「麻婆塩サバ、麻婆抜きで」
彼女の名を、本郷雫という。福岡県美鷹市在住の、十九歳だ。地元の大学に通いながら、これもまた地元の本屋でアルバイトをしている。腰に届かんばかりの長い髪は焦げ茶色。これは染めているわけではなく元々の色素が薄いためだ。同じ色の瞳は切れ長で、肌は白い。身長と体重は平均よりも低め。
総じて平均よりもほんの少しきれいで小さな見た目をしている彼女には、ある能力が備わっている。
十月も半ばを過ぎた今、しつこかった残暑はやっと落ち着いて、夜の風が気持ちいい。のんびりと、雫は帰路を歩いた。
「ただいまー」
雫が帰るのは、地元で長く続いている喫茶店だ。経営者は彼女の祖父。カウンターに立ってコーヒーカップを磨いていた老人は、雫を認めると破顔一笑した。
「おかえり、雫」
「あ、おかえり」
そして、雫を出迎えるのはもう一人。雫よりも一つ年上の、二十歳の男だ。名前を黒峰李玖という。彼は人のいなくなったテーブルを拭いている。黒い髪に黒い瞳の彼は平均よりもかなり高身長なので、テーブルを拭くのも一苦労だ。腰が痛いと嘆いているのを、雫は何度も聞いた。ただ、彼は背が高いだけで筋肉質というわけではないので、雫に言わせれば「もやし」である。そのもやし…もとい、李玖は、この喫茶店兼住居に、居候している身だ。
「ただいま。お腹すいたー」
現在、二十一時を少し過ぎたところ。喫茶店はすでに閉めている時間だ。従って、ほかに人間はいない。そう、人間は。
「腹が減ったのは俺もだ」
口を開いたのは、雫の肩に乗った妖だ。山吹色に光るふさふさでさらさらの毛並み。ぴんと立った耳。四本の尻尾。キツネにもイタチにも見えるその妖の名を、沙羅という。名前は無い。沙羅という生き物だ。この妖は、ヒトの記憶を食らう。
「迷子ごときで能力を使うな」
「あたしがあたしの力をどう使おうが勝手でしょ」
「俺が力を貸していることを忘れるな」
「うるさい。我儘言うと祓うわよ」
「ふん」
するりと雫の肩から離れて、沙羅はカウンター一番奥の椅子で丸くなる。
「俺は寝る。明日はもっと質の良いものを食わせろ。迷子では極上とは言わん」
「聞こえないわね」
言いながら、雫も座る。四人掛けのテーブルに、ぐでっと頬を押し付けた。そこに、李玖が水を入れたコップを差し出してくる。にっこり笑って、彼はどうぞと言った。
「ありがと。つっかれた」
「うん、お疲れさま。……あの、雫。今日の夕飯なんだけど。おれたちは先に食べさせてもらったよ」
普段は一緒に食べているのだが、雫が本屋のバイトで遅くなる時は別々に食べている。今日は遅番だったので、雫はこれから一人で夕飯だ。
「うん。今日はなに?」
「すごく迷ってさ。麻婆豆腐にするかとんかつにするか…。雫はどっちが良かった?」
「その二択ならとんかつ」
「だよね。雫ならそう言うと思ったんだけど、結局麻婆塩サバにしたよ」
「……。なんで? なんでとんかつって言うと思ったのに麻婆塩サバ? っていうか麻婆塩サバってなに」
「塩サバに麻婆豆腐をかけたものだけど」
「わけがわからない」
「だから、まず挽肉を炒めつつ塩サバを焼いて…」
「そうじゃない。なんで麻婆豆腐と塩サバ掛け合わせたのか聞いてんの。どっちかでいいでしょうよ」
「美味しいかと思って」
「あっそ。で、お味のほどは?」
「微妙」
「でしょうね」
「夕飯、どうする?」
「麻婆塩サバ、麻婆抜きで」
「了解」
答えて、李玖はカウンター奥の厨房に消えていった。三人で揃って食事をする時は二階の居住スペースのリビングだが、一人だけの時は喫茶スペースで摂っている。洗い物が一度に片付くからだ。
残された雫が、相変わらずカップを磨いている祖父に視線をやる。
「じいちゃん、今日は変わったこと無かった?」
「無かったよ。変わった味は経験したけどね」
「止めれば良かったのに。なんなのよ、麻婆塩サバって」
「幾つになっても新しい経験はしてみたいものだよ」
「……あ、そう」
「雫は? 今日は迷子以外には…」
「使ってないよ。大丈夫」
言いながら、雫は上体を起こした。
「明日は休みだから、午後からこっち手伝うよ」
「そうかい。ありがとう。午後からというと」
「先に病院へ行くから」
「…そうかい。雫の良いようにしなさい」
それから李玖が麻婆塩サバ麻婆抜きを持ってくるまで、二人は無言だった。




