第9話 今までありがとう
「気がつきましたか」
目が覚めると、碧の目が、静かにこちらを見ていた。ガランだった。
「……ガラン翅師」
「無理に起きなくていいですよ」
「いえ」
アナイティスはゆっくりと身を起こした。ここは……管理室の奥にある小さな休憩室だ。簡素な寝台に寝かされていた。肩に、ガランの上着がかけられている。
膝の上で手を重ねると、さっきの記憶が戻ってきた。魔法陣の台座。アッシュルの声。腕を掴まれた感触。そして——涙が止まらなくなった自分。
「みっともないところをお見せしました」
「みっともなくなんてありませんよ」
ガランは穏やかに言った。
アナイティスは俯いた。
「あの、アッシュル様は怒っていませんでしたか?」
「怒ってはおられませんでした」
ガランは少し間を置いた。
「ただ、ショックを受けておられるようでした」
アナイティスは顔を上げた。あの冷酷なアッシュル様が、ショックを? 想像がうまくできなかった。
「魔力測定をすると言われて、私……」
ガランは、アナイティスを安心させるように笑みを浮かべた。
「怖かったですね。アナイティス」
「あの……私に魔力が無いのは、分かっていることなのに、アッシュル様は今さらなぜ、そんなことを?」
「さぁ。私にもわかりません。ただ、何らかの理由があったのかもしれません」
「理由……」
ガランは、ほんのわずかに眉をしかめた。
「あの方の魔力は、巨大すぎる。放っておけばこの国を滅ぼしかねないほど危険なものです。何を考えているか、私にも測りかねます。私たちには見えないものが見えているのでしょう」
「そんな言い方……」
「人と違うということは、時に孤独なものですよ」
アナイティスは黙って窓の外を見た。夕暮れが近い。橙色の光が薄暗い休憩室に差し込んでいる。
「アッシュル様も、私のように人と違うから。孤独な人だから、許せと言うんですか?」
思わず、少し棘のある声がでた。
「そうは言っていません。それとこれとは別です。誰も、あなたを傷つけていいはずがない」
ガランは、ゆっくりとアナイティスの髪を撫でた。
「今日はもう帰りなさい。ゆっくり休むといい」
アナイティスは、くすぐったくなって手を払いのけた。
「もう、叔父様は、いつまで私を子ども扱いするつもりなんですか!」
「すみません。あなたが赤ちゃんの頃から知っているもので、つい」
ガランの困ったような顔に、笑みがこぼれた。思わず、アナイティスも微笑んだ。
「私のオムツをかえた話は、もうやめてくださいね!」
「お風呂だって一緒に入りましたよ」
「その話もやめてください!」
穏やかな笑い声が、休憩室に響いた。
◇◇◇
自室に帰ったアナイティスは、窓辺の椅子に腰を下ろした。肩の上でヴェルが、静かにしていた。
窓の外は、もう夜になっていた。星が少しずつ出てきている。
アナイティスは、ガランの言葉を思い出していた。
『何か理由があったのかもしれない』『強大な魔力を持ちすぎる』
その言葉が、胸の中にゆっくりと沈んでいった。
……確かに。アッシュル様は言葉が足りない人だけれど。悪い人では、なかった。“翅なし”の自分の言葉を、馬鹿にせずちゃんと聞いてくれた。階段でよろけたとき、腕を掴んで助けてくれた。魔力測定だって、きっと、何か理由があったに違いない。ただの嫌がらせで、あんなことするような人じゃない。
でも──、であればこそ、目をつけられていることが怖かった。ただの意地悪や嫌がらせでないならば、一体何が目的なのか。
蝶。きっと、蝶のことだ。
ガラン叔父様に言ってしまおうか? 全てを打ち明けて。廃棄済みにしたはずの蝶を飛ばしていたと。いや、だめだ。それじゃ、私に手を貸したことで叔父様も処分を受けるかもしれない。
怖い。
どうすれば。
だれか。
アス。
その名を思い出すと、恐怖が少し薄れた。アスと話がしたい。声を聞いて安心したい。会いたい。でも、もしアッシュル様の目的がこの蝶なら、これ以上、アスとやりとりを続けてはいけない。彼を巻き込むわけにはいかない。
アナイティスは、短く息を吐いた。そして、蝶をそっと手のひらに乗せた。翅が淡く光る。
「アス」
口を開いた。
「返事が遅くなってごめんなさい。……会いたいって言ってくれて、嬉しかった。私も、同じ気持ちだったから」
蝶の翅が、かすかに揺れた。
「私、あなたと話す時間が、好き。あなたの声が、好き。……でも、会うことはできない。それから、もうこれ以上、あなたと話すこともできない」
声が震えた。涙で視界がぼやけた。
「本当に、ごめんなさい。今までありがとう」
蝶がふわりと浮き上がった。
「気をつけて」
窓の外へ消えていく光を、アナイティスはそっと見送った。
ヴェルが頬に、そっと脚を当てた。
「……ヴェル、これで良かったんだよね」
夜風が部屋に流れ込んで、カーテンを揺らした。




