「詞師舐めんじゃないわよ」
「おれの記憶じゃなくて良かった――とか言うと、怒られるかな」
「別に怒りはしないけど。あっそって思うだけね」
「でもおれは、いつ食われてもいいように準備はしてるよ」
「知ってる。日記つけてるんでしょ」
「うん。毎日詳しく書いて毎日見直して、食われた記憶がないか確認してる」
「はぁ…」
ため息を吐くように返事をする雫に、李玖はふわりと笑って見せた。
「だから、おれに関しては大丈夫。心配しなくていいよ」
「ちなみに、昨日の夕飯については」
「微妙って書いた」
「でしょうね」
呆れながら、それでもこの男に癒されているという事実は認識している。李玖から自分の記憶が無くなったらということを、考えないようにしていることも認める。
しかし、それはそれだ。塩サバに麻婆豆腐をかけるような男の為に、雫は右往左往したくない。
ちなみに、祖父は能力者の一族なので、記憶を食われることは無い。雫の周囲で食われるとしたら、本屋の同僚かカフェの客か、李玖だけだ。雫は大学生ではあるが、同級生には心配がない。何故なら記憶が残るほど親しい友人を作っていない。
どうせいつ記憶を食われるか分からないのだ。ならば、親しい友人など作るだけ無駄だ。親しくもない人間から記憶を食われたところで、雫は痛くも痒くもない。
そうやって、雫は生きてきた。なるべく一人で済むように。
一瞬だけうつむくと、テーブル席でおしゃべりをしていた若い女性たちが席を立った。会計を済ませて、李玖が笑顔で見送る。――と、見送った体勢のままで止まった。笑顔も消えているようだ。
「李玖? どうし…」
遅れて、雫も気が付いた。
李玖の正面に来るように、スーツ姿の男が三人歩いてきている。おそらく全員三十代中盤で、全員恰幅が良い。なにかスポーツをしているのだろう。雰囲気からして、喫茶店に珈琲を飲みに来ているとは思えない。
「…当店になにか御用でしょうか」
李玖の声が低くなった。扉の正面に立って、男たちが入れないようにしている。身長だけなら李玖の方が高いが、体格の差で男たちの方がよほど大きく見える。
「じいちゃんは動かないでね」
言ってから、雫もカウンターから出た。沙羅は起きてはいるようだが動かない。
「お客さまではなさそうね」
李玖の後ろから、男たちにそう言った。彼らはじろりと雫を見下ろす。
「雫さま、ですね」
真ん中に立っている男がそう言った。それは質問ではなく確認だった。やはり喫茶店の客ではないようだ。
「ええそう。あたしが雫サマ。それがなに?」
「お迎えにあがりました。忠人さまのところにお帰りください」
半ば予想していた通りだが、忠人、という言葉を聞いた雫の眉が寄る。
「帰るもなにも、あたしの家はここだけど?」
「雫さまの力が必要なのです」
「知ったことじゃないわ」
切り捨てるように言うと、男たちの立ち位置が変わった。二人は李玖を取り囲み、もう一人は雫を正面に。
「絶対に連れて帰って来いと、言われております」
「それがどうしたってのよ。もうあたしの顔なんか見たくもないんじゃなかったの?」
「状況が変わったのです」
「だから知ったことじゃないわよ」
「今帰ってくるならば、処遇は考える、と伝言を預かっております」
「は、何さま? あたしに用事があるなら本人が来なさいよ。会ってやる気無いけど」
「雫さま。あなたの力を有効に使える機会です。忠人さまがその機会を作ってくださるのです」
「何度も同じことを言わせないで。――知るか、ばーか」
言った瞬間、一人の男が雫に襲い掛かった。同時に、残る二人は李玖を抑えようと飛びかかっている。
だが甘い。
雫は男をひょいと避けて、みぞおちに握った拳を叩き込んだ。素手ではない。カウンターから出る時に、すでにナックルダスターを装備している。雫はいつも、二十四時間三百六十五日武器を携帯しているのだ。いつ、こんなことが起きてもいいように。
男はぐっと声を出したが、筋肉の壁が厚いのか倒れることは無かった。それでも体勢を崩したので、そこを見落とさずまったく同じ場所に回し蹴りを決める。
