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第6話 “翅なし”

『君に、会いたい。声だけじゃなく、君に会って話がしてみたい』

 そう言われてから、もう三日も、蝶を飛ばしていなかった。


 アナイティスは眠い眼をこすりながら、管理室の棚の整理をしていた。寝不足の理由ははっきりしている。アスのあの言葉だ。あの声を聞いた瞬間、身体が固まった。会いたいと言われて嬉しかった。胸が高鳴った。自分も、きっと、同じ気持ちだった。


 でも——

 私はベルンじゃない。郵便局の女性でもない。魔力なしの、“翅なし”の、地下室のアナイティスだ。まっすぐなアスの言葉に、同じ温度で言葉を返すことができない。そう、思ってしまった。嘘から始まった関係なんだから。この嘘がばれたら、きっとアスは失望する。怒ってしまうかもしれない。そう思うと、返事ができなかった。


 ◇◇◇


 午後、上の階の書庫へ資料を返しに行くことになった。

 アナイティスは書類の束を両手で抱えて、地上への階段を上った。地下から地上へ続くこの階段は薄暗くて狭い。普段は誰も使わないところだ。


 階段をのぼる脚が重かった。体調もあまり良くない。さっさと終わらせて、今日は早く帰ろう。書庫の前で資料を棚に戻して、踵を返したとき、廊下の階段の踊り場に人影があった。


 “天上人” 上の階の魔法師たちだ。アナイティスを見ると、突っかかってくる三枚翅の三人。案の定、こちらの顔を見た瞬間、一人が口元を歪めた。


「あら、“翅なし”じゃないの。珍しい、モグラが地上に上がってきたの?」

 

 アナイティスは黙って脇を通り抜けようとした。


「無視? 相変わらず感じ悪いわね、翅なしのくせに」

 

 通り抜けようとした瞬間、魔法師の持つ書類が肩をかすめた。とっさに避けるが、立ち眩みがして、体が階段の方へと傾く。


 足が縁を踏み外す感覚。

 咄嗟に手すりを掴もうとして、届かない。

 

 落ちる——と思った瞬間。

 腕を、掴まれた。

 強い力で引き戻されて、アナイティスは廊下の壁に背中をぶつけた。


「——っ」

 

 顔を上げると、アッシュルがいた。アナイティスの腕を掴んだまま、階段の下を一瞥している。その引き戻した手が——石の壁の縁に擦れたのだろう、手首の皮が剥けて、薄く血が滲んでいた。


 後ろで、魔法師たちが息を呑む気配がした。

「あ、あの……首席翅師、これは——」


 アッシュルが振り返った。黄金色の瞳が、三人を静かに見た。

「天翅庁も、程度の低い者を雇っているものだ」


 三人は、その言葉にすくみ上ると、慌てて廊下の奥へ消えていった。


 ……さすが、八枚翅。凄味が違う。

 場違いなことを思いながら、アナイティスはアッシュルの手首を見た。血が滲んでいる。


「ごめんなさい!」

 気づいたら声が出ていた。アナイティスはアッシュルの手首を両手で包む。


「見せてください」

 

 傷は浅かった。でも確かに、じわりと赤くなっている。


「……問題ない」

「ほっとけません。血が出てるじゃないですか」

 

 アナイティスはハンカチをポケットから取り出すと、傷口に当てた。


「すみませんでした。私のせいで。痛かったですよね」

 押さえながら、顔を上げた。


 アッシュルが、こちらを見ていた。不思議な顔だった。驚いているような、戸惑っているような——この人がこんな顔をするとは思っていなかった。冷たくて完璧な顔が、今だけ、何かに似ていた。


 ……あれ。

 どこかで感じたことがある、この感じ。でも、どこで——


「もういい」

 アッシュルが静かに手を引いた。アナイティスの手から、するりと抜けていく。


「怪我はないか」

 少し、心配そうな声だった。


 アナイティスは遅れて、それが自分への言葉だと気づいた。

「……あ、はい。おかげさまで」


「そうか」

 それだけ言って、アッシュルは踵を返した。廊下を歩いていく。その背中は、いつも通り完璧で、冷たくて、近寄りがたい。


「アッシュル様! あの、必ず、お医者様に見てもらってくださいね!」

 アナイティスは、遠ざかる背に向けて声をかけた。


 ◇◇◇


 その夜、寝台で、アナイティスは昼間のことを思い出していた。


 あの手首の傷。薄く滲んだ血。ハンカチを押さえながら顔を上げたときの、アッシュル様の顔。驚いているような、戸惑っているような。あの完璧な顔に、ほんの一瞬だけ、人間らしい色が見えた。

 

「翅なし」と断定した初対面の声と、「怪我はないか」と問いかけた今日の声が、頭の中で重なっては離れる。冷酷で近寄りがたいと思っていた。でも、咄嗟に助けてくれた。怪我をしてまで。

 

「アッシュル様って、本当は……」

 天井に向かって呟きかけたとき、ヴェルが枕元からぴょんと飛び上がった。


「ちょっと、何よ急に——」

 

 ヴェルは寝台の端に陣取って、何かを脚でつついていた。あの蝶だ。八本の脚のうちの一本で、蝶をちょんちょんと指し示している。


「……なに」

 ヴェルはもう一度、蝶を脚で示した。金色の目が、じっとアナイティスを見ている。


「わかってる。アスのこと、ちゃんと考えなきゃいけないのはわかってる」

 

 ヴェルは動かなかった。


「でも……なんて返事すればいいのよ」


 アナイティスは寝台の上で膝を抱えた。

 会いたい。その言葉が、また胸の中で響く。アスの声は正直だ。飾りがない。だからこそ、どう応えればいいかわからなくなる。

 

 アスの声が好きだ。蝶を待つ時間が好きだ。返事が来るたびに、胸が温かくなる。それは全部、本当のことだ。


「……アス、眠れてるかな」


 アナイティスは蝶をそっと手のひらに乗せた。翅が淡く光る。口を開こうとして、つぐむ。……やっぱり、もう少し。もう少しだけ待ってほしい。私の覚悟が決まるまで。もう少ししたら、あなたに全部、本当のことを言うから。私が、本当は郵便局のベルンなんかじゃないって。


 ヴェルが、やれやれとでも言うように、脚を折りたたんだ。

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