「証拠は?」
「情報…。情報ね」
大学で講義中である。
講義室の隅に一人で座って、雫は考えていた。
本郷忠人は、雫の父親だ。生物学上は。
何年も前に、雫としては縁を切ったつもりだった。いや、つもりだったというより、縁を切るとはっきり言われた。それを今更、なんだと言うのか。
なんであれ知ったことではないが、昨日のように雫にちょっかいを出してくるのは迷惑だ。身にかかる火の粉は払ったうえで原因は根絶させる主義の雫である。追い払うだけで済むなら済まそうという気は毛頭ない。
忠人は現在、全国展開する高級ホテルのオーナーをしている。忠人が一人で興したものではなく、元々傾きかけていた他所のホテルを買い取ったものだ。その買い取るための資金は、詞術によって依頼人から得たもの。詞術の存在を知っているのは極限られた一部の人間だが、彼らには資産家が多いのだ。昨日の橋川も言っていた通り、政財界に身を置く者もいる。
そして、彼らに詞術を使ったのが雫の母親だ。
入り婿だった忠人は、本人曰く詞師を有意義に使って商売をした。母親はそれに逆らわず、結果、母親は自分に関係のある人物からどんどん忘れられていった。自分が覚えていることを大切な相手に忘れられること。それがどれほどの痛みか、今の雫は知っている。
母親が気を病んだのは、無理もなかったのかもしれない。
忠人は、雫の母親をそれは大切に扱っていた。欲しいものはなんでも与え、甘い言葉を囁き、考え得る限りの贅を尽くした。雫のことでさえ、当時は大切に扱っていた。
円満家庭に見えていた、と思う。
ある日、母親が自殺未遂をするまでは。
「………」
今でも時々、夢に見る。
血だまりの中に倒れる母親。誰かの怒声、叫喚、引き離される雫。
そうして――。
「雫」
「え」
べしりと、顔を尻尾で叩かれた。見れば、沙羅が机の上から雫を見上げている。
「…なにすんのよ」
「お前こそなにをしている。授業は終わった。立て」
言われて周囲を見渡せば、確かに授業は終わっていた。椅子に座っていた聴講生たちも、もうほとんどが席を立っている。
「分かったわよ」
答えて、雫も席を立つ。沙羅が肩の上にするりと乗ってきた。沙羅には絶対に言ってやらないが、ふさりとした毛並みが心地いい。
講義室を出て、昼食を摂るため中庭へ。学校の建物から出たとたん、沙羅の身体に緊張が走る。同時に雫も気が付いた。
見られている。
「……忠人の手の者でしょうね」
「たぶんな」
「用事があるなら堂々と来いってのよ」
「堂々と行った結果が昨日のあの男だろう」
「あたしに喧嘩を売る方が悪い」
「お前のその気の強さは嫌いじゃない」
「そりゃどうも。あんたに好かれなくてもどうでもいいけど」
小声で言い合いながら、雫は足を止めない。中庭へ向かう。今日はとても晴れているので、中庭のベンチで李玖お手製の弁当を食べるのだ。そう決めているので、忠人ごときに邪魔はさせない。
お気に入りのベンチに座って、バッグの中から弁当を出す。李玖の弁当はいつも、冷めても美味しい。
手を合わせてから食べようとしていたら、雫のほうに近づいてくる足音がした。その数、一人。数で押してくるかと思っていたので、少々意外だった。
「本郷雫さまですね」
想像していたよりも中性的な声で、その人物は話しかけてきた。昨日の、橋川のどすのきいた声に比べれば女性のようにも聞こえる。
「いただきます」
「雫さま」
「うん、美味しい。さすが李玖。――なんか用?」
「昨日は、うちの者が大変な失礼をいたしました。つきましては、お詫びの印として当ホテルのディナーにご招待させていただきます。日時は三日後の十八時。ドレスコードがございますので、どうぞご準備を」
「だし巻き卵の作り方、習おうかなぁ。――ちょっと黙ってくれる? せっかくのお弁当の味が悪くなるから」
「当日のディナーでは、雫さまにお引き合わせしたい方もいらっしゃいます。あなたの未来の旦那さまです」
「唐揚げも美味しい。――寝言は寝て言えって伝えておいて」
