第8話 アナイティスの涙
「アッシュル首席翅師が、執務室にお呼びです」
その日の朝、見知らぬ部下が管理室に顔を出した瞬間、アナイティスの手が止まった。
アッシュル様が、私を? 頭の中に疑問符が並ぶ。しかし、首席からの呼び出しだ。拒否できるはずがない。アナイティスは「分かりました」と記録簿を置き、立ち上がった。
廊下を歩きながら、アナイティスは最悪の可能性を次々と思い浮かべた。
まさか、あの“廃棄処分”にしたはずの蝶のことが、バレちゃった? それとも昨日、三枚翅の魔法師に絡まれて怪我をさせちゃったのを怒ってる?
ヴェルが肩の上で八本の脚を折り畳んだ。考えてもしょうがない、と言ってるようだった。
「ちょっと、こういうときは励ましてよ」
ヴェルは答えなかった。
◇◇◇
首席執務室の扉を緊張しながらノックすると、「入れ」と低い声が返ってきた。
扉を開けると、アッシュルが執務席に座っていた。広い部屋だ。窓から午前の光が差し込んで、漆黒の髪をうっすらと照らしている。書類を脇に置いて、こちらを見た。黄金色の瞳が、静かにアナイティスを捉えた。
「失礼します。伝令蝶管理室のアナイティスです」
「わかっている。入れ」
アナイティスは部屋の中へ進んだ。扉が閉まった。
「アナイティス。お前の魔力測定を、私が直々にやり直す」
その言葉を聞いた瞬間、倒れそうになった。
魔力測定。
「……それは」
「蝶の研究上、必要なことだ」
アッシュルが立ち上がった。部屋の奥、魔法陣が描かれた台座の方へ向かう。当然ついてくるものだと思っている、そういう動きだった。
アナイティスは動けなかった。
魔力測定。
七歳のときの記憶が、蓋を開けたように溢れてきた。
冷たい魔法陣の上に立たされて、周りを大人たちが取り囲んで。結果が出た瞬間の、静寂。それから誰かが笑った。「魔力がないなんて」「翅なしだ」。隣に並んでいた子たちが、一人ずつ離れていって。
十歳のときも、十五歳のときも、測定のたびに同じだった。「魔力なし」「村の恥」結果は変わらない。でも毎回、その場に立たされるたびに、辛くて恥ずかしくて。身を切られるような思いだった。
「……お断りします」
声が、震えていた。
アッシュルが振り返った。
「なぜだ」
なぜ? なぜって? 生まれながらに高い魔力を持つこの人には分からないんだ。魔力無しの、“翅なし”の、この屈辱が。苦しさが。
アナイティスは泣きそうになるのを堪えて一歩、後ろへ下がった。
「私には……魔力測定を、受ける義務はないはずです」
「義務ではない。だが——」
「嫌です」
思ったより、はっきりした声が出た。
「あなたなんかに、私の気持ちが分かるはずない」
そう言った瞬間、アッシュルの顔が変わった。
驚き。そして、どこか傷ついた、哀しそうな顔だった。
なんであなたがそんな顔するのよ。傷つけられてるのはこっちなんだから。
思わず、アナイティスは扉の方へ向かった。早く戻らなければ。泣いてしまう。そう思った瞬間——腕を掴まれた。
「待て」
「——っ」
その瞬間、何かが崩れた。腕を掴まれた感触が、昔の記憶と重なった。測定の場へ連れて行かれるときの、あの感触。わかっている、あのときとは違う。今は、違う。でも身体が、言うことを聞かなかった。
「離して、ください」
声が、掠れた。目が、熱くなった。涙が、ぼろぼろと床に落ちた。
アッシュルの手が、止まった。アナイティスは俯いたまま動けなかった。泣き声が漏れないように唇を噛んだ。肩が、震えていた。息が荒くなる。
そのとき扉が、乱暴に開かれた。
灰色の髪、碧の瞳。ガランだった。
「ご無礼、ご容赦ください。私の部下が、突然呼び出されたと聞いて——」
丸眼鏡の奥の目が、状況を素早く見渡した。俯いているアナイティス。立ち尽くしているアッシュル。台座の上の魔法陣。
「アナイティス」
ガランの声は、静かだった。怒っていない。責めていない。ただ低くて、穏やかで——それだけで、何かがほどけた。
「ガラン翅師……」
気づけばアナイティスは、ガランに駆け寄っていた。子供みたいだとわかっていた。でも、足が止まらなかった。そして、その胸にしがみついて声を上げて泣いた。どうしたらいいか、分からなかった。大声でしゃくり上げて、泣くだけ泣くと——意識が遠くなった。
◇◇◇
「無礼を承知で申し上げますが。このようなやり方は、遺憾に思います」
泣きつかれて眠ったアナイティスを抱きかかえながら、ガランが言った。いつもの穏やかな声ではなかった。静かだが、芯に怒りがある声だった。
「この子は……魔力測定に、深いトラウマを持っております。それでも、事前に一言相談いただければ、このような事態にはならなかったでしょう。許しもなく首席の部屋に入ったことは謝ります。処罰はいかほどでもお受けします」
◇◇◇
アナイティスを抱えたままガランが一礼をして出ていくと、部屋に静寂が戻った。
アッシュルは動かなかった。いや、動けなかった。
泣いていた。あの顔が、頭から消えない。俯いて、唇を噛んで、肩を震わせていた顔。声を殺そうとしながら、それでも零れ落ちた涙。
『離して、ください』
その声が、耳の奥に残っていた。
俺が、泣かせたのか。腕を掴んだ。それだけのことで。蝶の研究に必要なことだった。ベルンの蝶を見つけるための手がかりになると思った。正当な理由があった。しかし今、そんなことは関係なかった。あんな顔を、させるつもりはなかった。
それに——、突然飛び込んできた、あの五枚翅。怒りを隠そうともせず、立っていた。あれは、ただの上司のそれではない。彼女は、あの男に縋って泣いていた。二人は、どういう関係だ。
アッシュルの胸の奥で、暗い靄のようなものが渦巻いていた。これが何なのか、名前はわからなかった。ただ苦しく、ただ痛かった。
——そしてその夜、蝶がやってきた。




