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SHIZUKU  作者: 露刃
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8/19

「雫に関することだけだよ」

「お疲れさまです」

 学校が終わり、雫は本屋にいた。本屋でのアルバイトは週に大体四回。大学生になってからすぐに始めたバイトなので、もう少しで一年と三ヶ月目に入る。

「お疲れさま」

「お疲れさまです」

 挨拶を済ませて制服に着替えた後、夕礼があってから売り場に出る。今日は平日だから、さほど混み合ってはいない。

「ちょっと、すみません」

 売り場の巡回中に後ろから声を掛けられて、雫は振り返った。常連の主婦がそこに立っていた。天気やニュースの話など、日常会話をする間柄だ。

「いらっしゃいませ。こんにちは」

「あなた、まだ新人さんよね? 本を探しているんだけど、聞いても大丈夫かしら?」

「……はい。お探しの本というのは?」

 沙羅が記憶を食っているらしい。いつものことだから、雫は眉一つ動かさなかった。知り合いが一人減っただけだ。

「……っていう本なんだけどね。わかる? 無理ならほかの店員さんに聞くけど」

「いいえ。ご案内いたします」

 小さく微笑んでから、雫は歩き出す。


 最近能力を使ったのは、この本屋で迷子を相手にした時だ。たぶんその時この主婦も来店していたのだろう。それで、記憶を食われたのだ。沙羅が記憶を食う相手はランダムに選んでいるとはいえ、術を使ったその場にいた人間を選ぶことは多い。


 ――記憶を食われるとは、どんな感覚だろうか。


 ふと、そんなことを思う。

 食われる方に感覚など無いことは解っているのだが、一度記憶したものが無くなるのだから、なにか不自然なものを感じたりはしないのかと思うのだ。

 例えば李玖は、雫との記憶が無くなってもいいように日記をつけている。今のところ李玖の記憶が食われたことは無いが、いつか日記との齟齬を見つけた時、どんな風に思うのだろう。記憶を食われても、それでも彼は雫の前では笑うのだろうか。


 そしてその時、雫はどんな風になにを感じるのだろう。

 李玖から、雫の記憶が消えたら。


 覚悟はしている。雫は詞師で、先祖がとはいえ妖と契約した身だ。人ならざる力を得るのに、対価が無いほうがおかしい。けれども、雫は思う。

 もしも、今なら。


 今ならきっと、詞師を継いだりはしなかった。


 詞術は一子相伝の術だ。雫は母親から、母親は祖母から術と契約を受け継いでいる。雫が七つの時だ。数えで七つになるまでは、妖が子どもを嫌うので契約の移行が出来ない。産まれた時から術や(ことわり)について教わり、七つの誕生日に儀式を執り行って能力と妖を受け継ぐのだ。誕生日の前に意思確認があるとはいえ、七つの子どもに対価を正しく理解しろというのは難しい。よく意味も解らないまま、契約移行の術を受け、雫は詞師となった。それは、雫に限らず母親や祖母もそうだったのであろうが。


 一方で、術と契約を渡した先代の術師は、力が無くなるわけではない。詞術は死ぬまで使える術だ。ただ、雫の母親が今術を使った場合、対価はやはり誰かの頭の中にある雫に関する記憶になる。当代の術師の記憶が消えるので、先代の術師は気を遣って術を使わなくなるだけだ。――ほとんどの場合は。


「――あ」

 主婦を目当ての本棚まで案内し終えて、雫は急に思い出した。昨日のことだ。

「ねぇ、沙羅」

「なんだ」

 基本的におしゃべりではない沙羅だが、彼は雫の呼び掛けには反応する。雫の肩に乗ったまま、返事をした。

「分家、なのよね? 昨日来た奴」

「本郷家でどういう呼び方をしているのかは知らん。だが、術師の血が入っていることは確かだ」

「昨日、じいちゃんと李玖に言い忘れたな」

 李玖が旦那という言葉に反応しすぎたせいで忘れていた。あと、祖父が嫁に行けとか言うから。いや、理由はどうでもいい。

 問題は、何故今更分家が絡んできているのかということだ。しかも、忠人の部下として。

不穏なものを感じずにはいられない。雫が思っているよりも事態は面倒くさいことになっているのかもしれない。

 と、店内にチャイムが鳴った。このチャイムはレジへの応援要請だ。

 ぱたぱたと走ってレジに向かうと、平日にしては珍しく行列が出来ていた。お待たせいたしました、と声を掛けて客を空いているレジに誘導する。


 仕事をさばきながら、雫は考える。

 最後に分家の人に会ったのはいつだっただろう。雫が正式に詞師となった頃だから、おそらく十歳よりも前。十年以上は経っている。昨日大学に来た人物に見覚えはないかと考えてみたが、思い当たらなかった。というか、分家の人間の顔を覚えていない。あの頃は、本家だの分家だのということを考えてもおらず、みんながただの親戚だった。


