第5話 アッシュルの蝶
あれほど忌々しかった夜が、来るのが楽しみになっている。
アッシュルは一人、息を吐いた。
窓の外は静かな夜だ。屋敷の執務室の燭台が、書類の上で小さく揺れている。アッシュルは翅ペンを置いて、椅子の背にもたれた。
物心ついた頃から、夜は恐怖だった。
侯爵家の次男として生まれたアッシュルは、生まれたときから魔力が高かった。触れた者が気分を悪くする。母も、乳母も、近づくことができなかった。抱き上げてもらった記憶がない。手を繋いだ記憶もない。ただ遠くから見守られるだけの子供だった。
魔力を身のうちに抑えることを覚えたのは、十歳になる頃だった。それからは誰も気分を悪くしなくなった。しかし代わりに、行き場を失った魔力が内側からアッシュルを蝕んだ。絶えず、じわりと疼く痛み。眠れない夜。特に太陽の光が完全に消えた夜は、痛みが鮮明になった。
心がなければ、痛みも感じない。
いつからか、そう思うようにした。感情を切り捨てれば、痛みから遠ざかれる気がした。誰かに近づかなければ、誰かを傷つけない。誰かを傷つけなければ、孤独でも構わない。
それでも近づいてくる者たちはいた。出世のために利用しようと、したり顔でやってくる下級貴族の令息。侯爵家に取り入ろうと、化粧の匂いをさせて近づいてくる令嬢。すべてが醜く、おぞましかった。王宮魔法師となってからは、ただひたすらに魔法学を究めることに集中した。しかし、痛みを消すすべはないかと研究を深めても、手掛かりはなく。苦痛に歪む顔が、いつしかアッシュルの普段の顔となった。
冷酷。女嫌い。近寄りがたい。いつしか、そんな言葉がついて回った。否定する気にもなれなかった。王家の命で、天翅庁首席魔法師を拝命してからもそれは変わらなかった。どうせ自分には——そう思うことに、アッシュルはいつしか慣れていた。
だから夜は、ただ耐えるものだった。
◇◇◇
始まりは、ある夜だった。寝室の長椅子の上でいつものように全身を刺すような痛みに耐えていると、見慣れない光が窓から舞い込んできた。
アッシュルにはそれが一目で伝令蝶だと分かった。しかし、天翅庁の蝶とも、宮殿の蝶とも、翅の紋様が違っていた。鱗粉で描かれた線はあまりに繊細で、まるで手刺しの刺繍のようだった。
自分に声を送る者などいない。分かりきっていた。間違いだと、追い出すべきだった。しかし——蝶はどこか、弱っているようだった。ふらふらと書類の端に降り立って、翅すら動かそうとしない。まるで自分を見るようだと思い、しばらく見つめてから、何の気なしに指先で翅に触れた。
声が、立ち上がった。
『具合が悪いの?』
女の声だった。柔らかく、独り言のような声だ。
『ごめんなさい。私には何もできなくて。でも、あなたが元気になるよう精一杯祈っているわ』
少し間があった。
『ありがとう。あなたはいつも、私たちのために一生懸命働いてくれているもの。たまには休んで。無理をしないでね』
声が、途切れた。
自分に届けようとした言葉ではない。それはわかっていた。わかっていながら——アッシュルの胸の奥で、何かが静かにほどけた。
こんな風に、誰かに言葉をかけてもらったことがあっただろうか。天翅庁では、誰もがアッシュルに何かを求める。結果を、判断を、力を。労わる言葉など、誰も向けない。向けられたとしても——受け取り方を知らない。困るだけだ。そのはずだった。
なのに。
この言葉は、自分への言葉ではない。どこかの知らない誰かに向けたものだ。それでも、自分の心に刺さってしまった。痛みの中に、声が静かに染み入ってきた。
アッシュルは再び翅に触れた。
「ありがとう。君がどこの誰かはわからないが——少し心が楽になった」
言ってから、自分でも驚いた。取り消そうと思い、立ち上がった瞬間。蝶は翅をひとつはためかせて、窓から消えた。
迷い蝶に、返事をするなど。何を馬鹿なことを。どうせ、誰のもとにも届かない。勿論、声を吹き込んだ主にも。しかし、心のどこかで、小さな期待が生まれた。
