだった汐音の歌が。


 あの狂気的なまでの衝動が、単なる「家への反発」なんてありふれた言葉で片付けられてしまうことが、琥太郎にはどうしても納得がいかなかった。


 「なんで……そんな、そんな理由で……!」


 「『そんな、か』……そいつはな、コタ。お前がまだ、本当の意味で『芸』を、命がけの『音』をやっていねぇから言える言葉だな」


 「はあ!? ふざけるなよ! 俺はいつだって本気で──」


 ──ドラムを叩いてる。


 その先の言葉を、琥太郎は最後まで紡ぐことができなかった。


 グラサンの奥から、マスターが放った冷徹な睨み。


 十王UNDERGROUNDの修羅場をいくつもくぐり抜けてきた大人の、有無を言わせぬ圧倒的な眼光が、カウンター越しに琥太郎の言葉を完全にねじ伏せ、喉の奥へと押し戻したのだ。


 「お前はまだ、そこまでの領域に踏み込んでねぇ」


 マスターの声は、コンクリートの壁に染み込むように静かだった。


 「テメェの命を、家族を、人生の全てを差し出してでも極めてぇと思えるほどの……身を焦がすような狂気にな。千鳥冠介って男は、それを実際にやってのけてあの(てっぺん)に座ってる。そして、それを自分の子供や、孫にまで当然のように許容させようとしたんだろう。だからあいつの中に致命的な反発が起こった。……これは、最初からそういう次元の話なんだよ」


 マスターの言葉が、重く、鋭く、琥太郎の胸に突き刺さる。


 人生のすべてを差し出す狂気。


 それから逃れるために、自分のすべてを捨て去ろうとした歌姫。


 ハコを包むスピーカーのノイズが、まるで世界の境界線が削れる音のように、一段と大きく耳鳴りのように響き始めていた。


 「もう一度言うぞ、コタ。お前にそれができるか?」


 マスターは煙草を灰皿の縁に置き、剥き出しの眼光で琥太郎を真っ直ぐに見据えた。


 「テメェの人生の全てを懸けて成し遂げたいと、あの『(てっぺん)』の椅子に座るために……家族を、友人を、私生活の全てを捧げる覚悟って奴が、お前にあるか?」


 「そいつは……」


 琥太郎の唇が戦慄く。


 ──躊躇ってしまった。


 仲間を、居場所を、全部捨ててでも一人で這い上がる覚悟があるかと問われて、一瞬でも怯んでしまった。


 「……良いんだよ、それで。普通の感覚の奴なら踏み込めねぇ。躊躇っちまうのが当たり前だ。だけどな、覚えとけ。本当に欲しいなら、本気で願うなら、一瞬の躊躇もしちゃならねぇ。もし一度でもしちまえば、とたんに足は止まる。そこから先へは進めなくなる。……あいつのようにな」


 「あいつって……どういうことだよ? 誰のことだよ」


 「あいつだよ。腐ってもあの千鳥冠介が手解きして育てたんだろう、だからそれなりに『器』はできてる。だが器ができてるだけだ。その中身がねぇ。いや……自分から捨て去っちまったと言うべきか」


 「だからなんなんだよ! さっきから捨てただの踏み込めねぇだの、俺にもわかるように言ってくれよマスター!」


 琥太郎は声を荒げた。


 しかし、その瞬間、脳の奥を直接太い針で突き刺されたような、猛烈な頭痛が琥太郎を襲った。


 キィィィン、と耳障りなハウリングのようなノイズが、十王UNDERGROUNDの空間を満たしていく。


 「……どんなもんにも、経験すれば技術が着いていく。しかし、あいつはな、その経験した過去を『なかったこと』にしてるんだよ」


 「でも……そんなこと、無理だろ? 過去をなかったことになんて、人間の脳みそじゃ──」


 「ああ、だから苦しんでる。過去を捨てたい。けれど未来に希望なんて持てねぇ。でも、あいつは生きていた。……お前らが、あいつと共感したのなんて、そこの部分だけだ」


 マスターの声が、徐々に遠くなっていく。


 まるで水の底から聞こえてくるかのように、輪郭が急速に滲んで、溶けていく。


 「あいつは過去が認められない。お前らみたいに、前を向いて未来に希望を見出すこともできねぇ。今、この瞬間しか生きられないんだよ。だから……だから、あいつの音はあんなに刹那的だったんだ。なあ、コタ……俺たちは、誰の話をしてたっけな?」


 「え──」


 琥太郎は息を呑んだ。


 今、マスターは何と言った? 誰の話をしていた?


 自分の喉まで出かかっている、あの、バンドのフロントマンの名前。


 あの狂気的な歌姫の顔を。


 「マスター、俺たち、誰の、誰の歌のことを──」


 「さあな。お前がカウンターに突っ伏してうなされてるから、昔の俺の知り合いの話でもしてたろ。……おいコタ、暇なら床の掃除のひとつでもしておけ」


 ガタ、と椅子を引く音が聞こえた。


 見上げると、マスターはいつも通りのニヒルな顔で、汚れのないカウンターを指で拭っていた。


 そこには、先ほどまで話していた「千鳥」のことも、「血縁」のことも、何一つとして残っていない。


 世界から、決定的なピースが抜け落ちた。


 「あ……、あ、あああッ!!」


 琥太郎は自分の頭を掻きむしり、狂ったようにハコを飛び出した。


 走った。


 がむしゃらに、十王UNDERGROUNDの階段を駆け上がり、冷たい秋風が吹く街へと飛び出した。


 探さなきゃいけない。


 取り戻さなきゃいけない。


 けれど、自分が誰を探しているのか、何を取り戻そうとしていたのか、その輪郭すらもう砂のように指の隙間からこぼれ落ちて、何一つとして思い出せない。


 胸に残っているのは、張り裂けそうなほどの、圧倒的な「喪失感」と「悲哀」だけ。


 走って、走って、最後に琥太郎がたどり着いたのは、夕暮れの静寂に包まれたビルに囲まれた小さな公園だった。


 限界だった。


 琥太郎の膝が折れ、冷たい土の上に崩れ落ちる。涙が、理由も分からずにボロボロと溢れて止まらなかった。


 その時、ボロボロになった琥太郎の身体を、後ろからそっと抱き締める、静かで温かい温もりがあった。


 「う、あ……俺、誰かを探さなくちゃいけなくて……でも、それが誰かわからなくて……ッ!」


 子供のように泣きじゃくる琥太郎の背中を、その人物は優しく、痛いほどに抱き締め返した。


 「うん。わかってる。あとは任せて、琥太郎」


 「『そうよ。あとはボクたちに、まっかせなさい。汐音ちゃんをちゃんと連れて帰ってくるから』」


 どこか良く似た男女の声が、夕闇の境内に溶けるように響く。


 泣き続ける琥太郎には、その声をくれた「誰か」のことすら、もう判別することはできなかった。


 けれど、その温もりだけが、すべてを断絶した彼の心を確かに救っていた。


 琥太郎をそっと横たわらせると、ゆっくりと立ち上がり、世界のバグが渦巻く空を見上げた。


 その鉛色に輝く右目の瞳には、 リベレーターとしての、静かすぎる怒りと覚悟が宿っていた。












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