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零階梯の神話  作者: Matsu
10/13

時界結界

時界結界の空は、レイヴァの知る空とは違っていた。


頭上には太陽がある。

その反対側には、月も浮かんでいる。


昼なのか夜なのか分からない。


雲は動いているようで、ほとんど動いていない。


風は吹いている。

草も揺れている。


それなのに、景色全体がどこか止まっているように見えた。


レイヴァはしばらく空を見上げていた。


「気持ち悪い」


素直な感想だった。


アレスが隣で笑う。


「最初はそんなもんだ!俺も昔は吐いた!」


「アレスでも吐いたんだ」


「何回も吐いた!」


なぜか誇らしげだった。


ルナが呆れたように横を見る。


「威張ることじゃないわ」


「耐えたなら勝ちだろ」


「そういう考え方だから脳筋って言われるのよ」


いつもの会話。


もう少し前なら、レイヴァはそのやり取りに戸惑っていたと思う。


今は少しだけ慣れてきた。


神。


妖怪。


そんな言葉で考えるより、アレスとルナはアレスとルナなのだと、少しずつ思い始めていた。


もちろん怖さが消えたわけではない。


アレスが本気で拳を振れば、山が崩れる。


ルナが影を動かせば、魔物が悲鳴も上げられず縛られる。


オルフェウスに至っては、何をどこまで出来るのかさえ分からない。


それでも、王城で向けられた冷たい視線より、この三人の声の方がずっと聞きやすかった。


「歩けるか」


オルフェウスが尋ねる。


レイヴァは足元を見る。


まだ少しふらつく。


時界結界へ入った直後の感覚は、思い出すだけで気分が悪くなる。


身体が流されるような、落ちるような、逆に浮き上がるような。


目を閉じていても景色が歪み、耳の奥で自分の心臓の音だけが大きく響いていた。


「歩ける」


レイヴァは答えた。


「なら来い」


オルフェウスは短く言い、平原の先へ進み始める。


レイヴァも後を追った。


足元の草は柔らかい。


死の山の湿った土とは違う。


風には獣の匂いも血の匂いも混じっていない。


あの山の奥にこんな場所があるなんて、外から見ただけでは絶対に分からないだろう。


「ここは本当に死の山の中なのか?」


レイヴァが聞く。


オルフェウスは歩きながら答える。


「死の山にある門を通じて入る場所だ。正確には、山の中そのものではない」


「別の世界?」


「近い」


「分かりにくい」


「今はその理解でいい」


説明を諦められた気がした。


ルナが後ろから口を挟む。


「現実から切り離した訓練場よ。時間の流れを無理やり変えているから、普通の生き物には長くいられない」


「俺は普通じゃないから大丈夫なの?」


「大丈夫かどうかは別問題ね」


さらっと嫌なことを言う。


アレスが笑いながら、レイヴァの背中を軽く叩いた。


「心配すんな! 死にそうになったら俺が鍛え直してやる!」


「死にそうになったら休ませてよ」


「休むより先に慣れた方が早い!」


「やっぱり安心できない」


アレスはまた笑った。


レイヴァは息を吐く。


怖い場所へ連れてこられたはずなのに、会話だけは妙に軽い。

それが少し救いだった。


しばらく歩くと、岩山の麓に建物が見えてきた。


石造りの家。


周囲には広い空き地があり、地面には無数の傷跡が残っている。


剣で抉ったような線。

炎で焼けた跡。

大きな拳で叩き割ったような穴。


誰が作ったのか、聞かなくても分かった。


「アレス」


「俺だけじゃねぇぞ!」


「半分以上アンタでしょ」


ルナの指摘に、アレスは否定しなかった。


建物の中は、外から見るより広かった。


壁には武器が並んでいる。


剣、槍、斧、弓。


見たことのない形の武器も多い。


奥には本棚があり、古びた本が隙間なく詰め込まれていた。


レイヴァはその本棚に近づく。


文字が読めない。


王城で習った文字とは全く違っていた。


形そのものが妙だ。


線が絡み合い、文字というより模様に見える。


「神代文字よ」


ルナが言う。


「人間が今使っている術式文字の元になったもの」


「これも覚えるの?」


「もちろん」


レイヴァは少しだけ顔をしかめた。


アレスが楽しそうに笑う。


「戦いだけだと思ってたか?」


「少し」


「甘ぇな! 強くなるには頭も使うんだよ!」


