「二回言うな!」
「だん…旦那!?」
帰ってきて、夕飯を摂った後である。今日のビーフシチューも絶品だった。食後の緑茶をすすりながら大学での出来事を報告すると、面白いほどに李玖が反応した。
腰を浮かしかけて、テーブルにぶつかっている。緑茶が揺れたがこぼれることはなかった。祖父はのんびりと湯呑を口に運び、沙羅はやはり興味が無さそうにクッションの上で丸くなっている。
「うん。それでさ、やっぱりあたしも飛び道具を使えた方がいいと思うのよね。今日だって、李玖みたいに分銅鎖とか使えたら、あいつを捕まえられたかもしれないじゃない? だからね、教えて欲しいと思って」
「旦那ってなに!」
「あとは、なんて言うんだっけ。ホーロー鍋みたいな語感の」
「焙烙玉だよ、雫」
「そうそれ。さすがじいちゃん。その焙烙玉が欲しいの。なにも火薬じゃなくてさ、薬を仕込むタイプがあるでしょ? あんなのがあれば便利だと思うのよね」
焙烙玉とは、忍者の道具の一つ。言うなれば小さな手榴弾だ。
しかし、李玖は雫の言葉を聞いていない。
「旦那ってなに!!」
「肉弾戦はそこそこいけるつもりだけど、相手を屈服させるためにあらゆる手段を使いたくて」
「雫、旦那ってなに!」
「うるさい。聞け!」
「雫こそ聞いてよ!」
「旦那ってのは女にとっての結婚相手のことよ、解ってるでしょ!?」
「それは解ってるけどそういうことじゃなくて!」
「心配しなくてもあたしは結婚しないから! いいから飛び道具の使い方教えてよ」
「雫が飛び道具の使い方なんてマスターしたら、それこそ嫁の貰い手なくなるよ」
「なんだと?」
「だから、雫が飛び道具の使い方なんてマスターしたら」
「二回言うな!」
「だって聞き直すから!」
「そういう意味じゃない! ふんだ、別にいいわよ、嫁になんかいくつもり無いし」
「それはそれで、じいちゃんは心配だなぁ」
のんびりと聞こえてきた声に、雫はぴくりと反応した。
「…あたしが嫁にいかないと、じいちゃん心配するの?」
そっと祖父の方を見る。祖父は緑茶をすすってからうなずいた。
「心配だなぁ」
う、と雫が弱い声を出す。
「あの…。うん、わかった。嫁には行くよ。いつか」
雫の祖父は、雫にとって唯一の泣き所だ。その祖父に心配だと言われれば、雫はおとなしく返事をするしかない。
「まあ、雫の良いようにすればいいけれどね」
「うん…」
「え、行くの? 嫁に?」
口を出してきた李玖もまた心配そうだ。しかし彼の心配は祖父とは別のところにあることを、雫は知らない。じろりと睨み付けた。
「なによ、悪い?」
「ええと、ちなみにそれは誰の…」
「まだ見ぬ誰かに決まってるでしょ。大体そんなこと、李玖には関係な…」
うるんだ子犬のような瞳が、そこにある。
「か、関係…」
うるんだ子犬のような瞳で、じっと見つめられている。
「関係ない、ことも、ないかも、しれないけれどもそれはともかく!」
自分の前に置いてある湯呑をがっと掴んで残っていたお茶を一気飲みする。
「今はあたしが嫁に行くとか行かないとかそんなことはどうでもいいのよ。いいから飛び道具の使い方教えて。なんなら今から」
「でも今日はもう暗いよ。危ないからまた今度ね」
「今度じゃやだ。明日から」
「明日は学校の後で本屋でしょ。で、本屋から帰ってきたらもう暗い」
「そうか…。うーん。じゃあ、明日の朝。学校に行く前に」
「いつもギリギリまで寝てるのに?」
「…起こしてよ」
「はいはい。じゃあ、明日の朝五時ね」
「五っ!? それはあたしにとって早朝ではなく夜中なんだけど」
「でもおれ、朝ご飯の準備とか店の開店準備とかあるから、それ以上遅いと雫が遅刻するよ」
うーとうなった雫だったが、やがてうなずいた。
「わ、わかった。…起こしてね」
「はいはい」
翌朝五時。李玖が二百回くらい声を掛けても、雫はくぅくぅと眠ったままだった。
「言い訳はしないわ。あたしはそんなみっともないことしない」
「うん」
「起きられなくてごめんなさい」
「うん。いいよ」
「ただね、一つだけ言ってもいい?」
「はい、どうぞ」
「なにこれ」
「イメトレ」
朝食中である。白米と味噌汁と鮭の塩焼きと小松菜のお浸しが食卓に並んでいる。祖父はいつものように新聞を広げながらゆっくりと食べている。李玖もいつものように食べている。沙羅はクッションで丸くなっている。ただ、雫は同じ食卓にはいない。食卓として使っているテーブルから一メートルほど離れたところに座布団を置いて座っているのだ。そしてその手には、箸がある。箸の長さ、約一メートル。
「無理でしょ、これ!」
「大丈夫。雫なら出来るよ」
「大体これどこから出したのよ?」
