No.51 至高の残光、あるいは怪物の証明
No.51 至高の残光、あるいは怪物の証明
グラウンドを包む空気は、もはや「お通夜」という言葉すら生ぬるいほどに冷え切っていた。
プライドをもって司会を務めている鶏島が、額から文字通り滝のような冷や汗を流しながらマイクを握り直すものの、その卓越したトーク術をもってしても、この壊滅的な空気を再び盛り上げるのは不可能だと、内心でお手上げの白旗を振るしかなかった。
誰の目にも学芸祭の失敗が過った、その時──。
張り詰めた静寂を、涼やかな鈴の音のような声が気高く割った。
『──鶏島さん。少々、よろしいかしら』
『あ、はい。なんでしょうか千鶴様』
凰千鶴が、手元のマイクを通してステージへと声を届ける。そのあまりに自然で優雅な介入に、グラウンド中の視線が審査員席へと集まった。
『これほど素晴らしい舞台をこのまま終わらせてしまうのは、あまりにも惜しい。……幸い、ここには日本が誇る至高の表現者がおられます。冠介さん、あなたのせいで冷えてしまったこの場ですもの。……皆様に、一つ狂言を披露して差し上げてはいかがかしら?』
千鶴の提案に、蜂須賀校長が「おお……!」と目を見張り、鶏島の顔に劇的な救いの光が宿る。
千鳥冠介は数秒、隣の千鶴をじっと見つめていたが、やがてフッと低く笑った。いくら正論とはいえ、自分の私情が混ざった酷評のせいで、お祭りであるはずの場を完全に破壊してしまった自覚は、老狂言師にも当然あったのだ。
「……手厳しい。ですが、壊した器は己の手で直すのが、表現の徒としてのケジメ、ですかね。良いでしょう、一舞、お付き合いいただきましょう」
冠介がゆっくりと立ち上がり、審査員席からステージへと歩を進める。
さっきまで『ALIVE²』を容赦なくこき下ろした「嫌な老人」が舞台に上がる姿を、生徒たちは戸惑いと、ほんの少しの反発の混ざった目で見つめていた。
──しかし、その不穏な空気は、冠介がステージの「中心」に立った瞬間に一変する。
スッと背筋が伸び、顎が引かれる。
その瞬間、老人の身体がまるで何倍にも巨大化したかのような、圧倒的な威圧感がグラウンド中に放射された。
マイクすら通していないはずの彼の「呼吸」の音が、なぜか一番後ろの観客にまで明瞭に届く。
披露されたのは、たった五分にも満たない、短く滑稽な小品(演目)であった。
しかし、そこにいた観客のすべてが、瞬きをすることさえ忘れてその姿に虜となった。
古典芸能という高いハードルを一切感じさせない、現役の高校生たちが直感的に理解し、笑える巧みな内容。
一ミリのブレもない完璧な立ち位置のコントロール。
グラウンドの隅々まで、鼓膜ではなく細胞に直接響かせるような声の圧倒的なメリハリ。
そして、仮面を被っているのではないかと錯覚するほど、感情を自在にデザインする顔の表情。
その一挙手一投足、指先の一動に至るまで、すべてが「観客を魅了するため」だけに極限まで計算され尽くしていた。
そこには、自分をコントロールできずに暴走した汐音の「悲鳴」とは対極にある──六十数年の歳月をかけて磨き上げられた、本物の『芸術』の姿があった。
ステージの上では、千鳥冠介という本物の怪物が、圧倒的な芸によって観客の熱を瞬く間に取り戻していく。
歓声と笑い声が遠く響く中、舞台裏の楽屋に降りてきた『ALIVE²』の周囲だけは、時が止まったかのように暗く沈み返っていた。
宇賀琥太郎は、楽屋の隅に設置された小さな液晶テレビの画面を、ただじっと見つめていた。
画面の中で一瞬にして世界を支配していく老狂言師の姿に、琥太郎はぽつりと、乾いた声を漏らす。
「……スゲェな。あれが、本物ってやつなんだな」
それは敗北の弁ではなかった。
むしろ、圧倒的な壁を目の当たりにしたからこその、純粋な敬意だった。
琥太郎はバッとメンバーたちを振り返り、自らの両頬を強く叩いて発破をかける。
