No.62 恐怖の駆動、あるいは特等席の特権
No.62 恐怖の駆動、あるいは特等席の特権
──結果から言うと、体育祭は未曾有の盛り上がりを見せていた。
ただしそれは、爽やかな青春のパトスなどではなく、逆らう者は即座に処刑されるという純然たる「恐怖のパトス」によって駆動された、死に物狂いの狂熱だった。
『あはははは! いいですね! 二年の但馬大吾選手! 障害物競走の網で股間を強打。芋虫のように悶絶するという、男にしたら実に恐怖映像ですが、映像としてはなんともおいしい絵面をいただきました! ――ほら大口さん、そんなに必死に口を押さえて笑いを堪えるくらいなら、いっそ声に出して笑ってあげた方が彼も吹っ切れると思いますよ!』
『くふっ、む、むり、むりでふ……ふふ、お腹が、痛い……っ』
『うーん、大口局員は下ネタ好きなのでしょうか?完全にツボに入ってしまったようで、しばらくまともなコメントは無理そうです! さて、気を取り直して次の競技参加選手をご紹介しましょう──』
『ち…が、ぷぷっ』
スピーカーから流れる鶏島の実況は、いつも以上に生き生きとしていた。
恐怖に縛られた生徒たちが、文字通りなりふり構わず全力で泥にまみれ、必死にゴールを目指す姿は、放送局員にとってはこれ以上ない最高の素材なのだろう。
「お疲れ、琥太郎」
「おう……。クソ、死ぬかと思った。まったく、危うく俺まで綱の餌食にかかるところだったぜ……」
たった今起きた、地獄の障害物競走から生還したばかりの宇賀が、額の冷や汗をスポーツタオルで拭いながら、真たちのいるクラスの観覧座席へと戻ってきた。
「そのまま巻き添え食らってたら、あたしが盛大に爆笑してあげたのに」
ベンチに腰掛けた兎束が、戻ってくるなりヘトヘトになっている宇賀に対して容赦のない一言を放つ。
「ふざけんな! お前ら二人は競技に参加しないから、そんな気楽に高みの見物してられるんだろ! こっちとら、元局長サマのあの脅しのせいで、文字通り死に物狂いになってる連中のとばっちりを受ける恐怖と戦ってきたんだぞ!」
宇賀が肩を怒らせて抗議する。
そう、今回の体育祭において、真と兎束の二人は完全な「観戦組」だった。
真は『識蘊の箱庭』での一件による怪我はほぼ完治しているものの、医師からは「激しい運動はしばらく控えるように」と言い渡されている。
そして兎束もまた、退院して松葉杖が取れたとはいえ、日常生活以上の無理な運動はまだドクターストップがかかっていた。
そのため、二人はお弁当を入れた鞄を傍らに置き、特等席からクラスメイトたちの奮闘、あるいは生存競争を応援するという形で参加していたのだ。
「まあまあ。獅子井先輩もああは言ったけど、引退した身で本気で僕たちをどうこうするわけじゃ──」
なだめるように苦笑する真だったが。
「おい、まこと。お前、本当に心の底からそう思うか?」
宇賀がすっと表情を消し、ガチの真顔になって真の顔の前にグイッと迫ってきた。
その瞳には、かつて『規律』に睨まれたことのある者だけが持つ、本気の怯えが宿っている。
「こ、琥太郎……顔が近いから……。……それに、たぶん、きっと……うん、大丈夫、だよ?」
宇賀の迫力に圧されながら、真は数秒ほど必死に脳内シミュレーションを重ねた。
しかし、あの生真面目で強かさまで身につけた獅子井志那都という女性が、腑抜けた生徒を「本当に物理的に叩き直す」可能性を完全に否定しきれず、最終的に出てきたのはきわめて曖昧な濁し文句だった。
「ほら見ろ! まことだってあの女ならマジでやりかねねえって思ってんじゃねえか!」
「あははは! まことくんもだいぶ言うようになってきたねー。以前ならもっと全力でフォローに回ってたのに」
宇賀の絶叫に、兎束が我が意を得たりと楽しそうに笑う。
「『ふふ。まことも少しずつ、あの志那ちゃんの扱いが分かってきたみたいね』」
真の背後で、まどかも嬉しそうにクスクスと笑いながら宙を漂っていた。
動機がどうあれ、そして過程がどれほど不条理であれ。
体育祭は異様なまでの盛り上がりと、かつてない高水準の競技記録を叩き出しながら、午前中のプログラムを怒涛の勢いで消化していくのだった。
午前中のすべての競技が終了し、体育祭は待ちに待った昼食の時間へと移った。
グラウンドのあちこちにレジャーシートが広げられ、生徒たちがグループごとに固まって弁当を広げ始める。
真たちのクラスも、観覧席の周辺で思い思いの昼食を取り始めていた。