雫は平均的な女性よりも小さめの身体付きをしているので、どうしても力では劣る。ならば、同じ場所を執拗なまでに攻撃するのが一番効果的なのだ。ちなみに靴にも武器が仕込んである。
思っていたより重い攻撃だったのだろう、男がよろける。畳みかけるように、雫は男の肩を掴んで今度は膝蹴りを入れた。ぱっと肩を放し、もう一度回し蹴り。そして渾身の力でナックルダスターを握りしめてもう一発。
それで、終いとなった。
「終わった?」
どこかのんびりとした声は李玖のもので、彼もさっさと男二人を地べたに這わせている。雫が一人をどうにか倒す間に、李玖は二人。力の差にむすっとしながらも、雫はうなずいた。
「久々ね。こんなの」
「なんかあったのかな」
「さぁ。状況が変わったとか言っていたけど。それこそ知ったことじゃないわ」
三人のうち、意識があるのは雫が倒した一人だけだ。意識はあるが動けないでいる男に、雫は冷めた視線をやった。
「ほかの二人を連れて帰りなさい。…トドメを刺されたくないならね」
「とどめ…など…」
「刺されないと思う? なら詞師の、えげつなーいトドメを差し上げましょうか? ねぇ…」
そっと、雫は男の肩に手を置こうとする。ひっと男が後退った。
「ふん。そんなに怖がるくせに連れ去ろうとするなんて。思った以上に頭が悪そうね。あんたも、あんたを雇っている男も」
「忠人さまは実の父親だろう」
「それがなに? 頭が悪いという事実に変わりはないわ。元々悪いとは思っていたけど、あんたみたいなのを雇うなんていよいよやきが廻ったのかしらね」
「お前…」
ぴくり、と雫の眉が動いた。
「……お前? 今、あたしに、お前って言った?」
雫を纏う空気が冷酷なものに変わる。それで男は、自分が失言をしたということに気が付いたようだった。
「気が変わったわ」
雫は、エプロンのポケットから短い縄を取り出した。
「李玖。こいつだけ縛って。うちに運ぶ」
「了解」
「ちょっと待て! 待ってくれ!」
「やかましい。李玖、そいつ黙らせて」
言うが早いか、李玖は男のうなじに手刀を下ろした。それで、男は動かなくなった。
それを見届けてから、雫は李玖が気絶させたうちの一人を叩き起こした。一瞬で事態を把握したその男は、青ざめた顔で雫を見上げてくる。
「帰りなさい。そこで寝てる奴も拾ってね。もう一人は借りるわ」
雫の空気に圧倒されたのか、言葉も発することなく、男は気絶している男を引きずり出した。
「あ、転職するなら願いを叶えてあげるわよー」
這いずるようにその場を後にした男に、雫は嫌味たっぷりにそう言った。
そして、その場に雫と李玖が残る。ついでに縛られた男も。
「…雫。あのさ」
言いにくそうに、李玖がそう切り出す。
「うん?」
「たとえ嫌味でも、そういうことを言うのはどうかな。それで、誰の記憶が消えるか分からないんだし」
「ああ、ごめんごめん。つい言ってやりたくなって」
「まあ、いいけど…」
李玖はそう言って、気絶させた男をひょいと肩に担いだ。店内に戻ると、雫が出ていく時と変わらず、祖父がカウンターに立っていた。沙羅は興味がないようで、こちらを見ることもしなかった。
「終わったよ、じいちゃん」
「怪我はないかね?」
「あるわけないでしょ、あんなの相手に」
「そりゃそうか」
「一人捕まえたから、ちょっと裏に行くね」
「構わんが…。珈琲でも差し入れしようかね?」
「誰への差し入れ? いいから、じいちゃんはここにいて。……決して扉を開けてはなりませんよ」
「鶴?」
「正解」
すかさず口を出して来た李玖に答えて、雫は裏口へと向かった。
雫、祖父、李玖が暮らす喫茶店は、一階が喫茶スペース、二階が住居スペースとなっている。一応三階もあるのだが、ここは三階というよりも屋根裏と言ったほうが近い。そこで雫は、三階を裏と呼んでいる。
大柄な男一人を担いでいても、李玖はそんなことはものともせずに裏へ上がる。もやしのくせに、と雫はこっそり思う。
屋根裏は普段は使っていないスペースだが、祖父や李玖のおかげで埃などは落ちていない。十畳ほどの空間に、使っていない家電や家具、季節ではない各々の洋服などが置いてある。つまり倉庫だ。
李玖が男を下ろすと、雫は文字通り男を叩き起こした。
