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No.66 蓄積する傷痕、あるいは日常の説教




 No.66 蓄積する傷痕、あるいは日常の説教




 「まーちゃん!? トラックに跳ねられたって聞いたけど、トラックに跳ねられたって行ける世界は異世界じゃなくあの世よ!?」


 病室の重い扉が勢いよく開いたかと思えば、ベッドの上に横たわる真に向かって、開口一番にそんな言葉が降ってきた。


 息を荒くし、今にも泣き出しそうな、それでいて激しい怒りを孕んだ表情で真を見下ろしているのは、他でもない美弥だった。


 (……ああ。間違いなく、この人も本物の美弥さんだ)


 あまりにもいつも通りの、心配のベクトルが極端に振り切れた彼女の怒声を聞きながら、真は心底安心しきったような、どこか穏やかな表情を浮かべていた。


 あの不条理に満ちた偽りの箱庭から、ようやく「現実の日常」に帰ってきたのだと、その騒がしさが教えてくれる。


 アジテージ・ラビットの暴走による肉体の崩壊――断裂した筋肉と骨折、そして内臓へのダメージは、現実世界の真の身体にも「謎の重傷」としてしっかりフィードバックされていた。


 通り魔か、あるいは本当にトラックにでも撥ねられたような惨状だった。


 ヴィクセンとの死闘が終わり、あの識蘊(しきうん)箱庭(にわ)が崩壊するまでの、ほんの僅かな終わりの間。


 真は、世界から切り離されていく九尾ヶ坂麗と、最後に対話の時間を設けていた。


 無理矢理の契約を果たさせ、世界のルールを上書きしたのだ。現実に戻り、熱病のような一連の怪異から目覚めた彼女が、この箱庭での会話を覚えていることはきっとない。


 それでも真は、九尾ヶ坂麗という少女に、言葉を残さずにはいられなかった。


 アジテージ・ラビットの理不尽な暴力によって、張り付いた仮面を叩き割られ、ほんの少しだけ感情を揺らされた彼女。


 それは、静かな水面に落とされた一石の波紋が、次第に大きく広がっていくようなものだった。


 彼女の奥底に眠っていた本物の「感情」が、ついに堰を切ったように発露したのだ。


 真は、彼女から溢れ出た醜くも痛々しい本音を聞き、そして自身の言葉を述べた。


 それが、自分と同じ「空っぽ(伽藍堂)」の人間ゆえの同情からだったのか。


 それとも、他人に依存してしか生きられない彼女の姿を、自分自身への痛烈な戒めとするためだったのかは、真にもわからない。


 だが、仮面を失い、剥き出しの感情の塊となった彼女は――最後の瞬間、泣き叫びながら真を呪っていた。


 『どうして私を欲してくれないの!? 突っぱねるなら、最初から助けたりしないでよ……! 忘れない、絶対に忘れないんだから……っ!!』


 九尾ヶ坂麗にとって、それは「夢の記憶」として処理され、自分の足で立つための糧に昇華されたのかもしれない。


 けれど、彼女に真っ向から拒絶を突きつけた真の心の奥底には、彼女のあの血を吐くような呪詛が、消えない「小さな傷」として、今も確かに残り続けている。


 「『……気にする必要はないわよ、って言っても、今のまことには無理なんでしょうね』」


 思考の海に沈みかけていた真の脳内に、呆れたような、けれどどこか愛おしそうなまどかの声が響いた。


 真の影の中から、姉がそっと語りかけてくる。


 「『まこと。生きていればね、理不尽に嫌なことを言われることも、誰かから勝手に呪われることもあるわ。それをどうやって受け止めるか。あるいは、どうやって受け流すか。……そうやって痛みの交わし方を学んでいくことも、人間が生きていくには必要なことなのよ』」