『たまには休んで。無理をしないでね』
その声が、頭から離れなかった。
◇◇◇
蝶の研究を始めたのは、その翌日だった。天翅庁の資料室で、蝶に関するあらゆる文献を引っ張り出した。部下が驚いた顔をしていたが、気にしなかった。
理由は単純だった。
あの蝶の送り手が何者なのか、知りたかった。
伝令蝶は、滅多なことでは使われない貴重な道具だ。それに、あの紋様。これまで見たどの伝令蝶とも違う気がした。調べてみると、古い文献に描かれた始祖蝶のものに、どこか似ている気がした。
あの蝶はどこから来たのか。なぜ、アッシュルのもとへたどり着いたのか。始祖蝶の生態を研究すれば、分かるかもしれない。そう思って、管理室に執務机を置くことに決めた。管理室の翅なしと五枚翅には、歓迎されないだろうと分かっていた。だが、そんなことはアッシュルには些細なことだった。
◇◇◇
そして、あの蝶が再び、寝室の窓から入って来た。
アッシュルは逸る気持ちをおさえて、蝶に触れた。
『あの、先日は声が届いてしまってごめんなさい。でも——返事をくれてありがとうございました。あなたは、だあれ? 何か、つらいことがあったの?』
心の底から相手のことを心配している事が伝わってきた。小さく可愛らしい声だ。同い年ぐらいだろうか。彼女のことが知りたい。もっと、声を聞かせてほしい。どんなことでもいいから、彼女を知りたい。
アッシュルは何かに導かれるように話し、蝶を飛ばした。やりとりを重ねるうちに、彼女がベルンという名前であること。郵便局に勤めているということを知った。両親を早くに亡くしたということも。祖母に育てられたということも。
普段は優しく穏やかな声なのに、照れたときに少し早口になる癖。笑ったときの少し吐息がまざったような声色。喜怒哀楽がはっきりと伝わる、嘘の無い音色に、アッシュルは、いつしか安らぎを覚えるようになっていった。
同時に、自分の変化にも気づいた。書類を広げながら、蝶が来る時間を計算している。執務の合間に窓を見る回数が増えた。夜、寝室の窓を少しだけ開けるとき、心に灯がともる。
ベルンの声を聞くと、その日の痛みが少し遠くなる気がした。痛みがひどい夜は、彼女の声を思い出して耐えた。暗い夜のなかで、彼女の声の余韻だけが彼の慰めだった。
◇◇◇
ある日の夜、ベルンが聞いてきた。
『アスは、好きなものはありますか?』
好きなもの。そんなものを考えたことがなかった。痛みから逃れることばかりで、自分が何を好ましいと思うのか。何が心地よいのかを考えたことは無かった。しかし、今は——。
「最近は、君の蝶を待っている時間が好きだ」
『君に、会いたい。声だけじゃなく、君に会って話がしてみたい』
口に出したあと、アッシュルはしばらく動けなかった。蝶がひらりと舞い去るなかで、彼は自分の言葉の意味を、ゆっくりと理解していた。
思わず本音を口にしてしまった。……これは、まずい。どこの誰かも分からない男に、こんなことを言われて怖くない女性がいるだろうか。警戒されて、声を返してくれなくなるかもしれない。なんてことをしてしまったんだ、自分は。だが、もう、手遅れだった。
◇◇◇
翌日、蝶は来なかった。
その夜、アッシュルは激しい痛みのなかを、燭台の炎を見つめて過ごした。そして、自分が何を望んでいるかを、初めてはっきりと自覚した。
ベルン。
声が聞きたい。
お願いだ。
蝶を飛ばしてくれ。
しかし、次の日も、その次の日も、蝶は来なかった。
やがて、後悔と焦りの中で、ある別の思いが、どろどろと身を染めてゆくのが、アッシュルには分かった。
お前が必要なんだ。
ベルン。
蝶がこなければ、
俺はお前を探し出すしかなくなる。
そうなれば。
どこにいても、必ず見つけ出す。
見つけたら、もう逃さない。
どんな手を使っても、お前を俺のものにする。
俺は——お前の声がないと、生きていけない。
燭台の炎が照らしだしたのは、
今にも獲物を絡めとろうとする蜘蛛の眼だった。




