「秘密なら仕方がないよ」
日付が変わろうとしている頃になっても、雫は寝付けずにいた。もう何度目になるか分からない寝返りを打ち、中空を見つめる。月明かりが差し込んでいることもあり、暗さに目が慣れて、ぼんやりと壁にかけているカレンダーが見えていた。
沙羅は、雫の部屋では寝ない。いつもテーブルのクッションだ。彼はなにも言わないが、クッションの寝心地がかなり気に入っているらしい。
と、控えめなノックが部屋に響く。
「雫。起きてるでしょ?」
李玖の声だ。言葉で答えるよりも前に、雫は起き上がった。
扉を開けると、やはり李玖が雫を見下ろしてきた。
「……なに」
「眠れてないんじゃないかなと思って。ココア淹れるけど、どう?」
「悪くない」
言って、雫は扉の外に出ようとする。が、それを止めたのも李玖だった。
「上になんか羽織ってからね」
「母ちゃんか、あんたは」
口では突っ込みながらも、雫はおとなしく椅子に掛けてあるカーディガンを手に取った。
李玖が雫を連れて行ったのは、リビングではなくその先にあるベランダだ。幅のあるベランダには、木製のテーブルが一脚と椅子が三脚置いてある。今夜は晴れていて、上弦の月が良く見えた。昼間は心地いい風が吹く季節だが、夜になると肌寒い。李玖に言われたとおり、カーディガンを羽織ってきて良かったと雫は思った。
「はい、ココア」
「ありがと」
礼を言って受け取ると、湯気が少々の余韻を残して消えた。二人は並んで椅子に座る。
「なんで起きてるって分かったの?」
「んー。幼馴染の勘かな」
「忍者じゃなくて?」
「今日はじいちゃんからあんな話を聞いたからね。いろいろ考えてるんじゃないかと思って」
「そっか」
言ってから、雫はマグカップに口をつける。熱さと甘さが心地よかった。
「じいちゃんの気持ちは、解っているつもりなの」
ぽそりと、雫は口火を切った。
「うん?」
祖父は、雫たちの会話にはほとんど入ってこない。母親のこともなにも言わない。これは雫の想像だが、母親が術を強要されている時もなにも言わなかったのではないか。
「じいちゃんは、自分が意見を言った時にそれを自分の「願い」だと思われたくないのよね、たぶん」
「うん。おれもそう思う」
「じいちゃんの願いなら全力で叶えてあげたいもの。でもそうやって願いを叶えれば、誰かの中のあたしの記憶が消える。自分のせいで忘れさせたくないんだわ」
「うん。そうだね」
「だから、なにも言わないのはじいちゃんなりの思いやりだって解ってる」
「うん」
「でもさ」
「うん」
「なにか、言ってほしい時も、あるよね」
「うん」
いつでも、雫の良いようにと繰り返す祖父。その意図が解っていても、寂しくなる時はある。
「我儘かしら」
「そんなことないよ」
即座に李玖が答えて、彼もココアに口を付けた。それから、じっと雫を見た。
「あのさ、雫」
「うん?」
「もうこの際だから聞いておきたいんだけど」
「うん。なに?」
「雫のお母さんが自殺未遂をした時のこと」
「………」
「なにがあったの?」
静かで優しい李玖の声。いつもの笑顔。話してみる気になったのは、その時のココアの香りと夜風が雫の気持ちを凪いでいったからかもしれない。
「なにがあったか、か…」
話すなら今しか無いのだろう。どこから話すべきか少し考えて、雫は結局最初から話すことにした。
「…儀式のことは覚えていないけど、あたし小学校の低学年の時には、両親の仲が壊れていることに気づいていたのよね。忠人は、ぱっと見あたしとお母さんを大切にしていたけど、それが商品としてってことは分かっていたの。お母さんはいつも忠人になにか言いたげで、でも結局いつもなにも言えずにうつむいているだけで、それがどうしようもなく腹立たしくてね」
「うん」
「お母さんはね、あたしに術と沙羅を受け渡した後も、忠人に頼まれて術を使い続けていたの」
「え…」
李玖が目を丸くした。儀式の後、雫は学校まで車で送り迎えされていたから、学年の違う李玖と話す機会は極端に減っていたのだ。
