「トースターでチン」
詞師、という一族がいる。千年前は巫女や祈祷師、陰陽師とも呼ばれていた、能力者の一族だ。彼らが使う術を詞術という。
平成の今、詞術を使えるのは一族の中でも雫一人だ。詞術とは文字通り、詞を発することで力を生み出す術を言う。術発動の対価は雫の記憶。ただし、雫自身の記憶ではない。
詞術は一般には知られていないし知られてはいけない。自然の流れに逆らう術など、知られれば混乱を生む。力を知るのは、極々限られた一部だ。
*
とある病院の最上階。豪華な特室が、雫の目当ての部屋だ。ナースステーションで自分の名前を記入してから病室へ向かう。途中で知り合いの看護師とすれ違い、挨拶を交わした。
「ちょっと久しぶりになってしまいました」
「学校とバイトでお忙しいんでしょう? 仕方がないですよ」
年配の看護師が、優しく微笑んでくれる。その後ろを、黒い髪を一つにまとめて大きな黒縁の眼鏡をかけた、どちらかというと地味な看護師が会釈して通り過ぎた。この病院では看護師の髪型が決められているらしく、みんな色は黒くて長ければ一つにまとめている。職業柄、化粧もおとなしめだ。おかげで中々見分けがつかないので、雫は勝手に今の人に眼鏡さんとあだ名をつけている。ほかにも、前髪を額の真ん中で分けている人をセンターさんと呼んだり、肌が白い人を色白さんと呼んだりしている。見たままじゃないかと言われれば、返す言葉は無い。
「日課の散歩は、喜んでおられるようですよ」
「なにか、話しますか?」
「それは…。看護師が話しかけるとうなずくことはあるんですけどねぇ」
濁した言葉の意味を正確に読み取って、雫は挨拶をしてその場を後にした。
病室に着いてノックをしても、中から返事は無い。ふうと息をついて、雫は扉に手をかける。個室なので、中には一人しかいない。
「入るよ」
返事は無いが、雫はいつも通りに奥に入っていく。
「調子はどう?」
ベッドに座り、虚空を見つめている女性は、雫の問いかけに目をくれようともしない。
「最近やっと涼しくなってきたね。病院だとあんまり感じないのかな。でも散歩は日課なんでしょ。そろそろ上着がいる?」
まるで聞こえてもいないように、女性は虚空を見つめたままだ。瞬きをしていなければ、人形と見紛うほどに。病院で一番いい部屋を与えられているから、そこはまるでホテルのスイートのようだ。沙羅は雫の肩から降りて、部屋にあるソファの上に座った。ただじっと女性を見ている。
「着替えや本は持ってきたけど、ほかになにか必要なものはない?」
広く清潔な部屋で、雫の言葉は、ほとんど独り言のように響く。
雫の声を聞いているのは沙羅だけだ。なにか言いたそうな雰囲気ではあるが、なにを言っても無駄であることを彼は知っているから、やはりなにも言わない。
「今日はこれから喫茶店手伝ってくるよ。看護師さんに伝えておくから、なにか必要なものがあったら連絡してもらってね」
てきぱきと、雫は持ってきた着替えやタオルを収納スペースに仕舞っていく。持ってきた袋は空になったので、そこに女性の洗濯ものを入れた。その間も、女性は雫に視線をやることもない。
「よし。こんなもんかな。ねぇ、なにか食べたいものとかない? 次に来るとき持ってくるからさ」
精一杯明るく聞いてみても、やはり返事は無い。ふうと、雫はまた息をついた。哀しい気持ちにはならなかった。もう慣れている。
「じゃあ、帰るね。……お母さん」
雫の母親は、最後まで雫を見なかった。
いつものことである。もう、四年間も。
病院から帰って来た雫は、喫茶店のエプロンを付けてカウンターに立っていた。時刻は夕方よりも少し前。ランチの後の一服をしている人が多い。その中の一人、珈琲を飲んでいた常連のご婦人が、声を掛けてくる。
「雫ちゃん、お久しぶり。二ヶ月ぶりくらいかしら」
一瞬の間を置いて、雫は小さく笑った。
「ご無沙汰しています。お元気でしたか」
「ええ、とても」
にこりと微笑むご婦人とは、実は一週間ほど前に本屋で顔を合わせている。ご婦人にはその記憶が無いのだ。ご婦人の記憶を食った沙羅は、病院から帰ってくるなりカウンターの隅で丸くなっている。その沙羅を一瞥してから、雫はご婦人に訊ねた。