 本家と分家で諍いがあっていたのを知ったのは、確か中学生の頃。雫が七つになった時、術者として跡を継がせるかどうかで揉めていたらしい。もう一人、雫と歳の近い術者候補がいたからだ。そのもう一人が跡目を継いでいたら分家は滅びずに済んだ、という話をしているのを、なにかの集まりの時に聞いた。その集まりに、分家の人間は来なかったのだ。諍いがあって滅びたからだと容易に想像できた。

 分家は、要は跡目争いに負けた。雫は別に勝ちたかったわけではないが、結果的にはそうなった。分家には分家の代表と、数人の家族がいたらしい。雫が跡目を継いだせいで、本郷にいられなくなったと聞いている。その分家が、今になって雫になんの用事だろう。忠人は、知っていて雇っているのだろうか。判らないが、面倒なことになっていることだけは確かだろう。


 情報が、無い。

 レジに並ぶ客が途切れるのを待って、雫は腕時計を見た。十九時二十分。終業時間まであと四十分。唇をそっと噛んだ。なにか、焦る。

 そもそも、二日後のディナーもどうするか決めていない。忠人の言うことを聞くなどありえないにしても、なんらかの形で決着は付けないといつまでもこの状況が続くことになる。それは面白くない。というか、忠人に日時を決められていることが気に入らない。例えば明日急に本郷家を襲撃すれば驚かせることは出来るだろう。しかしそれでは、根本的な解決にならない。

 忠人の目的をはっきりさせてからでなくては。その目的を、叩き潰す算段をしてからでなくては。


――どうする。


 ふさりと、沙羅の尻尾が雫の頬に触れた。

「……沙羅」

「なんだ」

「人の記憶って美味しいの?」

「なんだ、いきなり」

「純粋な興味。迷子の記憶は極上じゃないとか言っていたけど、どんな記憶なら極上なわけ?」

「それを知ったところでお前にはなにも出来ない」

「そうね、確かに。――なら、出来ることからしなくちゃね」

 それから四十分間、雫は必要最低限のことしか言葉にせずに仕事をした。



 本郷家の屋敷に忍び込む。

 そう決意して、雫はロッカールームで着替えを終えた。祖父や李玖に言えば心配されて一人では行けなくなってしまうので、決行は夜中だ。なんでもいいから情報が欲しい。未来の旦那とやらの情報だけでも掴めれば、向こうに諦めさせるという手もある。

「お疲れさまでした!」

「うん、お疲れさま」

「うわ!」

 勢いよく裏口から出ると、そこに李玖がいた。

「あ、あんた…。なんでここに」

「迎えに来た」

「なんで?」

「今夜あたり、雫が一人で本郷家に忍び込みそうだなって思って」

 雫は、思い切り目を丸くした。

「なんで…」

「忍者の勘、かな。……帰ろう、雫」

 李玖はいつものようにふわりと笑う。手を伸ばして、雫の荷物を手に取った。仕方なく、雫も歩き出す。ここで逃げても李玖には勝てない。場違いなほど涼やかな風が、雫の頬を撫でていった。

「ねぇ、じいちゃんは? まさか一人にしてきたの?」

「大丈夫。町内会の話し合いに送っていったよ。迎えに行くまでは誰かと話して待っててって念を押してきた」

「そう。なら、いいけど。ねぇ、それにしてもなんで? なんでそんなピンポイントであたしがやろうとしていることが分かるわけ? あたしよりよほど超能力者みたいよ、あんた」

