「髪は乾かしなさい」
「解放して本当に良かったの?」
「あんなの捕まえておいたってなんの役にも立たないでしょ。飲まず食わずにさせるわけにもいかないし、ただ邪魔なだけよ」
「そっか。確かに」
夜である。
今日は本屋の仕事も休みの雫は、李玖とともに夕飯の準備中だ。ちなみに今日はハンバーグ。喫茶店はすでに閉店していて、片付けも終わっている。祖父は店の方で帳簿を付けていて、沙羅は食卓として使っているローテーブルに置いてあるクッションの上で丸くなっている。
「こうやって普通に作れば普通に美味しいのに…」
ぽそりと言わずにはいられない。李玖は、本当は家事の腕は完璧なのだ。掃除、洗濯、炊飯、どれをとってもその辺の主婦に引けは取らない。喫茶スペースはもちろん住居スペースにも、雫の部屋を除いて埃一つ落ちていないし、白いシャツは眩しいほどに白さを保ち、食事を作らせればそこまでするのかと雫が言いたくなるほど手作りをする。毎日家事をどう片付けていくか頭の中で整理し、実行し、雫の健康的で文化的な生活は李玖のおかげで保たれていると言っても過言ではない。
ただ。
「たまにやらかすミスがでかいのよね」
「あれはミスじゃなくて冒険だよ。冒険に出かけてちょっと失敗…あ、ミスか」
「別に、もういいけどね」
今、考えるべきなのは麻婆塩サバのことではない。
「状況が変わった、か…」
「どういうことだろうね。橋川さんもなにも知らなかったし」
「橋川って誰?」
「え」
「冗談よ」
「真顔の冗談は分かりにくいよ…」
「ドンマイ」
あの後。
完全に戦意を損失した橋川を、雫は投げ捨てるように店の外に出した。術は使わなかった。二度と本郷家に関わらないことを条件にし、詞師のことを他言したら本当に術を使うと散々脅しをかけたうえで。
「でもさ、雫」
「うん?」
「詞術って一対一でしか使えないよね。橋川さんの一族郎党末代までって…」
「ハッタリに決まってるでしょ、あんなもん」
「ああ、やっぱり…。でもそれ、バレたら」
「バレなきゃいいのよ。喧嘩は精神的に優位に立った方が勝つんだから、少々のハッタリは有効手段。そもそもあたしに喧嘩を売る方が悪い。全面的に悪い」
「まあ、それはそうかもね。でもそれはさておき、忠人さんの状況が変わって雫の力を必要としているなら、また来るんじゃないかな」
「来るでしょうね。橋川なんかよりよほど面倒なのが」
「…どうする?」
「どうってなにが」
「忠人さんのところに帰らないのは解ってるんだけど、向こうの状況を知らないとただのいたちごっこになるんじゃないかなって」
「確かにそうね。悩むところだわ。ただ逃げ続けるなんて性に合わないし」
「いっそ出向く?」
「それも一つの手段ではあると思う。逃げ回っているはずの相手がカチコミに来れば意表を突けると思うし。ただ、先に情報が必要になるわね」
「そうだね。情報は欲しいよね。あ、言っておくけど、雫が出向くならおれも一緒だから。心に留めておいてね」
「留めてはおくけど一緒に行くとは約束できないな」
「駄目。一緒に行く。これだけは譲らないよ」
「譲ってよ。あんたはじいちゃん護っていてくれたらいいから」
「ごめん。譲れない」
「譲って。頼むから」
「いくら雫の頼みでも、それだけは聞けない」
「じゃあ分身の術使って両方護って」
「あれは残像だから実体はないよ。知ってるでしょ」
「知ってるけどそこをなんとか」
「雫を護ることがおれの役目なんだよ。解ってほしいな」
「あたしは自分の身は自分で護れるから、じいちゃんを護ってほしい。解れ」
「ごめん、無理」
「……あっそ。あんたが言うこと聞いてくれないならあたしも聞かない」
「というと…」
「シャンプーした後の髪は濡れたまま寝てやる。食べ終わったお茶碗は水に漬けてやらないし、夜中に爪切ることにする。口笛だって吹く」
「小学生か」
小さな声で沙羅が言ったが、その声は雫には届かない。ぷいと顔を背けた雫に、李玖がおたおたし始める。
「あ、いや、それは…。あれ? 雫、口笛吹けたっけ?」
「吹けないけど吹いてみせる。李玖を困らせる為だけに」
「え、おれの為に練習を…?」
「李玖。問題はそこではないよ。雫も、子どもみたいなことを言うのはやめなさい」