 「……そうだね、姉さん」


 真はまどかの言葉を深く、胸の奥で噛み締めた。


 他者と関わるということは、傷をつけられるということだ。


 九尾ヶ坂麗がくれたその消えない傷痕すらも、自身の心の肥やしとして、これからの糧にするしかないのだと、真は静かに覚悟を決める。


 「ちょっとまーちゃん!! 人の話を聞きなさい! いったい何をしてそんな大怪我を負ったの!? ちゃんと説明しなさい!」


 しかし、そんな真の殊勝なセンチメンタリズムを、現実の美弥が許してくれるはずもなかった。


 心配のパラメーターが限界を突破し、ホワイトボードこそ掲げていないものの、完全にガチ説教モードに入った保護者。


 この場を丸く収め、美弥の追及をどうにかやり過ごす方法は無いものかと、真は隣で浮遊している「経験豊富なお姉さま」へと藁をも掴む思いでお尋ねした。


 「(姉さん、助けてくれ。美弥さんのこの状態、どうすれば……)」


 「『ん? ふふ、しっかり怒られときなさい。今回はどう考えても、無茶をしたまことが100%悪いんだから』」


 現状の行いを見物するまどかは、それはそれはとても良い笑顔の気配を漂わせながら、実の弟をあっさりと切り捨てるのだった。


 その日の午後。


 真が「原因不明の大怪我」を負って三鷹病院に入院したという報せは、瞬く間にクラス内へと広がっていた。


 放課後になると、何人かのクラスメイトたちが心配そうな顔をして見見舞いに足を運んできた。


 その中には、真に湖畔でのキャンプ話を恐る恐る持ちかけてきた男子生徒たち、そして――宇賀の姿もあった。


 『……あー……入って良いっすか?』


 病室の白い扉の向こうから、宇賀の少し遠慮がちで、どこか緊張したようなノックの音と声が響く。


 「琥太郎? どうぞ、入って」


 真が中から応じると、それまで静かにしていたまどかの声がひっくり返った。


 「『ええっ!? こ、琥太郎!? まこと、どうしたの急に!?』」


 真はまどかに対して、自分がカレイド・ヴィクセンが作り出した識蘊の箱庭で二ヶ月間もの時間を過ごしていた事実こそ伝えていたが、その長い幽閉期間の間に何が起きていたのか、その詳細まではまだ詳しく説明していなかった。


 それゆえ、昨日まで頑なに他人と距離を置き、苗字でしか人を呼ばなかった弟が、突然クラスメイトを下の名前で親しげに呼んだことに、まどかは驚きを隠せないようだった。


 「邪魔するぜ……」


 中からの許可を得て、宇賀がそっと扉を開ける。


 いつもは堂々としている彼が、心なしか縮こまったような恐縮した態度で入ってきた。


 その後に続くクラスメイトたちも、一様に神妙な、どこかお通夜のような暗い表情を引きずっている。


 「わざわざ来てくれたんだね。みんな、ありがとう」


 ベッドの上に上半身を起こした真が、包帯まみれの姿で微笑む。


 「お、おう……その、なんだ。思ったよりは元気、そうだな。安心したぜ」


 「あはは、身体中が痛いっていうのはあるけどね。命に別状はないよ」


 宇賀が気まずそうに頭を掻く中、彼の後ろに隠れるようにして立っていた、あのキャンプ話を切り出したクラスメイトが、突然、深く頭を下げた。


 「あ、あの……繭住くん……本当に、ごめん!」


 「え? ええっと……何がだい?」


 突然の謝罪に、真は何のことか分からず、目をぱちくりとさせて戸惑う。


 「僕らが、君の過去のことも知らないで、あんな余計な提案をしちゃったばかりに……君に、その、昔の辛いことを思い出させて、追い詰めちゃって……!」


 彼らにしてみれば、真が「湖畔」という単語に過剰に反応して体調を崩し、その直後にこんな大怪我を負ったのだ。


 自分たちの不用意な言葉が、真を精神的に追い詰め、この事故を引き起こしたのではないかと、激しい罪悪感に苛まれていたのだろう。


 「ああ。その事か」


 合点がいったように呟く真。


 そのあまりにも淡々とした反応に、宇賀が焦ったように口を挟む。


 「その事ってお前……! 冗談じゃねえぞ、お前が倒れたって聞いて、コイツらマジで責任感じて泣きそうになってたんだからな!?」


 「うん、分かっているよ。……確かに、辛い記憶がない訳じゃない。でも、みんなに悪気があった訳じゃないし、僕をのけ者にしようとした訳でもない。だから、そんなに気にしないで、今まで通りに接してもらえるとありがたいかな」


 真がどれだけ穏やかに諭しても、クラスメイトたちの顔にはまだ、容易には拭いきれない気まずさと、腫れ物に触るかのような遠慮が残っていた。


 このままでは、彼らとの間に見えない壁ができてしまう。


 そう判断した真は、少しだけ茶目っ気のある笑みを浮かべて、言葉を繋いだ。


 「さすがに、今のこの身体じゃ湖畔でのキャンプはまだ無理だと思う。……だけど、山とか海とかだったら、怪我が治れば一緒に付き合えるよ。だから、その時はまた、僕のことも誘ってほしいな」


