「あたしが、そうありたいからよ」
しばらくは、誰もなにも言わなかった。
最初に言葉を発したのは李玖だ。
「これで口を利いてくれるってことだよね、雫」
雫は息をついた。
「ええ、そうね」
「良かった」
嬉しそうに、にっこり笑っている。腕から血を流した状態で。
「李玖、腕が」
「平気。なんてことないよ」
「事情を説明しろ!」
李玖が言い終わるよりも前に、忠人が前に出てきた。
「だから、こいつにはこいつの考えがあって動いていたのよ。本人が言っていたもの。自分の考えがあるって」
「それはどういうことだ」
「これはあたしの勘だけど。あたしに詞師を交代してほしいんじゃないの?」
「なに? しかし、詞師は女しかなれないはずでは」
「だから女なのよ、こいつ」
「……なんだと?」
「女なの。十二年前の儀式の時、分家にあたしと歳が同じ女の子がいたんでしょう? それがこいつよ。――でしょ?」
忠人から薫に視線を移して、雫は言った。薫はしばらく雫を睨んでいたが、やがてふいと目を逸らした。それが答えだった。
そもそも昨日、友恵が言っていたのだ。忠人のところに潜り込んでいる「彼女」からの情報があったと。大学で初めて会った時から中性的だとは感じていた。
「李玖が手加減していたのも、相手が女だからよ。ったく、甘いっつーの」
「ごめん」
謝る李玖の前を通り過ぎて、雫は薫の前に膝をつく。
「忠人を本郷家の頂点から引きずり下ろして、ついでにあたしから詞術を奪いたかったんでしょう? どうして? 詞師って、そんなにいいもんじゃないわよ」
しばらくの間は黙っていた薫だが、やがて小さな声で、しかしはっきりと答えた。
「願いを叶えてやりたい相手がいる。それだけだ」
「自分のことを忘れられても?」
「そんな対価は惜しくない」
「……ふうん。ご立派だこと。でもあなた、自分で言っていたじゃない。願い事ってのは自分で叶えるもんだって」
「私の願いだ。あの人の願い事を叶えてやりたいという」
「あ、そう。物は言いようね」
「術と沙羅を渡せ」
「悪いけど渡さないわ」
「何故だ。対価よりも術が惜しくなったか」
「そんなわけないでしょ。あたし、まだ約束を果たしていないもの。それに、詞師が持っているのは術と沙羅だけじゃないわ」
「どういう意味だ」
「人に聞くばかりじゃなく、自分で考えたら? 頭は悪くなさそうなんだし」
「……」
黙ってしまった薫に背を向けて、立ち上がった雫は友恵に向き直った。
「こいつの処分はそちらに任せるわ。あたしの用事は終わったから」
友恵は、雫には答えなかった。座り込んだままの薫の前に膝をついて、彼女の肩に手を置いた。
薫からの答えは無い。言葉を発したのは雫だった。まっすぐに、忠人と向かい合う。
「あなたが今の状況を生んだのよ。お母さんを追い詰めて、分家を破壊して、いろんな人の人生を狂わせた。その結果がこれ。解る?」
「私に落ち度があるというのか」
「違う。落ち度しかないと言っているの」
「私は詞術を有効活用しただけだ。契約した分はどうしても記憶を食わせる必要があるだろう。使った術に対して金をもらうことのなにが悪い」
「術師が納得していないことが一番悪い」
「納得はしていたはずだ! 誰に忘れられても夫である私が覚えている! それで幸せだとあいつも言っていた!」
「幸せの形なんて状況によって変わるでしょうよ。実際、あたしが産まれるまでは幸せだったんでしょうね。あたしさえ産まれなければ、今も幸せだったのかもしれないけど」
「雫…」
労わるような、李玖の声が聞こえる。
「お前を妊娠した時、私もあいつも喜んだ」
「あたしが女で、術を受け継げるからでしょ」
「それがどうした? 私はあいつのこともお前のことも大切にてやったじゃないか!」
ばちんとその場に音が響いた。
雫が、忠人の頬を思い切り平手打ちしたのだ。
「お前、親を…」
「あんたが術しか見ないから、お母さんを見ないからこんなことになったんでしょうが!!」
ひっぱたいた手が痛む。その手を思い切り握った。震えるほどに。
「お母さんにはあんたしかいなかったのに、あんたは術しか見てなかった! 術を使ったお母さんを労わったことがある? 自分の記憶が無くなって会話が出来なくなる恐怖を考えたことはある? 他人の願いを叶え続けたお母さんの願いを聞いたことはある!?」