「雫さま」
「うるさい」
食べかけの弁当を脇に置いて、雫は立ち上がった。沙羅は雫の肩から降りてベンチに着地する。彼の姿は常人には見えないが、威嚇だけはしている。
雫はじろりとその人物を見た。スーツをきっちり着込んだその人物は、昨日の男たちよりはだいぶ華奢に見える。年齢は雫に近いかもしれない。遠くから見たら女にも見えるだろう。だが、立ち振る舞いが只者ではないことを告げていた。
「ふぅん。昨日の奴らよりは使えそうね」
「恐れ入ります」
「今日は一人か。力ずくでも連れて来いとは言われてないわけ?」
「そもそも昨日の連中は、忠人さまのご指示を聞かず、功を焦った者たち。こちらとしては、最初から力に訴える気はありませんでした」
「ふん。それだけの威圧感出しておいてなに言ってるのよ。笑わせないで。それとも、この世知辛い世の中に笑いを提供しに来たのかしら。未来の旦那とか、冗談にしても笑えないけど」
「私の仕事は、三日後のご招待を告げるだけです」
「それ以上のことをやる能力無さそうだもんね」
「そうだとしても、雫さまにご迷惑はお掛けしません」
相手は、雫の挑発には一切乗ろうとしない。面白くないと思いながらも、雫は続ける。情報が取れるなら取っておかなければならない。
「今ここにいられるだけで迷惑なんだけど。知ってる? 迷惑ってのはね、掛ける方ではなく掛けられる方が決めるのよ」
「それについては返す言葉もありません」
感情が見えない。雫は心の中で舌打ちした。そんな雫を、沙羅がベンチに座ったまま見上げている。
「大体、ご招待を告げるだけってどうなのよ。どうしてあたしが行くと思えるの?」
「それは我々の知るところではありません」
「じゃああたしが行かなくてもあなたの知ったことじゃないわね」
「その通りです。しかし、あなたは来るであろうと忠人さまはお思いです。理由は判りませんが」
「ああ、知らされてないんだ。で、未来の旦那ってなに?」
「言葉の通りでございます」
「それが誰かも聞かされてないわけ? あたしの旦那ってことはあなたの主になるかもしれないのに。なんにも聞かされてないとか、割と本気でかわいそうね」
「そこは気を遣っていただくところではありません」
「あたしもあなたも忠人のモノじゃないわ。前から不思議だったんだけど、どうしてあなたたちは忠人に従うの? そんな魅力はあの男には無いでしょう。そんなに給料が良いの?」
「私に限って言うなら、違います。私には私なりの考えがあって行動しています。が、それも雫さまには関係ありません」
「は、馬鹿じゃないの?」
間髪入れずにそう返す。
「あなたなりの考えね。それはいいわ。で、その考えにあたしは関係ないことは解っているのに、あたしにディナーへの参加を強制する、と。自分の考えの為にあたしを犠牲にするのよね。ってことは、あたしの為に自分を犠牲にする覚悟もあるのよね? それがフェアってことだもの」
詭弁に近かったが、相手は黙った。雫は畳みかける。
「情報をちょうだい。あなたが知っていること、なんでもいいわ。昨日の奴は忠人の状況が変わったって言っていたけど、その状況ってなに?」
「それについては情報を提供する許可をもらっておりません」
「命令されたことしか出来ないわけ? ガキの使い以下ね」
「三日後のディナーの時に忠人さまよりお話があります」
「未来の旦那とやらを含めてってことね。もう一度聞くけど、旦那ってなに?」
「それもディナーの時に」
「あっそ。で、あなたの願いは?」
「…は」
「あなたの願いよ。どうせあたしを連れて来ることが出来たら詞術で願いを叶えてやるとか言われてんでしょ。今、ここで聞かせなさいよ。場合によっては取引してやるわ」
「それは言えません」
「願いがあること自体を否定はしないわけね。聞いているでしょうけど、あたしがあたしの意思で術を使わないと、あなたの願いは一生叶わないわよ」
「あなたは何故詞師を続けているのですか」
「あたしに聞きたいならまず自分が答えなさい」