「はは。たぶん雫に関することだけだよ」

「でも、分かっているなら話は早いわ。あたし本郷家に忍び込む。こっちから動かないで忠人の出方を待つなんてもう嫌だから」

「分かってるよ。だから今日、本郷家に忍び込んできたよ」

 さらりと言われ、雫はぱちくりと瞬きをした。

「……はぁ?」

「だから、今日の昼間に本郷家とホテル本郷にちょっと行ってきたよ」

 なんてことはなさそうに、李玖はそう答えた。

「どういうことよ?」

「いや、だからさ。さっきも言ったけど、今日の夜中あたりにしびれを切らした雫が一人で本郷家に忍び込みそうな気がして。そんな危険なことさせられないから先に行ってきたってこと」

「……あたし、そんな雰囲気出してた…?」

「んー? まあ、多少」

 危険を承知で決意していたのに、ぽっきりと折られてしまった。自然と顔がむくれる。

「もう一度聞くけど、あんた、なんでそんなこと分かるのよ」

「もう一度言うけど、忍者の勘かな。幼馴染としての勘でもいいけど」

 李玖は笑う。むぅ、と頬を膨らませていた雫だが、やがて息をついた。

「それで? なんか判ったの?」

「それはまあ、いろいろと。とりあえず、帰ろう。じいちゃんが心配してるし、ご飯も作っているから。今日はカレイのムニエルだよ」

「あ、それ大好き」

「でしょ」

「まさかとは思うけど、あたしより先に忍び込んだお詫びのつもりじゃないでしょうね?」

「ははは」

「ちょっと、李玖?」

「歩きながら話すよ。じいちゃんにはもう報告してあるから」

「どんな報告?」

 雫は李玖を急かす。対して李玖は、いつもどおりにのんびりしたものだ。

「うん。まず、雫もおれたちに言ってないことがあるよね。いや、言い忘れたのかな」

「言い忘れ…あ」

 そうだった。

「分家のことね?」

「そう。端的に言って、どうやら分家がホテル本郷を乗っ取ろうとしているみたいなんだよね」

「乗っ取るって…。経営権とか、そういうこと?」

「そういうこと。忠人さん、代表の座をリコールされてる」

「リコール…」

「ワンマン経営が限界に来てるみたいだね。パワハラで訴えようとしている部下もいるんだとか。今まではお金とか権力とかでねじ伏せていたみたいだけど、少し前の経営会議で正式にリコールされたんだって」

「自業自得じゃないの」

「おれもそう思う。で、リコールを仕掛けたのが分家の人たちなんだ。忠人さんは、その社員が分家の人だってこと、知らないで雇っていたみたい。そしてたぶん今でも気付いてない」

「アホね」

 自分の父親のアホさ加減に、雫はため息をつくしかない。

「まあ、分家は十年以上前に滅んでいるし、それぞれが別の性を名乗って経歴をでっちあげれば、忠人さんだって社員全員の素性までは調べないよ。興味も無いだろうし」

「まあ、そうかもしれないけど…。状況が変わったってのはそういうことなのね。それで、あたしの能力を使ってリコールを撥ね退けようとしているってことでいいのかしら」

「たぶんね。さすがに忠人さんに直接聞くわけにはいかなかったけど」

「ふぅん。分家は復讐しようとしてるんでしょうね。忠人からホテルというお城を取り上げて。今更という気もするけど」

「確かに。忠人さんのワンマン経営なんて今に始まったことじゃないしね。証拠集めとか、タイミングを見ていたってことなのかな」

「まあ、それについてはどうでもいいけど。本郷家から追い出した分家に、今度は忠人が追い出されようとしているとか。滑稽なもんだわ」

「因果応報というからねってじいちゃんが言ってたよ」

 そうして祖父は、こうも続けたという。

「彼らの目的が、リコールだけならいいのだけどねって」

「それは、どういう…」

 意味なのかと聞きかけて、雫も理解した。

「リコールをしたうえで、あたしにもなにかしてくるってこと?」

 ゆっくりと、李玖がうなずいた。

「ここからはじいちゃんの弁になるけど。十数年前、本郷家から分家を追い出したのは忠人さんだった。少なくとも先導したのは彼。けれど、忠人さんが先導出来たのは自分のもとに雫がいたからだって」