何故だかちょっと顔を輝かせた李玖の後ろから、祖父が顔を出した。
「髪は乾かしなさい。雫が風邪を引いたら大変だからね」
「はい、じいちゃん」
「態度違いすぎじゃないかな」
「いいのよ。だってじいちゃんだもの」
「そっか。じいちゃんだからか。敵わないなぁ」
「年の功だよ、李玖」
「で、じいちゃん。どうしたの? 店の方の仕事は終わったの?」
「ああ、そうそう」
思い出したように、祖父はぽんと手を叩いた。
「テレビが映らなくてね。ニュースを見ながらやろうと思ったんだが…」
「あれ、そうなの。じゃあちょっと見にいこうか」
「おれも行くよ。雫じゃ手が届かないし、あとはもう焼くだけだから」
「いや、あんたはいいわよ。ハンバーグ焼いててくれれば」
「大丈夫だって。任せてよ。この家の管理は機械も含めておれの仕事だから。俺も学習したし」
自信満々にそう言った李玖だったが。それを一瞬でも信じた雫にも非はあるのだが。
数分後、雫の怒声が響き渡った。
「テレビを苦無で叩くな――――――!!」
*
千年ほど前。詞師には、一人に一人以上、護衛の者がいた。詞師の力を欲する悪しき者から詞師を護るための、今でいうSPだ。詞師の一族に仕える彼らは忍者と呼ばれていた。当時結ばれていた強い絆は、今でも解けることは無い。李玖は雫を護衛する、忍者の末裔だ。
「でもそれとこれとは話が別よ。いい加減、機械を叩いて直そうとするのはやめなさい!昭和生まれのおっちゃんか、あんたは!!」
びしっと額に雫の手刀を食らった李玖は、縮こまって正座している。
「はい。あの、ごめんなさい…」
「ごめんなさいは前も聞いた! そうやって先月洗濯機壊して先週クーラー壊して一昨日自転車分解したのは誰よ!?」
「はい。おれです」
「自転車に至っては分解というより解剖だったから! 出来ることと出来ないことの見境くらいは付けなさい!」
「はい。ごめんなさい」
「アホ!」
「はい。おっしゃるとおりで」
「まあまあ雫。そのくらいで」
「はい、じいちゃん」
「…本当に、態度が違う…」
「なんか言った!?」
「いえ、言ってないです。ごめんなさい。でも…」
「でもなに」
「そんなに、怒らなくても…」
「めそめそするな!」
「うー」
「しくしくするな!」
歴代忍者がみんなこうだとは思わないが、忍者という特性からなのか、李玖は機械にめっぽう弱い。どうしてそうなったと聞きたくなるほど弱い。そして帯電体質ではないのによく壊す。一緒にコンビニのコピー機を扱っていて、李玖が触ったとたんボタンがびよいーんと音を立てて外れた時にはさすがの雫も言葉が出なかった。あの時のびよいーんを、雫はしばらく忘れないだろう。
幼いころ、話に聞いていた詞師と忍者の関係は、決して今のようなものではなかった。もっと荘厳な、ある種神々しいものだとさえ思っていた。
間違ってもテレビを苦無で叩いて怒られるような、それでめそめそしくしく泣かれるような、そんなものではなかったのだ。
「……もういい、ご飯。お腹空いた」
「うん、じゃあ焼いてくる」
そう言って、李玖は立ち上がろうとして――膝をついた。
「なに。どしたの」
「…足、痺れた…」
雫が李玖の両足を突きまくったのは、無理もないことと言えた。
雫が李玖と出会ったのは、雫に物心がつく前だ。産まれた時から彼は傍にいる。黒峰家には李玖のほかにも数人護衛が出来るように育てられた者がいるが、李玖に一番素質があり、雫と歳も近かった。二人は幼馴染として、あるいは兄妹のように育ち、今に至る。実家が近いので校区も同じで、ある時点までは毎日一緒に登校していた。
強く気高く意地っ張りなうえに喧嘩は先手必勝の雫だが、祖父以外では李玖だけが彼女のパーソナルスペースの内側にいる。それは幼馴染だからかもしれないし、いつも護ってくれるからかもしれないし、それ以前に李玖がいつもふわりと笑っているからかもしれない。
雫がどんなにきつい口調でものを言っても、李玖は雫から離れていかない。
それがどうしてなのか、雫は聞かないでいる。
幼いころ、学校近くの川で流されかけた雫を、まだ護衛としては力不足だった李玖が命がけで助けてくれた。
それがどうしてなのかも、雫は聞けないでいる。
ただ、祖父と李玖が笑っていることが雫の幸せなのだと、自覚はしている。