真が鞄から自作の小さな弁当を取り出すと、その隣で兎束もまた、コンビニの袋ではなく、丁寧に包まれた家庭的なお弁当箱を取り出した。
一方で、二人の前にどっかりと座った宇賀が懐から引き抜いたのは、登校中に近くのコンビニで適当に買い込んできたことが一目で分かる、味気ない惣菜パンの袋だった。
「『ちょっとコタロー、侘びしい食事ねぇ。こんな時くらい、誰かお弁当を作ってくれるような可愛い女の子はいないわけ?』」
「……琥太郎、今日は学食のレストランに行かなかったんだね」
まどかの言葉に真が苦笑しながら別質問で尋ねると、宇賀は焼きそばパンのパッケージを歯で引きちぎりながら、不満げに眉を寄せた。
「あー、今日の学食は普段の定食メニューがなくてよ、体育祭イベント用の特別なメシしか出してねえんだわ。去年、物珍しさで食ってみたんだけどよ、全然食った気がしなかったから今年はやめたんだ」
「イベント用? 一体何が出たのよ」
お箸を割りながら兎束が興味深そうに首を傾げる。
「忘れた。なんか、やたらと名前が長くて洒落た食いもんだったってことだけは覚えてる」
「つまり、自分が何を食べたのかすら理解してないのね……」
「あはは、洒落たっていうのはこれのことかな? ほら、端末の学内掲示板にメニューが載ってるよ。結構有名な老舗料亭が監修した『彩り御膳』っていうのが出てるみたいだね」
真が手元の携帯端末を操作して画面を見せると、兎束が身を乗り出して覗き込んできた。
「へぇー、どんなの? ――うわぁ! 綺麗! めっちゃ美味しそうじゃん!」
「『……あー、なるほどね。綺麗だけど、これは男の子には絶対量が足りないやつだわ』」
「俺としてはカツ丼とかステーキとか、こう、腹にガツンと来る食べ物の方が良かったんだわ! あんな上品にちょこちょこ盛られても、胃袋の隙間も埋まらねえっての」
「それはそれで、お昼休みの後に動いたら胃もたれしそうだけど……」
「そうか? 腹減らした男子高校生なら、カツ丼の二杯や三杯は余裕だろ。俺からすりゃ、お前らの方こそそんな可愛い弁当で足りんのかって思うぞ」
宇賀の視線が、真の整然と詰められたお弁当と、兎束の小ぶりなお弁当箱へと向けられる。
「そう? 僕は運動してないし、これで十分だけどな」
「あたしも、今は怪我のせいで運動もできないしね。ちょっとした体型維持も兼ねて、あえて少なめにしてるのよ」
「『人によりけり、ってところね。足らず多すぎず、過不足なく。それが一番よ』」
まどかが大人の余裕を見せるように宙で腕を組んで頷く。
真はそんな姉の言葉を背中で聞きながら、彩り豊かな卵焼きを口に運んだ。
穏やかな昼食の時間が流れる中、突如としてグラウンドに設置された大型スピーカーから、再び鶏島の軽快な声が響き渡った。
『さあ皆様! 午後の部に向けて美味しい昼食を取っておられる最中でしょうが、ここでグラウンド中央にご注目ください! 昼休憩の特別出し物として、ダンス部によるチアダンス、ならびに我が学院が誇る規律局による応援パフォーマンスが行われます! 彼ら彼女らの勇姿を、しかとその目に刻んでください!』
「おっ? なんだなんだ、始まったぞ」
「休憩時間でも、色んなパフォーマンス競技を行うんだね」
宇賀と真がグラウンドへ目を向けると、華やかな衣装に身を包んだダンス部の女子生徒たちが、軽快な音楽に合わせて一斉に踊り始めた。
ポンポンが太陽の光を反射してきらきらと輝いている。
「……なあ。あいつら、全然跳び跳ねたりしないのな。チアダンスのわりには」
パンを 2個目に突入した宇賀が、口の周りにマヨネーズをつけながら素朴な疑問を口にした。
「琥太郎、それは『チアリーディング』の方だよ。今やってる『チアダンス』は、ああやってダンスのキレや一糸乱れぬ美しさを競うタイプ。ほら、高校野球の応援とかで見たことない?」
「高校野球のか? ああ、確かにアルプススタンドとかでこういう風に踊ってる連中がいるな」
納得したように宇賀が頷く。ダンス部の華麗なステップに拍手が送られた後、音楽がガラリと変わり、太鼓の重低音がグラウンドに響き渡った。
「あ、今度は規律局のパフォーマンスみたいだよ」
その言葉を聞いた瞬間、宇賀の身体が目に見えてビクッと硬直した。
彼は周囲をキョロキョロと血走った目で見回しながら、声を潜めて真にすがりついてくる。
「……お、おい。さすがにあの『氷結の処刑人』は、あの中にはいねえよな……!?」