「ああ、うん。よくわかった! 俺らにはまだまだ、決定的に足んねぇもんがあるってことだ。だけどよ、お前ら──俺らはこっからだ! まだやれる、ここから這い上がって、やってやろうぜ!」
その言葉に、嘘や空元気は一切なかった。
琥太郎は本気で、この最悪の酷評すらも糧にして、四人で一からやり直せるのだと信じて疑っていなかった。
しかし、床を見つめたままの健也たちの肩は、酷く重いままで上がらない。
「なんだよ。……まだ気にしてんのか? 健也、今度は俺も気分で叩かねぇように、リズムのキープを一から修行し直すからよ。勇馬、技術なんてもんは、泥臭くやり続けてたらいつかは身に付くだろう。大和、お前の腕は最初から信じてんだ、殻なんて破って好きなようにやったって良いんだよ。な? 汐音、お前だって──……あれ? 汐音は?」
そこで初めて、琥太郎は楽屋の中に「彼女」の姿がないことに気がついた。
あれほど狂ったように怒り狂い、ジジイを殺すと叫んでいたはずのフロントマンの気配が、どこにもない。
大和が怯えたように、小さく声を震わせながらテレビの画面へと視線を向けた。
「……ここに来たあとすぐ、汐音は一気に落ち着いたんだよ。まるで、さっき千鳥冠介と出会わなかったかのように……。その後は、いつもと同じ。『用が済んだから帰る』って言って、そのまま出ていった」
「マジかよアイツ……気まぐれにもほどがあるだろう」
呆れたように笑おうとする琥太郎に、健也が初めて、冷徹な現実を突きつけるような、深く、暗い視線を向けた。
「なあ、琥太郎。……汐音のあれを、もう『気まぐれ』なんて言葉で済ませていいのか? 俺たちは……あいつのことを、何一つ理解してやることなんてできないんじゃないのか?」
「……ッ」
琥太郎は言葉に詰まった。否、答えることができなかった。
『ALIVE²』は、この息苦しい世界で息も絶え絶えになりながら、それでも泥水をすすって生きなければならない奴らが集まって、ようやくできた唯一の居場所だ。
傷を舐め合うだけの音楽だと罵られようとも、これだけは手放してはならない救いだった。
そこに「異物だから」「自分たちとはスタンスが違うから」という理由で、仲間を弾き出すような真似だけは、琥太郎のプライドが、彼の優しさが、絶対に許さなかった。
だが、健也の限界は、すでに限界を迎えていた。
「……今日のことで、俺たちの限界は完全に突きつけられた。悪いが、一度バンドは『休止』をした方がいい」
「待てよ健也!! 休むのは構わねぇよ! だけど、頭を冷やしたその後は──」
「各々、改めて考えることにしよう。音楽を続けるにしても、……それ以外の、別の道を選ぶにしてもだ」
「ふざけるなよ!!」
琥太郎が健也の胸ぐらを掴まんばかりに叫ぶ。
バラバラになっていく世界の足音が、すぐそこまで聞こえていた。
「俺は……俺は、お前ら以外と音楽をやるつもりはねぇぞ!! お前らとじゃなきゃ、意味がねぇんだよ!!」
「それを含めて考えろ、琥太郎」
健也は琥太郎の腕を静かに、けれど拒絶を込めて振り払った。
その瞳には、諦念と、そして親友に対する痛切な親愛が混ざり合っていた。
「お前には、まだ先がある。……俺たちとは違って、本当の才能と、未来があるんだよ。それを俺たちのせいで引きずり下ろすわけにはいかない」
「ちょ、待てよ……! 待てって! ふざけるな、お前らッ!!」
大和も、勇馬も、健也の後を追うようにして、琥太郎から目を背けたまま次々と楽屋から出ていってしまう。
パタン、と静かに閉まったドアの音が、決定的な世界の決裂を告げていた。
一人残された楽屋。
静まり返った空間の真ん中で、琥太郎は、今しがたそこから消え去ってしまった仲間たちの残像を必死に掴み取るように、誰もいない空中に向かって、虚しくその手を伸ばし続けていた。