「……――」

「もちろん雫に責任はなにも無いよ。大人の諍いに巻き込まれただけだから。そんなことは誰が見ても明白だけど、問題はそのことを分家が解っているかどうかだからさ」

「確かに…」

 どちらにしても迷惑な話だ。完全に巻き込まれているだけではないか。

「で、今後のことなんだけど」

 うん、と答えて顔を上げたら、李玖が急に立ち止まった。ぽすんと背中に顔が当たってしまう。李玖は痩せているので、背骨に額が当たって痛い。

「なに…」

 言いかけて、気が付いた。沙羅も、雫の肩の上で尻尾を逆立てている。


 囲まれていた。


「……何人?」

「五人」

 そっと聞いたら、即座に答えが返ってきた。完全に夜になっていて、辺りにはぽつんぽつんと街灯があるだけなのに、李玖には関係ないらしい。

「忠人さん派かな。それともリコール派なのかな」

「どっちでもいいわ。あたしに喧嘩を売っていることに変わりないんだから」

「どうする? 追い払うことは出来ると思うけど…」

「追い払うだけじゃ意味が無いでしょうね」

「じゃあ」

「全員捕まえる。で、それを手土産に本郷家に行こう」

「了解」


 二人で五人を捕まえるなど、普通は無理だ。しかし李玖になら不可能ではない。雫はそう確信していた。

 幸いにも、通りにはほかに人がいない。いや、人がいない通りを選ばれたのだろうが。

 ともあれ、雫はそっと李玖に背中を預けるように立ち位置を変えた。沙羅が雫の肩から飛び降りる。高みの見物をするらしい。

「どの辺?」

「そこのブロック塀の陰に二人、二つ後ろの電柱に二人、向かい側の標識の下に一人」

「夜行性の野生動物みたいね、あんた」

「はは。なんでもいいよ。雫を護れるなら。出来れば雫には動かないでほしいけど――」

「嫌に決まっているでしょ」

「だよね。なら、ブロック塀の方を確実に頼むよ。最低でも一人。あとはなんとかするから」

「わかった」

 小さく会話をしてから、同時に走り出した。

 雫たちが気付いているということには気付いていたのだろう。相手は、雫が走り出しても慌てた様子を見せなかった。

 驚いたことに、相手側に女がいた。街灯に照らされて、その顔立ちがはっきりとわかる。おそらく三十代か、それ以上。外灯しかないのに、派手な化粧が目についた。スーツではなく長袖Tシャツにジーンズだ。上にカーディガンを羽織っている。もう一人の男も似たような格好だ。周囲が暗いので、二人の髪の色までははっきりしない。明るい色ではなさそうだが。

「こんばんは。雫ちゃん」

「…馴れ馴れしくちゃん付けしないでくれる? 用事があるなら聞いてあげなくもないわよ。そちらが頭を下げて頼むならね」

「まあ、生意気だこと」

「強く気高くが信条なもので。あんたたちみたいに、夜に紛れて未成年を略取するような輩にはわからないでしょうけどね」

「略取だなんて。ちょっと会話がしたいだけよ」

「だったら私たちと会話をしてくださいってさっさとお願いしたら? あたしの気が変わらないうちに」

 あくまでも高圧的に振る舞うのは、相手を挑発して余裕を失くさせるためだ。雫とて本当は緊張している。

「じゃあ雫ちゃん。単刀直入に言うけど、私たちの側に付いてちょうだい。忠人と和解する気は無いんでしょう?」

「ふうん。ってことはあんたたちはリコール派…いえ、分家の人間ってことね。言っておくけど、あたしは誰とも慣れ合う気は無いわ」

「分家ってことはばれているのね。なら話が早いわ。あなた、私の――」

 最後まで言わせず、雫は女に突進していった。ナックルダスターを嵌めた拳で女のこめかみを狙う。うまくいけば脳震盪を起こせるはずだった。が、女はそれをぎりぎりで避けた。拳が空振りした瞬間を狙って、男が突っ込んでくる。

 伸びてくる男の腕を躱し、回し蹴りを繰り出す。男の後頭部に直撃した。男がよろけるが、すぐに体勢を持ち直す。女はそれを見て笑った。

「ふふ。やっぱり、触るのが一瞬でいいって言うのは嘘みたいね」

「……」

「本当だったら、今の瞬間に術を掛けられたはずだものね?」

「術を掛ける気が無かっただけよ。あたしの目的はあんたたちを捕まえることだもの。それにあたしは術の無駄遣いをしない主義なの。本当に嘘だと思うなら確かめに来たら? あたしに触れられる覚悟があるのなら」