「安心しなさいって。獅子井先輩はもう引退してるんだから出てないわよ。……うん、やっぱり男装姿の女子局員が中心の、硬派でカッコいいタイプの応援ね。あたしとしては、むしろ獅子井先輩の学ラン姿とかも一度見てみたかったわ」
「やめろ! 恐ろしいことを言うな! 冗談でもあの女が学ラン着て太鼓叩いてみろ、グラウンドが物理的に凍りつくわ!」
「『ちょっとコタロー……あんた、いい加減に志那ちゃんを怖がるのどうかと思うわよ? トラウマになってるのは分かるけどさぁ』」
まどかが呆れたようにため息をつく。
そんな宇賀の過剰な怯えっぷりを肴にしながら、昼食時すら飽きさせない様々な催し物のおかげで、真たちはとても楽しい時間を過ごしていた。
昼休憩のグラウンドは、午前中までの「恐怖による熱狂」とはまた違った、どこか文化祭にも似た賑やかさに包まれていた。
チアダンス部の華やかな演技が終わり、規律局による硬派な応援パフォーマンスにも大きな拍手が送られる。
太鼓の重低音と統率された動きは、まるで一種の軍楽隊のようですらあり、観客席の生徒たちからも「おお……」と感嘆の声が漏れていた。
「でもさ、規律局って応援まであんなに統率取れてるんだね」
真が感心したように呟くと、宇賀はパンを咀嚼しながらうんざりした顔で肩を落とした。
「そりゃそうだろ……。あいつら、普段から規律だの秩序だの叫びながら集団行動を鍛えまくってんだからよ」
「体育会系の部活みたいだ」
「部活じゃねし、ありゃもう軍隊だろ……」
宇賀が遠い目をする。
その様子に兎束がケラケラと笑いながら、ストローで紙パックのジュースを吸った。
「でもまあ、見てる分には普通にカッコよかったじゃん。女子なのにあそこまで男装似合うのすごいよねー」
「……確かに、それはちょっと思ったかも」
真も素直に頷く。
演舞をしていた局員たちは、女子生徒中心とは思えないほど凛々しく、学ラン姿も堂に入っていた。
その完成度の高さは、普段から規律局が学院内で強い影響力を持っている理由を、改めて実感させるものだった。
「『ふふ。統率力っていうのは、良くも悪くも『人を惹きつける力』だからね。志那ちゃんがいまだに影響力あるのはその名残よ』」
まどかがどこか懐かしそうに目を細める。
真はその言葉を聞きながら、朝礼台の上で全校生徒を一喝した獅子井志那都の姿を思い返していた。
以前の彼女なら、“正しさ”を絶対として振りかざしていた。
だが今の彼女は違う。
自らの異名すら利用し、生徒たちの心理を理解した上で、最も効率的に場を動かしている。
それはある意味、以前よりも遥かに厄介で――そして、強い。
「……やっぱり、獅子井先輩ってすごい人なんだね」
真がぽつりと漏らすと、宇賀は即座に首を横に振った。
「違う。怖ぇ人だ」
「そこは否定しないんだ……」
「あたしも、ちょっと分かるかも」
兎束まで真顔で頷いたことで、真は思わず吹き出してしまった。
すると、そのタイミングを見計らったかのように、再びスピーカーから鶏島の張りのある声が校庭中へ響き渡る。
『さあ皆様! 楽しい昼休憩もそろそろ終了のお時間です! 次の種目はクラス対抗騎馬戦です。これから戦場へ向かう戦士たち、腹ごなしが済まぬ内の戦い。これは脇腹が死にますのでご注意ください!』
『そ、そんな注意喚起あるんですか!?』
『ありますとも! 体育祭とは、常に己の限界との戦いなのですから! ――というわけで午後の部、間もなく再開です! 各選手は速やかに持ち場へ移動してください!』
そのアナウンスを聞いた瞬間。
周囲でくつろいでいた生徒たちの空気が、一斉に「現実」に引き戻された。
特に競技参加者たちは、再び始まる“恐怖の駆動式体育祭”を思い出したのか、どこか覚悟を決めた兵士のような顔つきで立ち上がっていく。
「……行ってくる」
宇賀が重々しく立ち上がる。
その背中は、これから戦場へ赴く兵士そのものだった。
「大袈裟だなぁ」
「うるせぇ! 次の競技、騎馬戦なんだぞ!? あの殺気立った連中の中に放り込まれる俺の気持ちが分かるか!?」
「あー……それは、ちょっと大変そう」
「ちょっとどころじゃねえよ!」
宇賀は悲鳴混じりに叫ぶと、クラスメイトたちに呼ばれながら競技エリアの方へ駆けていった。
その後ろ姿を見送りながら、真は静かに笑みを浮かべる。
ここは識蘊の箱庭ではない。
だから命のやり取りでもない。
けれど――こうして誰かと笑い合い、騒がしく日常を過ごす時間は、確かにかけがえのないものなのだと、真は改めて実感し、噛み締めていた。