「…その後、どうなりましたか」
すでに知っていることを、あえて聞く。そうしないと不思議に思われるからだ。
「ええ、それがね、大丈夫になったのよ。実はね、臨時収入があって、先方にちゃんと補償が出来たの」
嬉しそうに、ご婦人は笑う。それで、雫も笑った。
「良かった。ハナちゃんも、一時的に興奮していただけでしょうからね」
「そうなのよ。けど、やっぱり私に責任があるから申し訳なくて」
ハナちゃんというのは、このご婦人が飼っている小型犬のことだ。三か月ほど前、散歩中に他人に噛みついて怪我をさせた。原因は相手が抱えていた猫と喧嘩になったことだが、結果的にはハナの剣幕に圧されたご婦人がリードを放してしまい、猫の飼い主に噛みついてしまったのだ。猫は逃げた。逃げた後、帰って来たらしいが。
怪我をした相手はご婦人を訴えるようなことはしなかったものの、やはり誠意として、病院の治療費と見舞金は払わなければならない。それでご婦人は、頭を悩ませていたのだ。
ご婦人は真面目な人間だ。見舞金も払わずに、何事も無かったようにハナを飼い続けることは出来ない。どうしてもハナを手放したくないが、実際問題として治療費全額を払うだけでも家計が圧迫される。貯蓄もあまりなく、収入源は年金のみだ。もう珈琲を飲みに来ることも難しくなるからと、その日は挨拶に来ていた。
静かに涙を落とすご婦人を見かねた雫は、ご婦人の手に自分の手を重ねた。そして言った。
――あなたの願いが、叶いますように。
そうして、今に至る。
「藁にも縋る思いと言うのかしらね、財布に入っていた最後の小銭でスクラッチをしてみたのよ。そんなもの買ったことなんてなかったのに、そしたらびっくり。先方に支払わなきゃいけないと思っていた額がちょうど当たったの。本当にぴったりに」
「それはすごいですね」
「きっと神さまが助けてくださったのよ。これで私、人生の運を全部使ってしまったかもしれないけれど、それでいいわ。ハナちゃんと暮らせて、こうしてたまに珈琲を飲みに来れるならじゅうぶん」
「そうですか」
答える雫から少し離れたところで、李玖が複雑な顔をしていることには気づいていた。ご婦人を助けたのは神ではなく雫で、その雫は自分の記憶を対価にしている。李玖が言いたいことは解るが、黙っていろよとアイコンタクトを送る。李玖はしっかりアイコンタクトを受け取ったようで、一つうなずくと厨房へ入っていった。注文されたサンドウィッチを作る為だろう。顔色が悪かったのはアイコンタクトが怖かったからではなく照明の当たり具合からそう見えただけだ。たぶん。
次の瞬間、厨房から爆発音がした。
「!?」
雫も客も肩をびくつかせた。一人、祖父だけはのほほんと珈琲を淹れている。
「ちょっ、どうしたの!?」
慌てて厨房に入った雫は、息を飲んだ。
李玖が、頭から卵をかぶっていた。
「……どうしたの」
幾分冷めた目で李玖に問いかけると、おずおずと彼は答えた。
「あの、卵を」
「まさかレンジでチンしようとしたとか言わないわよね。今時そんなベタな真似しないわよね?」
「まさかそんなベタな」
「じゃあなにしたの」
「トースターでチン」
「変わらん!」
「アルミホイルで巻くのを忘れたのが敗因だと思う」
「言ってる場合か。怪我は?」
「卵の殻が突き刺さって痛い。これ意外に凶器になるんだね」
「そんな新発見はいらんわ。いいからとっとと殻とってサンドウィッチ作って。掃除はあたしがするから」
「はーい…」
返事を待たずに、雫はトースターの掃除を始める。まったくもう、と言いながら、もしかしたらとも思う。
結果的に、雫はご婦人との会話を打ち切れた。まさか李玖がそこまで考えているとは思えないが。
サンドウィッチ用の食パンは冷凍保存しているので、まずはそれを温めるところから始める。温めている間にフライパンで緩めのスクランブルエッグを作る。温めた食パンに自家製ソースをたっぷり塗って、レタス、スクランブルエッグ、ハムの順に置いて、挟んだら少し上から押さえてからカットする。看板メニューの一つだ。手際よく作っていく李玖が、いくら抜けているとはいえ今更トースターで卵をチンしようとするとは思えない。しかし絶対にやらないとも言えないのが李玖の李玖たる所以だ。