 「……い、いいの?ホントに……?」


 クラスメイトが、信じられないというように顔を上げる。


 真は、包帯の隙間から、優しく、けれど確固たる意志の宿った瞳で彼らを見つめ返した。


 「うん。――だって僕らは、友達、でしょう?」


 その一言は、かつて空っぽ(伽藍堂)だった少年が、二ヶ月間で学んだ、自らの意志で手繰り寄せた、現実世界との小さくも確かな結び目のひとつだった。


 その後、真とクラスメイトたちの間にあった目に見えないわだかまりは、目に見えて軟化していった。


 「怪我が治ったら、絶対にまた声をかけるからな!」

「今度は山か海で、最高の計画を立てておくよ!」


 最後には彼らの方から弾んだ声で次の約束を願い出るほど、病室の空気はすっかり打ち解けたものになっていた。


 そんな風に、穏やかで軽い談笑を続けていた、その時だった。


 『ここですか!? ちょっと、まことくん大丈夫っ!?』


 コンコン、という形式ばかりのノックと同時に、相手の返事も確認せずに勢いよく扉を開けて乱入してくる人物がいた。


 「誰だ? って……なんだ、兎束かよ」


 「あれ? 宇賀? それにあんた達も来てたの?」


 入ってきたのは、今朝リハビリのためにこの三鷹病院へと再入院を果たしたばかりの少女、兎束雛だった。


 真の時間感覚からすれば、彼女と顔を合わせるのはあの識蘊の箱庭での二ヶ月間を挟んだ「久しぶり」の感覚だったが、現実世界の時間ではつい先ほどの出来事である。


 「来てたら悪いかよ。……ってか、お前の後ろにいる人、誰? 兎束のかーちゃん?」


 ドタバタと入ってきた兎束の後ろから、お茶のセットを盆に載せてトコトコとついてきた女性――美弥の姿を見て、宇賀が何気なく尋ねた。


 「『あっ!?』」


 病室の隅で浮遊していたまどかが、「手遅れ」を察知した悲鳴をあげる。


 異変に気づいた兎束が、慌てて宇賀の脇腹をエルボーで小突いた。


 「ばかッ! アンタ何言ってんのよ! まことくんのご家族の方よ!」


 「あ、そうなんスッか。悪い悪い。……えーっと、俺、宇賀琥太郎って言います。まことのダチっす。よろしくっす、まことのお袋さん!」


 宇賀は持ち前の体育会系のノリで、これ以上ないほど元気に、ハキハキと最悪の地雷を踏み抜いた。


 お袋さん、という単語が病室に響いた瞬間、美弥の周囲の空気が、あの局長をしていた頃の氷結の処刑人と呼ばれていた、獅子井志那都のよりも冷たく凍りついたのを真は見逃さなかった。


「どうも初めまして。まことの『姉』の美弥です。いつも、まことがお世話になっております」


 ピキ、と青筋の浮かぶ音が聞こえそうな満面の笑みで、美弥が自己紹介を返す。


 「姉!? いや、どう見ても三十は越えたオバ――」


 「おほほほほ! ちょーっと、この元気な男の子をお借りしていきますわね?」「えっ!? ち、ちょっと!? なんすか!? 俺なんかしたっすか!?」


 宇賀が「オバサン」と言い切るよりも早く、美弥のガッチリとしたアイアンクローが宇賀の額を捕えた。


 そのまま、凄まじい怪力でズルズルと廊下へ引きずられていく宇賀。


 「『バカねコタロー。よりによって自称十七歳の美弥ちゃんを怒らせるなんて、命知らずにも程があるわ』」


 浮遊しながらやれやれと首を振るまどか。


 真は、遠ざかっていく宇賀の悲鳴を聞きながら、小声で静かに突っ込んでいた。


 「(……いや。普通の感性をしていれば、美弥さんを僕の母親だと勘違いするのは至極当然だと思うよ、姉さん)」


 それから数分後。


 美弥に伴われて再び病室に戻ってきた宇賀は、どこか魂の抜けたような、虚ろな目をした「洗脳された人間」と化していた。


 「……あなたはおキレイで……うつくしい……ジュウナナさい、のオネエサマです……」


 壊れたおもちゃのように、片言で同じ言葉をぶつぶつと繰り返す宇賀マシーンの姿に、クラスメイトたちは恐怖で震え上がり、真はただ静かに、引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。












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