「私は、あいつが願いを言えばどんなことでも叶えようとしてきた!」
「お母さんの願いは、あんたが自分を見ることよ!!」
忠人が止まった。
「病院で虚空を見つめ続けるお母さんはね、虚空の先にあんたを見てるの。今でもあんたが自分を見つめ返してくれることを願っているの。――考えたこともないでしょう?」
「………」
「あたし、お母さんがあんたを忘れたいって願うのを待っているのに。その願いを叶えるために詞師を続けているのに」
本当に願いを叶えてやりたい相手が、願ってくれない。祖父も、母も。そして、李玖も。
なんの為の詞師だ。
「正直、あんたのなにが良くて待っているのか全然理解できないけど。とにかくそういうことよ。……詞術に呪われているのは、取り憑かれているのはお母さんじゃなくてあんただわ」
「…私は」
雫のまっすぐな視線が、忠人を遮る。
「あたし、あんたに一つ聞いてみたいことがあったんだけど」
息をついて、続けた。
「詞術を知ったのとお母さんを好きになったのと、どっちが先だったの?」
その場がしんとなった。
しばらくの間、誰もなにも言わなかった。
やがて沈黙に飽きたように、雫は李玖の腕を引いた。
「…帰ろう、李玖」
「うん。帰ろう」
ぽんと、李玖が雫の頭に手を乗せる。
「待て」
玄関に向かおうとした雫と李玖を、忠人が呼び止めた。
「なによ」
「まだ、紗耶香を返してもらっていない」
雫は軽く目を見開いた。父親が母親の名前を呼んだのは、いつぶりだろう。
忠人は、いまだ座り込む友恵と薫に視線を合わせた。
「紗耶香はどこだ? 土地はすぐに返す。リコールも受ける。賠償金も、出来る限り払う。だから無傷で帰してくれ」
それは、全面的な敗北宣言だ。忠人の視線は、雫が驚くほどに静かだった。そう、まるで憑き物が落ちたかのように。それを受けて、友恵が携帯電話を取り出す。
「すぐに病院へ戻すわ」
そこに待ったをかけたのは雫だった。
「あ、必要ないわ」
「え?」
「お母さん、病院にいるから」
「は?」
「だから、連れ去られたっていうのハッタリだから。今頃じいちゃんとお茶でも飲んでるんじゃない?」
あっさり言ってのけた雫に、友恵も忠人もぽかんとしている。最初に我に返ったのは連れ去りの一報を持ってきた使用人だった。
「で、ですが私は、確かに病院の先生から奥さまが連れ去られたと…。電話のディスプレイにも、確かに病院の名前が表示されていました!」
「そんなもん、病院に忍び込んで病院の電話使っただけよ。あ、病院のセキュリティは責めないでね。忍び込んだ腕が一流なだけだから」
「まさか…」
「李玖じゃないわ。李玖の伯父さんよ」
母親の専任護衛だった、山籠もりをしている伯父だ。昨日のうちに話を付けていたのだ。伯父に話を付けよう、と言い出したのは李玖だったが。
「言ったでしょう。お母さんには傷一つ付かないって。だって李玖の伯父さんが付いているんだもの。お母さんを連れ去ろうとした分家の人たちは、伯父さんにこてんぱんにされてるでしょうね」
「ちょっと雫ちゃん! 昨日ちゃんと話し合ったじゃない! 私たちまで騙したの!?」
「当たり前でしょ」
怒りを込めた友恵の言葉にも、雫はしれっとしたものだ。
「どうしてあたしが一時的にせよあなたたちと手を組むと思えたの? よりによってじいちゃんに手を出したあなたたちと」
「…っ。あなた…。あたしたちの願いを潰しておいて、その上」
「ああ、それね。教えてなかったけど、あたしはあんたたちに術を掛けてはいないわよ」
「は!?」
「あれもハッタリ。言葉を発しただけで、力は乗せてないわ。もう術では願いは叶わないって思わせておいた方が自分の力でなんとかしようと思うでしょ」
もう、友恵は声も出ない。
「あたしを舐めるから悪い。自分が誰に喧嘩を売ったのか、思い知ることね」
くっと笑い声が聞こえた。薫だった。
「最悪だな」
なにがとは聞かなかった。興味が無い。
「お前は、何故そんなにも強い」
「決まってるでしょ。――あたしが、そうありたいからよ」
強く、強く。雫はただ、そうでありたい。
薫はもうなにも言わなかった。代わりに忠人が雫に問う。
「つまり、病院へ行けば紗耶香に会えるということだな」
ええ、と雫はうなずいた。
「では、車を用意させよう。雫、お前も来い」
眉を寄せた雫に、忠人は続けた。
「お母さんの願いを、叶えてやるといい」




