第7話 アッシュルの執愛
ベルンからの蝶を待っている三日間は、永遠にも似た七十二時間だった。
書類に裁可の判を押すときも、魔法式の詠唱実験をしているときも、反王政ゲリラ討伐の陣頭指揮をとっているときも、頭の片隅にはベルンのことがあった。毎晩、自宅に帰ると、窓の外を眺め、朝まで痛みに耐える。蝶が来るようになる前と、同じ夜だった。だが、痛みは以前にも増して強く、耐えがたいものに感じられた。
四日目の朝、アッシュルは屋敷を出た。
◇◇◇
その家は、王都の中心部から少し外れた路地にあった。天翅庁の魔法師がこぞって住む高級街とは正反対の、庶民的な一角だ。
「こんな朝から、一体どうした」
扉を開けたダグラエンは、寝間着の上に羽織を引っかけたまま、眠そうな顔でアッシュルを見た。茶色の癖毛が跳ね、口元には人を食ったような笑みが浮かんでいる。
ダグラエンは同じ魔法院の出身で、腕は確かな六枚翅。だが、権威を嫌い、天翅庁を出て、街で“何でも屋”のようなことをやっている。
堅苦しいことを嫌い、群れることを嫌うダグラエンは、なぜかアッシュルと馬が合った。互いに多くを語らない、それだけの理由かもしれない。アッシュルの友人と言っていい、唯一の人間だった。
「上がれ」
ダグラエンは面倒くさそうに言って、扉を開けた。
部屋の中は、相変わらず雑然としていた。書物と薬草と、正体不明の瓶が所狭しと並んでいる。アッシュルは慣れた様子で椅子を引いて座った。
「探してほしい人間がいる」
「ほう」
ダグラエンは向かいに腰を下ろして、杯に酒を注いだ。
「誰だ」
「ベルンという名の女性だ。王都の郵便局に勤めていると言っていた」
「言っていた?」
「声しか知らない」
ダグラエンの手が止まった。それからゆっくりと、アッシュルを見た。
「……声しか知らない?」
「ああ」
「一体、その女性は、お前の何なんだ」
アッシュルは少し間を置いた。
「我が家に来た、迷い蝶の送り主だ」
「は?」
「返事をかえして、それからしばらくやり取りしていた」
ダグラエンは杯を置いた。それから額に手を当てた。
「……アッシュル」
「なんだ」
「お前、その女性と知り合ってどのぐらいになる」
「……十日ほどだ」
「十日」
ダグラエンが呆れたように繰り返した。
「声しか知らない。会ったこともない。それで探し出そうとしている」
「もう三日も蝶が返ってこない」
ダグラエンは、げげっという顔をした。
「お前のその執着、やばいぞ」
アッシュルは黙った。そこには何の感情の色も無いように見えた。
「いや、俺は真剣に言ってるんだが」
ダグラエンが苦笑いした。
「普通の人間は、知り合って十日の人間を探そうとはならない。三日の沈黙で”何でも屋”のところに来たりもしない」
「……探してくれるか、どうかだけ答えろ」
「わかったよ。探すよ」
ダグラエンはため息をついた。
「お前が頼みに来ること自体、十年に一度あるかないかだからな。断ったら何をするかわからん」
「何もしない」
「その顔で言われても説得力がない」
ダグラエンは立ち上がって、棚から手帳を取り出した。
「王都の郵便局を当たればいいんだな。ベルン、女性、それだけか」
「年は、二十歳前後だろう」
「他に手がかりは」
「穏やかで、甘く優しい声をしている」
「……そんなことは聞いてない」
ダグラエンが呆れたように呟いた。
「わかった。当たってみる。ただし——」
「なんだ」
「見つかったとして、その女性が会いたくないと言ったら、お前は諦められるのか」
アッシュルは答えなかった。
「やっぱりやばい奴だな、お前」
ダグラエンが苦笑いした。
◇◇◇
その日の午後、天翅庁の廊下を歩いていたとき、階段の踊り場で声がした。
「あら、“翅なし”じゃないの。モグラが地上に上がってきたの?」
アッシュルは足を止めた。
踊り場に三人の魔法師。そして階段を上ってきたアナイティスが、書類を抱えたまま黙って通り抜けようとしている。
放っておけばいい。そう思った。部下同士の諍いに上席が介入する必要はない。
しかし次の瞬間、アナイティスがよろけて、階段の縁へ傾く。アッシュルの体は、考えるより先に動いていた。腕を掴んで引き戻した。壁の縁に手が擦れた。薄い痛み。しかしそれより——アナイティスが落ちなかったことの方が、先に確認できた。
「ごめんなさい!」
アナイティスの声が飛んできた。気づくと、両手で手首を包まれていた。
「見せてください」
アナイティスは必死な顔をしていた。この程度の傷、治癒魔法でどうとでもなると言うのに。魔力が無い者は、大げさだ。そのとき。
「すみませんでした。私のせいで。痛かったですよね」
少し申し訳なさそうな、穏やかな口調。こちらを心配する、優しい音色。
ベルン。
思わず顔を上げるとアナイティスと、目が合う。
違う。
アッシュルは即座に打ち消した。アナイティスの声は、ベルンの声とは全然違う。ベルンの声はもっと柔らかくて、もっと甘やかで——
いや、俺は少しおかしくなっている。ベルンを求めるあまり、似ても似つかない声に面影を重ねようとしている。どうかしている。一刻も早く彼女を見つけなければ。
「もういい」
アッシュルは手を引いた。アナイティスの手から、するりと抜けていく。
「怪我はないか」
「……あ、はい。おかげさまで」
「そうか」
踵を返すと、背後から「アッシュル様!必ず、お医者様に見てもらってくださいね!」という声が飛んできた。
自分の身が危なかったというのに。ずいぶんと心配性な奴だ。
しかし、アッシュルは、自分の口元がゆるむのが分かった。
◇◇◇
夜。
寝台の傍に椅子を引いて、アッシュルは窓の外を見ていた。
蝶は、今夜も来ていない。
ベルン。
胸の中で名前を呼んだ。声が聞きたかった。あの柔らかい声が。明るく鈴の音を転がしたような笑い声が。
胸が、苦しい。こんな感覚は知らなかった。痛みは知っていた。生まれた頃から、ずっと。しかしこの苦しさは、痛みとは違う。何かが足りない、という感覚だ。
狂おしいほどの想いに耐えあぐねていた、そのとき。アッシュルは、あることに気づいた。
……痛みが、ない。
あの絶えず身を刺すような痛みが、今夜は薄い。いや、ほとんど消えていると言ってもいい。
なぜだ。
何があった。
変わったことと言えば。昼間に怪我をしたこと。それだけだ。
アッシュルは手首を見た。
傷が、なかった。
怪我をしたはずの場所は、皮が剥けた跡すらない。治癒魔法を使った覚えはない。自然に治るには早すぎる。
……なぜだ。
アッシュルは手首をじっと見つめた。その黄金色の瞳に、鋭い色が宿った。
“翅なし”——アナイティスに、魔力が全くないことは一目見て分かった。しかし蝶たちは、彼女に特別懐いているように見えた。
『蝶に声をかけると、なぜか早く元気になる気がする』
アナイティスが言った言葉。そして、今——自分の傷が消え、長年の痛みが遠のいている現実。
これは、偶然ではない。
アッシュルは椅子から立ち上がった。そして、窓の外の夜を見つめながら、静かに思った。
あの女には、何かある。




