「あたしを誰だと思ってんのよ」
その日の夜。雫はそっと自室を出た。沙羅がクッションで丸くなっているのを確認して、足音を殺しながら進む。分家の三人は薬で眠らせて喫茶スペースに転がしている。李玖が見張りをしているはずだ。
音を立てないように一階に降りて、勝手口に向かう。そっとドアノブに手を掛けようとしたところで、その手を掴まれた。
「!」
「雫」
「李玖…」
物陰に立っていた李玖が、雫の手首を掴んでいた。
「見張りは?」
「薬が効いているよ。まだ起きないから大丈夫」
「あっそ」
落ちかけた沈黙を、嫌ったのは雫の方だった。
「ちょっと。放してよ」
「ああ、ごめん。無理」
「は?」
「おれが放したら一発食らわせて走り出す気でしょ。だから無理」
完全に読まれている。
体術で李玖に勝てるなどとはまったく思っていない雫だが、隙を見て一発くらいはいけると思っていたのだ。李玖は雫には甘いのでなおのこと。
「おれは雫と遣り合う気はないから。この手は放せないな」
「あたし、行きたいところがあるの」
「うん。本郷のお屋敷でしょ」
「そうよ。じいちゃんを取り戻すの」
「うん。解るよ」
「メモには時間厳守って書いてあったけど、そんなもん守ってやる義理はないでしょ」
「ないね」
「明日までなんて待ってられないし」
「まったくだね」
「止めないでよ」
「止めないよ。おれも行くだけ」
「一人で平気よ。あんたはあの三人を見張っていて。まだ仲間が来ないとも限らないし」
「やだよ。この前も言ったけど、雫が動くときはおれも動く。そこは譲れない」
「譲ってよ」
「譲らない。――おれの存在意義を、否定しないでほしい」
普段から物腰はとても柔らかな李玖だが、実は彼はとてつもない頑固者だ。そのことを、雫はよく知っている。だからこそ、知られずに行きたかったのに。
「危険なことをするわけじゃないわ。ちょっと忍び込んでじいちゃんを返してもらうだけよ」
「本郷家に行くだけで危険だよ。そうじゃなくても、今の雫は冷静じゃない。一人で行動なんてさせられない」
「あたしは落ち着いてるわよ。今のあたしはあたし史上最高に落ち着いてるわ」
「雫」
窘めるように名前を呼ばれ、雫は一瞬怯む。
「…なによ」
「一緒に行こうよ。で、三人で帰ろう」
「あの三人はどうするのよ」
「それなんだけど」
誰に聞かれるわけでもないのに、李玖は声を潜めた。
李玖の口元に耳を寄せて話を聞く雫。
「――ってことで、どう?」
「出来るの?」
「それは雫次第でしょ」
さらっと答えた李玖に、雫は目を丸くした。それから、うなずいた。
「確かに」
「出来る?」
今度は逆に聞かれ、雫は口角を上げた。
「あたしを誰だと思ってんのよ」
それで、李玖も笑った。
「天下無敵の雫さまだよ」
共犯者的な笑みを二人で浮かべて、雫は一つうなずいた。
「じゃあ、まずは話をしないとね。――あいつら起こしてくれる?」