 女は笑いを引っ込める。まるで化かし合いのようだが、要は勝てればいいのだ。ハッタリで勝てるならいくらでも使う。そんな雫を、沙羅はブロック塀の上から見下ろしていた。彼がなにを思っているのかは、誰にもわからない。

 やがて雫は、腰に手を当ててさらに高圧的に続けた。

「ふん。やっぱり術にびびってるんじゃない。そんなことで、よくあたしを懐柔しようだなんて思えたわね」

 一瞬のにらみ合い。次に動いたのは男の方だった。正面から飛んでくる蹴りを避けるが、次の瞬間には回し蹴りが来る。速い上に重そうで、雫は避けるので手いっぱいだ。

「ちっ」

 一発でもまともに食らえば気を失うだろう。速さだけならともかく、重さを受け止める自信はない。

 慎重に、雫は攻撃を避け続けた。ただでさえ暗くて周囲がよく見えないのだ。どうしても大げさに避けてしまう。それで余計に気力と体力を使った。女はそれを見ていて、たまに口を出してくる。

「ねえ、会話をしましょうよ、雫ちゃん。そいつには勝てないわ」

「うるさい!」

 ひょいひょいと避けていく雫に、業を煮やしたのは男の方だ。一度息をついて、大ぶりの一発を食らわせようと飛び込んでくる――瞬間を、雫は待っていた。

「うおっ!?」

 ポケットからまきびしを三つ取り出し、放り投げたのだ。暗闇で自分が踏まないようにするため、動きを読みやすい大ぶりの瞬間を待っていた。

 まきびしは、忍者が使う道具の一つ。地面に撒くことで相手に怪我を負わせるものだ。小さいが三角錐の形をしているためどう落ちても角が上に来るようになっており、とても固いので踏むとかなり痛い。

 男が怯んだ瞬間を、雫が見逃すはずが無かった。大きく飛び上がって、男のこめかみに回し蹴りを決めた。着地する瞬間に自分がまきびしを踏まないよう、ちゃんと計算して。それでも男は気絶することは無かった。だが、脳震盪でも起こしたのか雫に襲い掛かることも出来なくなった。小さなうめき声をあげて、その場に倒れ込んだのだ。

 雫の息は上がっていた。かなりぎりぎりで攻撃を避け続けたうえ、女の方がいつ手を出してくるか探っていた為である。

 荒い息を整えながら、雫は女を冷たく睨み付けた。

「…誰が、誰に勝てないって?」

「……」

「ねぇ。もう一度言ってみなさいよ。誰が誰に勝てないの? おばさん」

「おば…」

「あら、だっておばあちゃんというには早いかと思って。そっちの方が良かった? ならそう呼んであげるけど」

「…このガキ」

「ようやくちゃん付けが外れたわね。まあ呼び方なんてどうでもいいけど。いや、よくはないか。やっぱりちゃん付けされるのは気持ち悪いわ」

 独り言のようにつぶやくと、後方でどしんという音がした。振り向かなくても分かる。李玖が後ろの三人を倒したのだろう。雫の向かいに立つ女の表情からも明らかだ。

「さて、どうする? おとなしく捕まるかほかの四人を見捨てて逃げるのか。希望を聞いてあげてもいいわよ。決めるのはあたしだけど」

 どこまでも偉そうに、雫が言う。女の悔しそうな表情が街灯に照らされた。

「希望は無さそうね。なら」

 じわりと、雫が女に近づいていく。女も身体を鍛えているのだろう。一瞬だけ格闘技の構えを見せたが、すぐに解いた。

「?」

「雫!」

 雫が眉を寄せ、沙羅が叫んだ瞬間、閃光が弾けた。

「!」

 闇に慣れていた目に光が突き刺さり、目を開けていられなくなる。攻撃されることを覚悟したが、意外にも静かな声が聞こえてきただけだった。

「また会うことになるわ。あなたたちの実力が分かってよかった。一つだけ言っておくと、あなたは必ず分家と手を組むことになるわよ。――じゃあね、雫ちゃん」

 その言葉が終わると同時に、車が急ブレーキをかける音がした。そうして光が収まる頃には、女の姿はおろか男の姿も消えていた。その場に残っているのは雫と李玖と沙羅だけだった。

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