「ごもっともです。忘れてください。…しかし」
一瞬だけ、その人物は雫から目を逸らした。沙羅を見た、ような気がした。見えるはずがないのだが。すぐに視線を雫に戻したので、気のせいだったのかもしれない。
「そもそも自分の願い事というのは、自分で叶えるべきものかと」
「そうね。その通りだわ。……けれど今ここで、あなたの願いは叶わないとあたしが唱えたらどうなるかしらね?」
「……」
「あら、その反応を見ると昨日の奴よりは知ってるみたいね。詞術について」
「一通りは」
雫は、ほんの少しだけ立ち位置を変えた。すぐに戦闘態勢に入れるように。
「なんでもいいから願ってみなさいよ。今日の夕飯のメニューでもいいわ。……一生叶わないようにしてあげるから」
「それは困ります」
「ならあなたの持つすべての情報を提供することね。改めて言うことでもないけれど、あたしに一瞬でも触れられたらアウトよ」
不敵に笑ってみせる。が、ハッタリである。本当は一瞬では術は掛けられない。相手のどこでもいいから触れたまま、真言を唱え終わらなければ術は掛からない。ただ、昨日も言った通りハッタリは有効手段だ。沙羅のため息が聞こえたような気がしたが、雫は堂々としたものだ。
相手は数秒の間目を伏せて考えたようだが、やがて首を振った。
「私は、雫さまが優位になるような情報は与えられておりません。従って、戦ってもお互いに無駄です」
「証拠は?」
「忠人さまが、私に情報を与えるとお思いでしょうか。あの方は雫さまの性格や武道の腕を熟知しておられます。下手をすれば私も橋川のように捕まるでしょう。捕まって情報を取られるくらいなら、最初から情報など与えなければいいのです」
「なるほど。道理ね」
しかしそれでも、雫は構えを解かなかった。
「忠人から情報はもらっていない。いいわ。信じましょう。けれどあなた、なにか知っているんでしょう? 自分で調べたのかたまたま知るところになったのかは判らないけれど」
「何故、そうお思いになるのでしょうか」
「だってあなた、情報を提供する許可をもらっていないとか忠人から話があるとか言うだけで、「知らない」とは言わないもの。もしかして、嘘をつかないことを信条にでもしてるんじゃないの?」
初めて、相手の顔がぴくりと反応した。
「あら、図星? つまり、「嘘をつかずに済むこと」があなたの願いなわけね?」
願いさえ分かれば雫が優位だ。
じゃり、と音を立てて雫は相手に改めて向き直った。
「雫さまでは私には勝てないと思われます」
「喧嘩で勝とうなんで思ってないわ。言ったでしょ。一瞬でも触れればいいのよ」
「では逃げます」
「は?」
相手は、雫が反応するよりも前に大きく飛び退った。完璧に雫の間合いからは外れている。李玖のように飛び道具が使えれば別かもしれないが、あいにく雫には李玖ほどの腕が無い。
「三日後の十八時。確かに伝えました。――では」
「ちょっ」
くるりと雫に背を向けて、その人物はすたすたと歩き始めた。雫が本気で走れば追いつくかもしれないが、大学構内で目立つ行動はしたくない。
「ちっ!」
今度は大きく舌打ちをして、雫はベンチを思い切り足蹴にした。ひょいと沙羅が避ける。
「結局なんにも分からなかった…」
悔しくて吐き捨てるように言うと、沙羅がぼそりと反応した。
「そうでもない」
「え?」
沙羅は、再びベンチに飛び乗った。
「ちょっと、どういう意味?」
「あの人間、おそらく本郷の関係者だ」
「関係者って、忠人の部下ってだけじゃなくて?」
「違う。本郷の血筋の匂いがした。一瞬だが、目を伏せた瞬間に俺と目も合った」
「え…」
やはり、沙羅が見えているということか。それはつまり。
「分家の人間ってこと?」
「呼び方は知らん」
「なんで分家が忠人の部下なんてやってるのよ」
「それこそ知らん」
「そもそも、分家はもう…」
滅んでいるはずだ。十数年も前に。
雫に疑問符だけを残して、その場に初秋の穏やかな風が吹き抜けた。