「あたし、学校に行くと毎日誰かの記憶から消えているのよ。大きなものから小さなものまで。あたしという存在が丸っと記憶から無くなるわけではないにせよ、ちょっと困ったわね。だってお互いに話が通じないんだもの。昨日遊んだ記憶が無くなることもあったし、来週遊ぶ約束を忘れられていたこともあったし。覚えられているつもりで会話をしたらまったく通じていなくてね。あたしが浮いた存在になるまで、そう時間はかからなかったわ」
李玖がそっと眉を寄せた。
「問題は、どのくらい術を使ったのか分からないということよ。当然よね。あたしが使ってるわけじゃないんだから。お母さんは忠人に請われるままに術を使っていたから、自分でも把握していなかったんじゃないかしら。それで消えていくのが娘の記憶なんだから、対価が無くていいわよね」
少しだけ口角を上げる。そうしないと話せそうになかった。
「でね、小学五年生の時。好きな人が出来たの。まあ、初恋だったし憧れに近かったと思うけど」
「好きな、人…?」
「よくある話よ。相手は教育実習で小学校に来ていた大学生。恥ずかしい話だけど、その人に褒められたくて宿題とかがんばったわ。給食の時間には先生と好物の話とか将来の夢の話とかして。かわいいでしょ」
「うん。雫はかわいいよ」
「でもある日、その人の記憶からあたしがいなくなっていたの」
「……」
「教育実習生だからね。あからさまに誰だよ、みたいな態度は取られなかったけど、話しかけたら明らかに戸惑っていて。向こうにしてみれば、ろくに口を利いたことも無い子どもが自分の好物とか夢とかを知っているわけ。気持ち悪がられて当然よね」
こくりと、一口ココアを飲む。少し冷めて、飲みやすくなっていた。
「すぐに忘れられてるんだって気が付いて、それ以降はその実習生に近づかなくなったわ。今なら知らん顔して初めましてって近づいて行けるかもしれないけど。でもやっぱりあたしなりに大切な初恋だったから、目で追っちゃうの。あの先生には迷惑を掛けたわ」
「掛けたのは雫じゃないよ」
「だとしても。話しかけても来ない生徒にひたすら目で追われたらさすがに困ったと思うのよね」
「おれは、雫にならいくら見られてもいいのに」
「あらそう。ありがとう。ともかく、そうやって初恋はあっという間に終わって、あたしの傷ついた心は両親への怒りに繋がったわけ」
なるほど、とうなずく李玖のココアはほとんど減っていない。
「いい加減にしてって母親に怒鳴ってね。そしたら忠人が飛んできて、お前が誰に忘れられようともお父さんはお前を覚えているから大丈夫だよとか言うわけよ。お前には俺がいる、みたいなことを。…今思えば、儀式の時もそんなこと言ってお母さんを篭絡したのよね、あの男」
「でも、そんな言葉は雫には通じなかったと」
「自分を高く見積もり過ぎなのよ。あたしに許可も無く術を使ってあたしの記憶を消していくんだもの。図々しいにも程があるわ」
「うん。雫の怒りはもっともだよ。でも、それからしばらくも実家にいたよね」
「お母さんが、泣いて謝るのよ」
しーちゃん、しーちゃんごめんね。どうか赦して。お母さんを一人にしないで。そばにいて。
「こちとら小学五年生よ? 母親に泣いて謝られたらそうそう家出なんか出来ないわ。行くところも無いし。それに、家出したところで詞術を知らないところで使われるってことには変わらないでしょ」
「確かに」
「決定的になったのは、中学三年生の終わり頃」
二回目の恋はまだだった。初恋相手に忘れられたのだ。そうでなくとも、雫はもう親しい人間は作っていなかった。その頃親しかった他人は、李玖をはじめとした黒峰家の人間くらいのものだ。
母親は、その日もいつものように忠人に言われて詞術を使った。
そうして、雫の記憶が消えた。――李玖の伯父から。
自分の専任忍者から、一部とはいえ娘の記憶が消えたのだ。その時になって初めて、母親は恐ろしさを覚えたらしい。
自分の記憶が、専任忍者から消えたなら、と。
「今更感が半端ないけど、気付いたのよ、やっと。人の記憶を勝手に食わせることの重大さに」
「…うん…」
李玖はその日、高校の行事で不在だったのだ。泊りがけの研修で、帰って来たのは雫の母親が入院してからだ。その頃には、忠人の目を盗んで二人でよくカフェやショッピングに行っていた。李玖が日記をつけるようになったのも、その頃からだ。ただ、肝心な時に李玖は不在だった。