「…ぐ…」
「はい、おはよう。短いお眠りだったけど」
男は、怯えが混じった目で雫を睨んできた。
「とりあず、名前を教えてもらえる?」
「…橋川」
「あっそ。まあ名前なんてどうでもいいけど。覚える気無いし」
「おい!」
「冗談よ。それよりあなた、忠人になんて言われてここに来たの? あんたが失敗している以上、これからもあんたみたいなのがここに来るんでしょう? どういう人たち?」
「知らない」
「ふん、知らされてない、の間違いでしょ」
「……」
「詞師については、どのくらい知っているの?」
「…それは」
「言っておくけど、黙っておくのは為にならないわよ。あたしはぱっと見どこにでもいる普通のか弱い美少女だけど、必要なら相手の指の十本や二十本や三十本、軽く叩き折ってみせるから」
「そんな脅しが効くように見えるか?」
「あらそう。せっかく詞術を使わない方向で相談してあげようとしているのに、そんな口を利くわけね」
う、と橋川が押し黙った。
「その反応を見ていると、術についてある程度は知っているようね。でも、あたしや李玖の実力については知らなかった。忠人に知らされていなかったのね。かーわいそ」
「小娘が…」
ふん、と心底馬鹿にしたように雫は笑った。
「その小娘にあっけなくやられたのは誰よ。ねぇ、今どんな気持ち? ねぇねぇ、拉致して連れて帰るつもりだったのにみっともなく返り討ちにされた挙句に捕まって縛られてるってどんな気持ち? 楽しいの? 切ないの?」
冷笑しながら問い詰める雫は心底楽しそうだ。橋川の歯ぎしりが李玖の耳にまで聞こえてくる。
「ねぇ、嬉しい? それともやるせないのかしら? 捕まってしまったけどあたしと会話が出来るのは僥倖って微妙な気持ちかしら? ああ、微妙と言えば麻婆塩サバ食べる?」
「……麻婆…なんだと?」
「行け李玖、本当に微妙な気持ちとはどういうことなのか、文字通り味わわせておやりなさい!」
「…雫。そう言われるとおれも微妙。あれはわざとじゃないんだって」
「わざとだったらぶん殴ってるわよ」
李玖にぴしゃりとそう言ってから、雫は改めて橋川に向き直った。口元だけで笑っている。
「冗談はともかく。お互いに時間の無駄は省きましょう。あなたは忠人になにを言われてここに来たの? 詞術についてなにをどこまで知っているの? うちの一族については? 言っておくけど、質問に答えなかったらあんたはもちろんあんたの家族も一族郎党末代にいたるまで詞術で叩きのめすわよ」
李玖がなにか言いたげに口を動かしたが、結局彼は何も言わなかった。
「……忠人さまには、ただ、状況が変わったので連れて帰って来いと。それだけだ。本当だ。状況についてはなにも知らない」
「なにもって…。じゃああんたただの捨て駒じゃないの」
「なんだと?」
「事実でしょ。それよりいいから続きを話しなさい」
「…こ、詞師というのは、詞術を使う術者で…」
一瞬黙った橋川だったが、話し始めた。黙っていても状況は変わらないことに気付いたのだろう。
「依頼人の願いを叶えられると聞いている。金のことも、病気のことも、仕事や対人関係のこともなんでも叶えられると」
「それで?」
「忠人さまには、おま…いや、雫さまを連れて帰れば術で願いを叶えてやると言われた。なんでも、一つだけ」
「ふうん」
「本郷家については、知っていることは少ない」
「例えば?」
「巫女と呼ばれていた時代から仕えている忍びの者がいて、今も当代詞師を護っていることとか…。しかしそいつに関しては見かけ倒しなので問題無いと聞いていた」
悔しそうに、橋川が李玖を睨んで唇を噛む。
「お気の毒さま。李玖はもやしのように見えてその実メンタルももやしだけど、喧嘩の腕と忍びの術は一流以上よ。あんた程度じゃ二十人来たって相手にならないわ。ついでにあたしもね。まあ、李玖ほどとは言わないけれど。詞師がいつまでも先祖みたいに護られているだけだと思いこむからそんな目に遭うのよ」
「…自分で暴漢やっつける巫女も聞いたことないけどね」
「李玖は黙っていなさい。――で、ほかに知っていることは?」
「表向きはホテル経営をしていることと、詞師の客には政財界のお偉方がいるということくらいだ」