「アレスが言うと説得力がないわね」


「なんでだよ!」


レイヴァは本を一冊手に取った。


表紙は黒く、中央に銀色の紋様がある。


開いても、やはり読めない。


文字が目の前で形を変えているように見える。


「読めるようにする」


オルフェウスが近づき、レイヴァの額へ指を当てた。


次の瞬間、頭の奥へ何かが流れ込んできた。


知らない文字。

音。

意味。


何十、何百もの情報が一気に押し込まれる。


レイヴァは思わず膝をついた。


「っ……!」


頭が割れそうだった。


目の奥が熱い。


吐き気まで込み上げてくる。


「無理に立つな」


オルフェウスの声が聞こえる。


レイヴァは床に手をつき、息を整えた。


アレスが隣でしゃがみ込む。


「どうだ。勉強も痛ぇだろ?」


そう楽しそうに言った。


ルナが呆れながら水を差し出した。


「飲みなさい」


レイヴァは受け取り、少しずつ喉へ流し込む。


冷たい水だった。


頭痛が少しだけ引く。


しばらくしてから、もう一度本を見る。


読めた。


全てではない。


まだ意味の分からない部分は多い。


それでも、一行目の言葉だけは理解できた。


——魔法とは、世界をねじ伏せるものではない。


レイヴァは小さく呟く。


「世界へ触れるもの」


オルフェウスが頷く。


「覚えが早い」


「頭は痛いけどね」


「慣れろ」


簡単に言われた。


レイヴァは本を閉じる。


まだ五歳の身体には、今の情報だけでも重かった。


それでも、嫌ではない。


王城の勉強とは違った。


あそこでは、覚えられないことは恥だった。


間違えれば叱られた。


出来て当然。

出来なければ王族失格。


ここでは、痛くて苦しくて怖い。


けれど、覚えたものが自分の中に残っている感覚があった。


「次は実戦だ」


アレスが立ち上がる。


レイヴァは本気で嫌な顔をした。


「今?」


「今!」


「頭痛いんだけど」


「動けば治る!」


「治らないと思う」


「治るかどうかは試してからだ!」


ルナが額に手を当てた。


「本当に雑」


オルフェウスは止めない。


「短時間だけなら問題ない。魔法を覚えた直後に身体を動かすのは、感覚を馴染ませるのに向いている」


「オルフェウスまで……」


逃げ場がなかった。


数分後、レイヴァは訓練場に立っていた。


目の前には、岩のような皮膚を持つ魔物がいる。


四本の腕。

太い脚。

背中には硬そうな突起が並んでいる。


昨日の狼型よりも大きい。


近くにいるだけで、威圧感がある。


「これと戦うの?」


「安心しろ」


アレスが親指を立てる。


「死ぬ前には助けてやる」


「死ぬ前提はやめてよ」


レイヴァは右手を握る。


怖い。


やはり魔物は怖い。


けれど、昨日までとは少し違う。

今は、ただ怯えるだけではなかった。


掌に意識を集める。


火の感覚。


昨日より探しやすい。


本で読んだ言葉が頭に残っていた。

世界をねじ伏せるものではない。

触れるもの。


魔物が地面を蹴った。


速い。


大きな腕が振り下ろされる。


レイヴァは横へ飛ぶ。


地面が砕けた。


破片が頬を掠める。


痛い。


けれど足は止めない。


二撃目が来る。


レイヴァは転がるように避け、右手を前に出した。


「燐火」


小さく名前を呼ぶ。


指先から火が生まれた。


昨日より大きい。


火花ではなく、炎と言える形。


赤い火が魔物の腕へ当たる。


威力は弱い。


表面を焦がした程度だった。


魔物は怯まない。


腕が迫る。


避け切れない。


レイヴァの身体が宙へ飛んだ。


地面へ転がる。


肺から息が漏れた。


痛みで視界が滲む。


アレスがすぐ近くで声を上げる。


「まだ動けるだろ!」


「……動ける」


レイヴァは腕に力を入れ、立ち上がった。


足が震えている。


身体中が痛い。


魔物は再び向かってくる。


勝てる気はしない。


それでも、さっきの炎は出せた。


なら、もう一度。


レイヴァは息を整え、今度は逃げる方向を変えた。


魔物の腕が振られる直前、地面の石を蹴る。


体勢を崩しながらも横へ抜け、掌を魔物の横腹へ向けた。


「燐火」


炎が灯る。


二度目。


今度は少しだけ長く燃えた。


魔物が低く唸る。


大きな傷にはならない。


けれど、嫌がっている。


レイヴァはそれを見逃さなかった。