ごしごしとトースター内を拭きながら考えていた雫だが、本人が目の前にいるのだ。聞けばいいということに気が付いた。布巾を持つ手を止めて、振り返る。
「ねぇ、あんたまさか…」
「雫、ごめん」
「うん? なにが」
「おれ、反省してる」
「卵のことならもう」
「そうじゃなくて。いくらなんでも麻婆塩サバは無かったよね…」
今かよ。
と思ったが雫が口を開く前に李玖が続ける。
「思いついた時はいけると思ったんだよ。本当に。わざとじゃないんだ。でも結局微妙な味になってしまって、挽肉にも塩サバにも申し訳なかったなって。文句を言わずに食べてくれたじいちゃんにも」
「ねぇ、あんたまさか…」
先ほどと同じ言葉を発して、しかし先ほど考えていたのとは違う言葉を雫は続けた。
「一晩中それ考えててぼーっとしてて卵をそのままトースターに突っ込んだの? 麻婆塩サバの反省で?」
「うん、まぁ…」
「アホか! いや違う、アホだ!」
「うん、まぁ…。だからさ、おれもう麻婆塩サバは作らないよ。ここで約束する」
「なーにを良い感じの表情で言っているのよ。そもそもそんなものをどうして思いつくかなぁ」
「いや、照れるよ」
「褒めてない! もういいからとっととサンドウィッチを持っていきなさい!」
李玖がその場を離れてから、雫はトースターの掃除を再開した。考えすぎていた自分が馬鹿馬鹿しくなる。
力いっぱいトースターを拭いて、ついでに軽く厨房の掃除をしてからカウンターに戻ると、お客は減っていた。ご婦人もサンドウィッチを頼んだ老人も帰って、若い女性が二人でおしゃべりに興じているところだ。祖父は洗い物を片付けており、李玖は空いたテーブルに爪楊枝やペーパーナプキンを補充している。沙羅は相変わらず丸くなっている。雫は祖父の隣に立った。
喫茶店の大きな窓からは、西日が差し込んでいる。店全体が夕日の色だ。
「あのアホ、今日もアホよね」
「そうだなぁ」
「ったくもう…」
「雫。病院は、どうだった?」
「…変わらないよ、なんにも」
「そうか。雫は良い子だなぁ」
言いながら、祖父が頭を撫でてくれる。雫は、そっと祖父を見上げた。頬に水分がしたたっている。
「じいちゃん…」
「ん?」
「濡れる」
洗い物をしていた手をそのまま頭に乗せるので、雫の顔にも水がしたたっているのだ。
「おや。これはすまん」
「いいけどさ…」
ペーパーナプキンで頭を拭いていると、補充を終えた李玖も戻って来た。
「どうしたの」
「なんでもない」
「そういえば」
「なに」
「あのご婦人。食われた記憶はご自身だったね」
「…そうね」
記憶を食った張本人は、カウンターの隅ですやすやと寝ているままだ。
雫が詞術を使うと、雫の周囲にいる人間の記憶が食われる。それも、雫に関する記憶だけが。雫は、能力を使うたびに誰かの記憶から消えていくのだ。そうやって周囲の人間の記憶が無くなり続けると、最終的に雫は独りになる。
千年以上前に、妖――沙羅から詞師に掛けられた孤独の呪いだ。
当時は巫女や祈祷師、陰陽師とも呼ばれていた詞師は、ある時もっと強大な力を得ようと妖と契約した。代償が、詞師の力が宿った記憶。詞師が力を使うと依頼者の願いが叶う。代わりに誰かの頭の中にある詞師の記憶が消えていく。しかし記憶を与えまいと力を使わずにいると、契約違反として詞師自体の魂が食われてしまう。だから、約束した量の記憶は食わせなければならない。
厄介なのは、依頼者の願いを叶えたとしても、その依頼者の記憶が無くなるとは限らないというところだ。いつ、誰の記憶から詞師の記憶がなくなるのかは判らない。それは記憶を食う妖――沙羅の気分による。ご婦人の願いを叶えたのに、本屋の同僚の記憶が消えていたりするのだ。沙羅はわざわざ誰の記憶を食うのか教えない。考えていないのかもしれない。
そして能力者は、自分に関する願いは叶えられない。




