No.65 新学期の兆し、あるいは箱庭の残像
No.65 新学期の兆し、あるいは箱庭の残像
真の負った大怪我は、まるまる夏季休暇のすべてを費やすことで、どうにか完治に至った。
高校生という若さゆえの驚異的な回復力なのか、あるいは真の肉体に宿る「別の何か」が影響しているのか。
幸いにも後遺症らしきものは全く残っていないと医者のお墨付きをもらい、真はようやく、本当の意味での穏やかな日常へと戻ることとなった。
そして、季節は巡り9月。
夏を跨ぎ、再び学園へと登校した真を教室で待ち受けていたのは――無惨な死体と化した宇賀の姿だった。
「……一応聞くけど。終わらなかったの?」
机に突っ伏してピクリとも動かない宇賀の背中に、真は苦笑しながら声をかける。
「……ムリだ。俺には、あんな狂った量の夏休みの課題を終わらせられるだけの『力』は残されていねえ……」
宇賀はガバッとゾンビのように勢いよく身体を起こすと、血走った目で真の両肩を掴んだ。
「まこと! 後生だ、お前の課題を見せてくれ! このままだと新学期早々、俺の命が狩られる!」
「……見せるのは構わないけど、もうホームルームまで時間がないよ?」
「それでも、白紙のまま出すよりは100倍マシだろうがっ!」
「『はあ……。まこと、そうやって簡単に甘やかすとコタローのためにならないわよ? 勉強は他人のためじゃなくて、自分のためにするものなんだから』」
真のすぐ隣で浮遊しながら、まどかが呆れたようにため息をつく。
しかし、必死すぎる宇賀の形相に気圧された真が鞄からノートを取り出すと、宇賀はそれをひったくるように受け取り、一心不乱にペンを走らせ始めた。
キーンコーンカーンコーンと、無情にも朝の授業を告げるチャイムが鳴り響くその瞬間まで、彼はただの「宿題を写す機械」と化していた。
「おはよう。今日から二学期、新学期の始まりだ。――さて、君たちに課せられた夏休みの課題は当然終わっているな? まさかとは思うが、宇賀のように他人の課題をまるまる書き写してきたなどという、愚かで破滅的な暴挙に出てきた奴はいないだろうな」
ガラガラと扉が開いて教室に入り、教壇に立った担任の九頭見からの第一声が、それだった。
「名指しッ!?」
宇賀の悲鳴のようなツッコミが教室に木霊する。
九頭見は眼鏡の奥の鋭い視線を、容赦なく宇賀へと向けた。
「当然だろう。毎度毎度、お前の普段の学力からは逆立ちしても導き出されるはずのない『模範解答』が書かれた用紙が提出されるんだぞ。疑う以前に、もはや確信しか持てん。まあ、それでも一応は課題をこなそうとした努力だけは認めてやるが……しかし、それはそれだ」
結局、宇賀には放課後に「課題の内容を本当に理解しているか確かめるための軽い小テスト」が課せられることになった。
教壇から九頭見が離れると、完全に轟沈した宇賀は「……俺は何のために、死ぬ気で文字を写してたんだかわからねえ……」と、机に額をぶつけてボヤいていた。
「さて、すでに知っている者もいるとは思うが、9月には体育祭、そして10月には学芸祭が立て続けに行われる。各自、実行委員を中心に準備を進めておくように」
「――先生、それらは一緒にはやらないんですか?」
九頭見の言葉に、真はごく自然な疑問として、そう言葉を挟んだ。
その瞬間、周囲のクラスメイトたちが一斉に奇妙なものを見る目で真を振り返り、隣の宇賀が信じられないといった顔で口を開く。
「いや、普通はバラバラにやるだろ。なんで一緒くたにやろうと思ったんだよ? まことの前の学校じゃ、体育祭と文化祭を混ぜて同時にやってたのか?」
「え? ああ、いや……ただ、なんとなくそう思っただけだよ」
まさか、あのヴィクセンが作り出した『識蘊の箱庭』という狂った精神世界の中で、体育祭と学芸祭を同時進行でやらされる羽目になっていたなどと、宇賀たちに説明できるはずもなかった。
二ヶ月間の隔離領域での生活のせいで、真の時間感覚と「学校の常識」は、ほんの少しだけ狂ってしまっているようだった。
「短い期間で行事が立て続けに行われることになる。くれぐれも、怪我などしないよう注意するように」
九頭見が全体に向けてそう告げた際、ほんの一瞬だけ、彼の視線が真のほうを向いた気がした。
本当に一瞬だったため、ただの気のせいだったかもしれないが。
「『まあ、表向きは原因不明の重体で長期入院してた生徒が目の前にいれば、担任としては嫌でも気にするでしょうね』」
浮遊しながら腕を組んだまどかが、もっともな指摘をする。
確かにその通りだ。
しかし、本当は「精神世界で骨を折られて吐血した傷がフィードバックされた」などと説明したところで、余計な混乱を生むだけだし、何より説明した真自身が「精神的に錯乱している」と思われかねない。
真はただ静かに、九頭見の視線から泳ぐように目を逸らすことしかできなかった。