「対価については?」
「対価? なんのだ?」
橋川が首を傾げる。
「知らないならいいわ。しっかし、本当に知ってることが少ないのね。大体、どんな願いも叶えられる術があるなんて、普通は信じないでしょ」
「…ここに来る前に、諜報班が報告書を上げたんだ。本郷雫が、今現在どんな生活を送っているかを何か月も掛けて調べ上げた報告書だ。書店の客に紛れていた諜報員は、あんたが術を使うところを間近で見ていた。動画もある。それに、今日の昼間に喫茶店に来ていた老婦人のことも。あんたがなにかを言ったら本当に願いが叶ったと。これだけじゃない。ほかにいくつも。…あんたも、心当たりがあるだろう」
「心当たりしかないわ。で、あなたは自分の願い叶えてほしさに未成年略取を試みた、と。警察案件ね、これ」
「…願いを叶えて欲しいと思ってなにが悪い」
「あら、開き直り? いい大人がみっともない」
「っ」
「そもそも、無理やり連れて帰っても、あたしが自分の意思で詞を唱えなきゃ願いは叶わないのよ。連れて帰るだけで願いを叶えてもらおうなんて、甘いにも程があるわね。さっきも散々ビビってたし」
「それは…あんたが俺に触れて願いを言ったら叶うんだろう。死ね、などと言われたら…」
大きな勘違いだ。だが、そこを正してやるほど雫は優しくない。李玖も口を挟まない。
「ま、それはともかく。あんた、さっきから願いを叶えられるってことばかり言っているけど、そのぶんじゃ叶えられないことは聞いてないのね?」
「叶え…られない?」
「叶いますようにっていう詞が術として有効なら、叶いませんようにっていう詞も有効に決まってるでしょ。いい? 今更だけど詞師ってのはね、詞を操るのよ?」
「それは…」
「本当に、なーんにも聞かされてないのね」
雫の声が、冷たく、低くなっていく。
「これは知っているみたいだけど、詞師は、相手の身体に触れながら詞を発することで、術を発動させるの」
そっと、雫は橋川の肩に手を置いた。白く小さな手だ。
「ねぇ、例えばこの状態で、あなたの願いが未来永劫叶いませんようにって言ったら、どうなると思う?」
橋川が固まった。
「あなたの願いは、二度と叶わない。大きな願いも小さな願いも、もう二度と。お金は手に入らない、病気は治らない、仕事はクビ、家族も持てない。持っていても失くす。まあこれらはどちらかというと大きな願いよね。小さな願いだと、例えば明日の朝はパンよりご飯だなと思っても、パンしかないとかね。好きなものも好きなように食べられなくなるし、洋服だって着たいものは着られない。好きな音楽も聴けない。だってそれがあなたの願いだから。どんなものでも、あなたの願いはもう叶わないの。未来永劫、絶対に。……かわいそうに」
「そんな馬鹿なことが…」
「人生は願い事の連続でしょう。今日はこっちの道を行きたいと思っても行けない。そもそもあそこに行きたいという願いは叶わないのだから、目的の場所に辿り着けない。パンかご飯か以前に食べたいものも食べられない。いえ、食べたいという願いが叶わない。……最終的に、生きていたいという願いも叶わなくなるわね」
「う…」
「嘘だと思うなら試してみましょうか? 言っておくけど、一度あたしが叶わないと言ったらその詞はなにがあっても取り消せないわよ。それが詞術だから。でもいいのよね? あたしを拉致しに来た時点で、あなたはこちら側に足を突っ込んでいるんだもの。まさか自分はリスクを負わずに相手には言うこと聞かせようなんて傲慢な考え方はしないわよね? まさかねぇ。そんなの、人間として終わっているものね? それとも終わらせに来たのかしら? なら手伝ってあげるけど?」
橋川はもう、言葉も出ない。
雫は息を吸った。
「あなたの願いは…」
「止めてくれ、悪かった!!」
縛られたままで、橋川はがばりと頭を下げた。
「止めてくれ…」
消え入るようなその声を聞いて、雫はすっと橋川から離れた。
「本当に、ただの甘ちゃんね」
冷たい目は、空気まで凍らせているようだ。
「詞師舐めんじゃないわよ」
それが、雫が橋川に発した、最後の言葉になった。