「どうしようどうしよう、ごめんね赦してって、お母さんはパニックになってそればっかり。李玖の伯父さんの言葉も耳に入っていなかったと思うわ。忠人が次の依頼人を連れてきても、まともに話も出来なくて。最初は優しく宥めてた忠人も、終いには怒鳴りつけてね。他人の記憶と自分の金とどっちが大事だ、とか言い始めて。化けの皮が剥がれるってああいうことを言うのね」
絵に描いたような修羅場になった。嘆く母親と怒鳴る父親を、雫は冷めた視線で見つめていた。李玖の伯父は、おろおろと母親の背中を撫でていた。
「で、母さんが術を使わないならお前が使えと忠人に矛先向けられて」
冗談じゃない、と雫は断った。
「あたしがあたしの意思で真言を唱えないと術は発動しないしね。理由も知らずに願い事だけ叶えろだなんておこがましいって言ってやったのよ。ばーかって。そしたら思いっきり殴られた」
「な…」
今度こそはっきりと、李玖の表情が曇った。その表情を見て、雫は少し笑う。だから今まで話してこなかったのだが。
拳で殴られたのだ。左頬を、忠人の渾身の力で。当時はまだ、雫は李玖から体術を習っていなかった。
それを見てますますパニックになったのは母親だった。悲鳴を上げ、忠人を雫から引き離す。しかし忠人はそれを振り払い、さらに雫を殴ろうとする。止めようとする母親。李玖の伯父も止めに入って、彼はその一瞬だけ雫の母親から目を離した。そこが忠人の部屋で、机の上の文具立てにカッターナイフがあったのは不運でしかなかった。
母親は、それを咄嗟に掴んだのだ。
父親は母親に叫んだ。そもそもお前が言うことを聞かないのが悪いんじゃないか。俺の言う通りにしておけばいいものを。
役立たずが。
次の瞬間、母親は自分の首を斬りつけていた。
雫の、目の前で。
「とまあ、そんな感じ。お母さんは一命を取り留めたけど、意識が戻って状況を把握したら、すぐに心が壊れちゃった。それほど死ねなかったのがショックだったんでしょうね。忠人の言葉はもちろん、李玖の伯父さんの言葉もあたしの言葉ももう届かない」
豪華な個室で、日がな一日中空を眺めるだけの日々だ。
「あとは李玖も知っている通りよ。あんたの伯父さんは山に籠ってしまって、あたしは忠人に俺の言うことを聞かないのなら出て行け、縁を切ると言われて、じいちゃんを頼って出てきたの。そうしたらあんたまで付いてきたの」
「そっか…」
ココアはもうぬるくなっていた。残りを一気に飲み干すと、甘さだけが口に残った。
「お母さんが入院した直後はね、忠人も、あたしに優しくしようとしていたのよ。俺が悪かった、どうかお父さんの為に術を使ってほしいって。欲しいものはなんでも与えてやるからって。でも、あたしが欲しいものをあいつは持っていないのよ。そう言ってやったら段々本性を現してね。誰のおかげで生活出来てると思ってるんだって喚き出すのよ、十五歳の娘に向かって」
「うん…」
「で、最終的に出て行けと」
「雫…」
「ん?」
「おれの分のココアも、飲む?」
「どんな慰め方してるのよ。子どもか」
「だって…」
「涙を浮かべるな、情けない」
ぺしんと李玖の額を叩く。
「別に今更慰められることでもないのよ。お母さんは生きていて、詞術からも解放されたし。あとは、あたしが忠人とケリを付けるだけよね」
「雫は、なんで忠人さんに術をかけないの? あなたの願いが叶いませんようにって、それだけで済むんじゃないの?」
「お母さんとの約束だから」
「どんな?」
「秘密」
「そっか。じゃあ仕方がないな」
「あら、引き下がるの?」
「秘密なら仕方がないよ」
少しの沈黙の後、李玖がすっと手を伸ばしてきた。雫の左頬に触れる。
「…痛かったよね」
「もう覚えてないわ」
「その場にいてやれなくて、ごめん」
「それも李玖のせいじゃない」
「代わりたかったな」
「あんたじゃ娘の役は無理よ。ひょろくてでかいから」
「そうじゃなくて」
「わかってる。…ありがと」
しばらくの間、雫は頬を撫でられるままにしておいた。そうしたら、やっと眠気がやってきた。ぽてんと、李玖の肩に頭を預ける。
「…しゃべり疲れた。眠りそう」
「眠っていいよ。部屋に運んであげるから」
「んー…じゃあ、お願い」
ゆっくりと、雫は意識を手放した。
李玖に頭を撫でられていることが、心地よかった。