休み時間になると、真は宇賀の方へと振り向き、先ほど九頭見が口にしていた二大行事――体育祭や学芸祭では具体的に何をするのかを尋ねてみた。
「あー……体育祭は個人、クラス、あとはクラブ単位で出られる種目がそれぞれ決まってんだよ。たぶんもう携帯端末から調べれば、何やるか一覧で見られんじゃねえ?」
宇賀の言葉に従い、真がポケットから端末を取り出して学園のポータルサイトにアクセスしてみると、確かにすでに体育祭の特設ページが開設されており、出場種目の登録申請の申し込みが始まっていた。
「『どれどれ? 個人は基本的にリレーとかね。変わったやつだと借り物競争かしら。クラス単位は綱引きに玉入れ、あとは団体で行える定番のやつね。……クラブ単位の、この【仮装リレー】っていうのはちょっと想像しにくいわね』」
真の背後からふわりと浮遊して端末の画面を覗き込み、まどかが記載されている文字を滑らかに読み上げていく。
種目のラインナップを見る限り、概ね普通の高校の体育祭と変わらない、平和な内容のようだ。画面をスクロールしながら、真は小さく安堵の息を漏らす。
「……鬼ごっこは、ないね。うん」
「は? なんで鬼ごっこ? まこと、お前そんなに鬼ごっこやりたかったのか?」
「ううん。ちょっと変わった種目もあるみたいだから、もしかしたら、と思って」
「確かに、うちの学院ってたまに変なことしだす時あるからな。ほれ、この【シークレット競争】なんて、もろに地雷な感じがするだろう」
真があえて突っ込まにでおこうとスルーした、一番下の妙な種目に宇賀が指を突きつけた。
「シークレットって……具体的には何をするの?」
「いや、俺も知らねぇ。でも、たしか去年は、透明な風船みたいな巨大なプラスチックのボールに上半身を丸ごと突っ込んで、そのままサッカーみたいなことさせられてたな」
「バブルサッカーだね」
「おうおう、それそれ! 参加した奴らがうまく体動かせなくて、ピッチの上をゴロゴロ転がりまくっててさ。見てる側としては大爆笑を巻き起こしてたのは覚えてるぜ」
「なるほど。今年のもの、実際に参加してみるまで何をするのか分からないってことなんだね」
「そう言うこったな。あ、ちなみに学芸祭の方もシステムとしては似てるぞ。個人で出し物やるやつもいれば、クラス単位で行うところもある。学芸祭の方は二日間開催だから、結構気合い入れて参加するやつも多いんだ」
「舞台とか、屋台とか、そういうもの?」
「そうそう。……うーん、俺は今年どうするかなぁ。去年はただの暇潰しで、適当にブラブラ見物してただけだからな」
腕を組んで悩む宇賀の横顔を見つめながら、真はふと思い出したように提案を口にしてみた。
「琥太郎のバンドの人たちと一緒に、音楽を行えないの?」
「あー……どうなんだろうな? うちのバンドメンバー、学外のやつらばっかだからな。部活ってわけでもねえし、うちの学院の学芸祭に外部の人間を参加させるのはアリかナシかで問われると……『ナシじゃねぇ』って言われそうでよう」
校則のグレーゾーンを突けそうだと気づいたのか、宇賀がニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「一度、学園側に確認してみれば良いんじゃないかな? 僕は――琥太郎のバンドライブを、また見てみたいから」
「マジか? うーん……よし、じゃあメンバーと相談してから、学校側にも確認取ってみるわ!」
「そうだね。楽しみにしているよ」
「おうよ! もし参加できたら、当日は会場を必ず最高にわかしてやんよ!」
宇賀は嬉しそうに自身の二の腕をバンと叩き、真に向けて力強く拳を突き上げた。
親友のやる気に満ちた姿に、真の心にも心地よい温かさが広がる。
「『ねえねえ、まこと。この学芸祭のページにある【特別審査員】って、一体誰かしら?』」
まどかが真の肩口からさらに身を乗り出すようにして端末を覗き込み、画面の隅にひっそりと記載されていた文字を指差した。
そこには、学芸祭のアピール部門において、当日は外部から特別な審査員を招く予定であると書かれている。
(特別審査員……)
真は、あのヴィクセンの識蘊の箱庭において、体育祭と学芸祭の場に傲然と君臨していた凰千鶴の姿を脳裏に思い浮かべていた。
あの虚構の世界に現れたということは、現実世界でも彼女が審査員として学院にやってくるのではないか――真はそんな予想を立てる。
「『ああ、あのおばあちゃんね。確か理事長代理だったかしら? ……まあ、本来の理事長であるあのおじいちゃんが、直々に来ることもあるかもしれないけれどね』」
まどかは、楽しそうにそんな予想を口にした。
いずれにせよ、まだ見ぬその人物がこの学園に何をもたらすのかは分からない。
ただ、9月に行われる体育祭に向けて、何気ない日常の裏側で、学院全体が静かに、しかし確実に動き出そうとしていた。