「火は効く」


小さく呟く。


アレスが笑った。


「いいぞ、考えろ!」


ルナも静かに見ている。

オルフェウスの視線は変わらない。


レイヴァは魔物を見る。


正面からでは勝てない。

近づきすぎれば潰される。


自分の炎は弱い。

なら、狙う場所を変えるしかない。


魔物が三度目の突進をする。


レイヴァは後ろへ下がらず、横へ走った。


怖かった。


けれど逃げるためではない。


魔物の足元へ向かう。


腕が振り下ろされる。


地面が砕ける。

破片が足に刺さる。


痛みを堪えながら、レイヴァは魔物の膝裏へ手を向けた。


「燐火!」


炎が弾ける。


魔物の脚が僅かに揺れた。


ほんの少し。


それでも体勢が崩れる。


そこへ、アレスが一歩踏み込んだ。


拳。


魔物の胴体が折れ曲がり、訓練場の端まで吹き飛ぶ。

岩壁へ激突し、ようやく動かなくなった。


レイヴァはその場へ座り込む。


息が荒い。

身体は痛い。

手も震えている。


アレスが近づき、満足そうに笑った。


「上出来だ」


「倒したのはアレスでしょ」


「お前が崩した」


レイヴァは顔を上げる。


アレスは珍しく、からかうような顔ではなかった。


「強ぇ奴に勝つ時は、全部自分でやる必要はねぇ。

隙を作れ。考えろ。動け。それだけで戦いになる」


レイヴァは黙って聞いていた。


強い者が敵を倒す。


それだけが戦いだと思っていた。


アレスは滅茶苦茶に見える。


実際、滅茶苦茶だ。


それでも言葉は妙に分かりやすかった。


ルナが近づき、レイヴァの頬についた血を指で拭う。


「最初にしては悪くないわ」


「褒めてるの、それ?」


「珍しく褒めてるのよ」


レイヴァは少しだけ視線を逸らした。


褒められるのは、まだ慣れない。


オルフェウスが最後に近づいてくる。


「今日覚えることは一つだ」


「何?」


「お前は弱い」


レイヴァは何も言えなかった。


事実だった。


アレスにも、ルナにも、オルフェウスにも遠く及ばない。


魔物一体にすら勝てない。


「けれど、昨日よりは進んだ」


オルフェウスは続ける。


「その積み重ねを、ここで繰り返す」


「どれくらい?」


レイヴァは聞いた。


オルフェウスは時界結界の空を見る。


太陽と月。


止まったようで、確かに流れている空。


「お前が外へ出る時、外界では十年近くが過ぎている」


「十年……」


「その間、ここではそれ以上の時間を使う」


レイヴァは言葉を失った。


十年。


今の自分には、あまりにも長い。

王城で過ごした時間より長い。

その全部をここで過ごす。


魔法を覚え、戦い、傷つき、また立つ。


想像するだけで怖かった。


それでも、もう逃げたいとは思わなかった。


レイヴァは自分の右手を見る。


燐火を灯した手。

弱くて、小さくて、すぐ消える火。


それでも確かに自分の力だった。


「やる」


短い言葉だった。


アレスが笑う。


ルナは少しだけ目を細める。


オルフェウスは静かに頷いた。


時界結界の風が吹く。


草原が揺れる。


レイヴァの修行は、その日から始まった。


最初の一年。

レイヴァは何度も倒れた。


火を出そうとして手を焼いた。


魔物に吹き飛ばされ、骨を折った。


神代文字を覚えきれず、頭痛で眠れない日もあった。


それでも、毎朝起きた。


アレスが岩を砕く音で目を覚まし、ルナの作る妙なスープを飲み、オルフェウスの無茶な課題に向き合った。


二年目。

火だけではなく、それ以外の属性も学び始めた。


三年目。

魔物の動きが、少しだけ見えるようになった。


五年目。

アレスの拳を、一度だけ避けた。


もちろん、その直後に吹き飛ばされた。


十年目。

レイヴァはもう、燐火だけの子供ではなくなっていた。


それでも時界結界の時間は、まだ終わらない。


外の世界では、ほとんど何も変わっていない。


けれど結界の中で、レイヴァ・ルクシア・レグナスの時間だけが、静かに積み重なっていった。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


少しでも面白い、続きが気になると思っていただけたら、

ブックマークや評価をいただけると励みになります。


今後とも『零階梯の神話』をよろしくお願いします。

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