「おれが修行してたころに使ってたものだよ。あ、大丈夫。ちゃんときれいに洗ってあるから」
「そこは心配してないけどさ」
たかが箸とはいえ、長ければ重い。すでに右腕が攣りそうだ。ぷるぷると震えて、まったく思い通りに操れない。
「がんばって。大切なのは食べたいという心意気だよ」
「…分銅鎖扱うのに、食べたいって気持ち要る?」
「そう言われると困るなぁ」
「つまり要らないんじゃないのよ」
「でも今に限っては食べたいと思わないと食べられないよ。それに、早く食べないと遅刻するし」
「うー…」
「大丈夫。最初の一口が掴めればこっちのものだよ」
「掴んだ後はどうしたらいいの? 口に入れるのは無理だと思うんだけど」
「じゃあちょっとお手本見せようか」
言って、李玖は席を立って雫から箸を受け取った。
「まず、こう」
すっと、普通の箸を持つように構える。箸の下の方はぶらんとしている。
「で、こう」
次の瞬間、どこに力を入れたのか箸がまるで意思を持っているかのようにテーブルの上の鮭を掴んだ。
「最後に、こう」
鮭を掴んだまま、一瞬だけ両手を使って箸を持つ場所を変えた。これで、箸の頭の方がぶらんとした状態になり、口元に鮭を持っていける。
李玖はぱくりと鮭を食べた。
「こんな感じ。解った?」
「解った…。あんたがすごいということが」
「えへ」
「ちなみに、李玖はこれどのくらいで出来るようになったの?」
「えーと。最初は一時間くらいかかったかなぁ」
「一時間…」
一時間で、出来るようになったのか。見ようによっては大道芸だが、李玖が操る箸は、雫とは違うものに見えた。安定しているどころではない。まるで体の一部のようだった。
「もやしのくせに」
「体格は関係ないでしょ。はい、がんばって」
ふわりと笑って箸を返されたので、雫はおとなしくそれを握った。李玖がやっていたように持ってみる。だが、持つだけで箸が揺れる。まったく安定しない。力の入れ方も分からない。力を入れれば入れるほど、安定から遠ざかる。
「うー!」
「力みすぎだよ。もっと自然体で」
「ううー!」
結局、腕が攣るまでがんばってみても、雫は鮭に触ることすら出来なかった。本当に遅刻しそうになったので、今朝の練習はここまでとなる。ローテーブルに座って、雫も食事を口に運んだ。味噌汁は李玖が温め直してくれた。美味しい。
「まあ、最初はそんなものだよ。ドンマイ」
「一時間で出来るようになった奴に言われても嫌味でしかない」
「向き不向きはあるよ。雫は、体術を会得するのは早かったじゃない」
「そりゃまあ、相手を直接ぼこぼこに出来るからね」
「おれはそれが苦手だったよ。避けるだけならいいけど、自分から攻撃するのはちょっとね」
「……一昨日、あのスーツ二人をぼこぼこにしたのはあんたよね?」
「あのくらいじゃぼこぼことは言わないよ。ちょっと叩いたくらいで」
「あのね。ちょっと叩いたくらいで大の男を二人も気絶させられるわけがないでしょうが」
「そう?」
「そう!」
まったくもう、と言いながら雫は鮭を口に運ぶ。塩加減といい焼き加減といい、文句のつけようが無い。
「美味しいなぁ…」
「ありがとう」
つぶやくと、李玖が嬉しそうに笑った。
「…未来の旦那、か」
「うん?」
「んー? あたしがまだ見ぬ誰かと結婚したら、あんたのご飯が食べられなくなるのね、と思って」
「え」
「忠人のいう相手と結婚する気は毛ほども無いけど、いつかは結婚しないとじいちゃんが心配するって言うし。そうしたら、さすがにここは出て行かなきゃいけないでしょ。いつまでもじいちゃんのお世話にはなれないし」
「う…ん」
「あ、でもその時は、あたしが家政夫として李玖を雇えばいいか。……って、ちょっと?」
「うん?」
「なに泣いてんのよ」
見れば、李玖がうるうると目に涙を浮かべている。
「だって、雫が嫁に行くことを考えたら…」
「それでなんで泣くの」
「なんかこう、感慨深くて…。やんちゃでお転婆で喧嘩っ早くて横暴で乱暴で意地っ張りで我儘で自分勝手で手を付けられなかった雫がお嫁さんとか、相手の苦労を考えると…」
「悪かったな」
雫がべしんと李玖の肩を叩いた。
そんな二人を、雫の祖父はそっと見つめていた。
「でも家政夫として雇ってくれるならうれしいな。おれは一生、雫の為にご飯を作り続けるよ」
「そう? ありがと」
ふんわりと笑い合う二人。祖父は言いたかった。「お前それはプロポーズじゃないのか」と。
しかし祖父は言わなかった。
言ったら二人がぎくしゃくしそうだから――ではなく、単に黙っていた方が面白いからである。
ちなみに沙羅も言いたかった。「お前らもう結婚してしまえ」と。
しかし沙羅も言わなかった。こちらは単に、口を開くのが面倒くさかったからである。




